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世之介に会いたくて、ただ会いたくて。

「世之介」は、実在する人物ではない。
井原西鶴の「好色一代男」の世之介でもない。
吉田修一氏の小説「横道世之介」の主人公、横道世之介のことだ。
「横道世之介」は毎日新聞の連載小説で、2009年に単行本化されている。

もう20年も前に、友達に薦められて、吉田修一氏の「パレード」や「パーク・ライフ」を読み、それから出す作品を追いかけて読み続けていた。
私の個人的な意見だが、吉田修一という作家は、現代作家の中で天才と呼ばれてよい人の一人だと思う。
文學会新人賞受賞でデビューしてから、芥川賞、山本周五郎賞、毎日出版文化賞、柴田錬三郎賞など、数々の文学賞を受賞。その作風・ジャンルは多岐にわたり、純文学からエンタメまで幅広い。恋愛、青春、ミステリー、スパイ、任侠、歌舞伎、人間の愛憎ドラマと、扱う題材もさまざまで、そのどれもが高いクオリティで描かれている。作品数も多く、「このスピードで、こんなに幅広いジャンルのものを、このクオリティで書けるなんて!」と、新作を読むたびにその天才ぶりに圧倒されてきた。

一時期は、出すもの出すものを読み続けていたが、「国宝」くらいから少し離れていた。私の全体的な読書量が減っていたということもある。
だから、昨年、本屋で「永遠と横道世之介」(上・下)の単行本が並んでいるのを見た時も「あ、世之介の続編なんてあるんだ。読みたいなー」と思いながらも、その時は手に取らず後回しにしてしまった。
最近になって読書をする時間もたっぷりできたことから、次は何を読もうかと考えた時、ふと世之介のことを思い出し、Amazonで買うことにした。検索してみると、2009年の「横道世之介」と昨年の「永遠と横道世之介」の間に、「おかえり横道世之介」という作品が出ていたことに気づいた。(「続 横道世之介」の改題)
つまりこのシリーズは、「横道世之介」「おかえり横道世之介」「永遠と横道世之介」の3作あるということになる。
これは「永遠」の前に「おかえり」から読むべきだろうと思い、両方を買い求めた。

「横道世之介」を2009年に読んだ時も「面白かった!」と思ったが、さすがに15年も前なので、細かい内容は忘れていた。
確か世之介という主人公が長崎から東京の大学に入り、初めての都会生活にあたふたしながら暮らし、大学ではなぜかサンバサークルに入り、友情や恋愛を経験していく……という青春ものだったな、というくらいしか覚えていなかった。

続編の「おかえり」は世之介の人生のどこから始まるのかとわくわくしながらページをめくってみると、時は1993年。世之介が就職の内定をもらえないまま大学を卒業し、池袋のアパートに住み、ほぼパチプロのような生活をしているところから物語は再開していた。
バイトで食いつなぎ、やることといったら大学時代の友人であるコモロンと安居酒屋で飲み、くだらないことを話すだけ。
そんなパッとしない生活を送るなか、元ヤンキーでバツイチ、子持ちの桜子と知り合い、付き合うようになる。桜子の兄は紫色のマークⅡに乗るような絵に描いたようなヤンキーで、父親が営む小さな自動車整備工場で働いている。世之介は桜子の実家に出入りし、持ち前の明るさとお人よしな性格が幸いし、ヤンキー兄にも桜子の息子にも好かれ、そのうち自動車工場でも働くようになるのだが……。

あらすじはこんなところだが、とにかく面白い。
世之介という人物は、どこか抜けていて、お人よしで、小心者で、パッとしないのにどうにも魅力的で。
おそらくこの小説に描かれた1年は世之介にとって人生の大きなスランプの時期だ。まともに就職もできず、やりたいことや目標もなく、順風満帆とは真逆の日々。
それでも世之介は思う。
こんなダメな時期だからこそ、出会えた人もいるんじゃないか、と。人生、万々歳だ、と。

肩の力が抜けるというか、ああ、こんなふうに生きてもいいんだと、なんだか楽になる。大切なことさえ忘れなければ。
大切なこと、それは「善良である」ということだ。
読み終わった時に、「人が善良である」ということの美しさ、尊さを思い、涙が出る。それは、ラストシーン、ある人物からの手紙に書かれている言葉がよく表してくれている。
その人は世之介のことを思い出して、こう書いた。

世の中がどんなに理不尽でも、自分がどんなに悔しい思いをしても、やっぱり善良であることを諦めちゃいけない。そう強く思うんです。

優しいとか、懸命に生きるとか、要領良くやるとか、成功するとか、そんなことではなく、ただ善良であること。それがどれほど大切なことかを思い知らされる。
ユーモアたっぷりで、何度も吹き出すほど面白い小説なのに、読み終わった時には感動で胸がいっぱいになっている。
「生きるとは?」などと説教くさいことは何ひとつ書かれていないのに、なぜか自分の生き方を見つめ直してしまう。そして、善良でありたいと強く思うのだ。
「おかえり世之介」とは、そんな小説だった。

その感動がまだ冷めないうちに、シリーズ3作目の「永遠と横道世之介」を読んだ。
前作で24歳だった世之介は、今度は39歳になって登場する。それも、あんなにふらふらしていたのに、カメラマンとして仕事をしているではないか!
あけみちゃんという女性が切り盛りする下宿「ドーミー吉祥寺の南」に住んでおり、最初はあけみちゃんと夫婦なのかなと思ったのだが、どうやら結婚はしていないらしい。
ここの個性的な下宿人たち(元芸人の営業マン礼二さん、書店員の大福さん、大学生の谷尻くん)と愉快に暮らし、途中からは知り合いのムーさんの息子、引きこもりの一歩くんまで入居することになる。

カメラマンとしての世之介、昔の彼女を忘れられない世之介、下宿人たちと楽しく生活する世之介。歳を重ねた分、多少は大人になったなと感じられるが、どんな時も相変わらず肩の力が抜けている。
ある人が世之介のことを「体温と同じくらいの温度で、浸かっているのか浸かっていないのか、よくわかんないぬるいお湯」と表現しているが、まさにそんな感じだ。

世の中で大切なものは何かを問われ、世之介はこう答える。
「この世で一番大切なのはリラックスできてること」
また、世之介は永遠を感じた瞬間をずっとカメラにおさめてきたとも言う。
「永遠を感じてシャッターを切るとき、俺すごくリラックスしてるなって。永遠ってリラックスしてるときに見えるものなのかもしれないって。そしてリラックスしているときっていうのは、きっと恐怖心がないってことなんだって」
この言葉に触れた時、なぜ私がこんなに世之介に魅力を感じるのかわかった気がした。
私は昔からずっとリラックスしていない。いつも自分で自分をがんじがらめにして、「生きるのが大変そう」と言われる。恐怖心でいっぱいなんだ。
だから、リラックスしている人に憧れるのだ。リラックスしている人って、なんてカッコいいんだろう。

この他にも、この作品は名言があふれている。
たとえば、周りから見て「無理に付き合わなくてもいいのでは?」と思うような人に対しても、世之介はきちんと向き合う。その理由を問われてこう言う。
「誰に出会うかなんてなかなか自分じゃ選べないじゃん。だったらせっかく会えた誰かを大切にした方がいいんじゃないかな」

どんな人生だったらいいのかを聞かれた時はこう言う。
「俺だったら、こう思いたいかなー。『あー、いっぱい笑った。あー、いっぱい働いた。いっぱいサボって、そんでもって、いっぱい生きたなー』って」

これは、横道世之介という人物の「なんでもないような1日」を追っていく物語だ。何度も笑い、何度もせつなくなって、涙した。
読んでいるうちに、世之介が好きで好きでたまらなくなって、物語が終わることが怖くなって、下巻の残り数十ページまできたとき、私は本をいったん閉じた。「早く結末を知りたい派」の私が途中で本を閉じるなんて、滅多にないことだ。
でも、先を読めなかったのだ。この物語が終わることが怖くて。もう世之介に会えなくなることが淋しくて。もったいなくて、しばらく残りを置いて、それから深呼吸をし、覚悟を決めて最後まで読み切った。
そして、読み終わったとき、私は号泣した。「涙を流す」なんてもんじゃない。ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、布団に突っ伏しておいおいと号泣した。横で見ていた夫が引くくらい泣いた。

断っておくが、この本は「泣かせる物語」ではない。途中やラストは確かにホロっとくるシーンもあるので、泣く人もいるとは思うが、こんなにも号泣する類のものではない。
でも、私には耐えられなかった。何の涙なのか自分でもよくわからなかった。悲しいのかせつないのか、淋しいのか感動しているのか。とにかく人生で本を読んでこんなに泣いたことはないというくらい、号泣した。

また、途中はよく笑った。本を読んで声に出して笑うことも、今までこれほどはなかったと思う。
笑って笑って、泣いて泣いて。もう私の感情はぐちゃぐちゃになった。
現実にそばにいる友達のことで笑ったり泣いたりする感覚と同じだった。読み終わる頃には世之介は私の心の中で生きていた。

今もよく世之介のことを考える。昔の友達を思い出すように。
会いたい、と思う。
会いたくて、ただ会いたくてたまらない。
「また世之介のことを考えていた」と気づくとき、「本」というのは、「小説」というのは、こんなにも読む人の心を揺さぶるのだなと改めて思う。

そして、この本に出会えてよかったと思う。
物語の中だけでも、世之介に出会えてよかった。
なんでもない1日1日を、リラックスして生きたらいいと、世之介が教えてくれたから。

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