生み出した1行を、1文を、いつか誰かの心に響かせたい。
この間、数年ぶりに人と鴨長明の話をしたせいか、何かをしている最中に時折、「方丈記」の冒頭文が頭の中に流れてくる。
この冒頭文ほど美しい調べを私は知らない、と思う。
何度繰り返しても飽きず、言葉の一つ一つが沁み入る。
今から20年ほど前、斎藤 孝先生の「声に出して読みたい日本語」という本が一大ブームとなった。今でも斎藤先生はテレビのコメンテーターなどで活躍されているが、メディアに出始めたのはこの本がきっかけだと思う。
確かこの本の中にも方丈記の冒頭文はあったと記憶する。
そう、声に出して読むと、この日本語の美しさは倍増するのだ。
鴨長明のリズム感の良さは、彼が琵琶の名手だったことにも関係しているのだろうか。
冒頭文ばかりが有名でほとんど知られていないが、「方丈記」の最後のほうにも名文がある。鴨長明の生き方や性格を表したような文章で、私は20歳くらいの時にそれを何度も何度も読んだ。下記がそれだ。
今、さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから、都に出て、身の乞がいとなれる事を恥づといへども、帰りてここに居る時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。
もし、人この云へる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願う。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、たれかさとらむ。
出家せざるを得なくなり、都から山の中へ移り住み、まるで乞食のような生活をしている長明。たった一間のみずぼらしい家で暮らしているのだが、それを「みづからこれを愛す」と言う。人々が俗世のことに心を奪われて生活しているのを憐みさえする、と。
もし、それを疑うんだったら、魚や鳥を見てほしい。魚は水に飽きないし、鳥は林で飛び回ることを望んでいる。でも、魚や鳥じゃないから、その心はわからない。それと同じで、この私の家がどれほど良いか、住んだことがないのに誰もわからないだろう。
そう言っているのだ。
長明は自分の家づくりについても「方丈記」の中で詳細に述べている。
簡単に言えば、半分は阿弥陀や普賢菩薩の絵を飾って、法華経を置いて、「出家した自分」用の部屋にしている。そして、もう半分は、捨てきれなかった俗世のもの、たとえば、和歌の本や楽譜、琴、琵琶など楽器を置いて「俗世の自分」用の部屋にしているのだ。
私が鴨長明という人物を愛してやまなかったのは、この人間らしさの部分だ。
出家したのに、しきれない。俗世を捨てたのに、捨てきれない。
だって、和歌も琵琶の演奏も大好きなのだ、この人は。根っからのロッカーなのだ(※私だけの解釈)。
だから、方丈の間を半分に仕切り、完全に「仏用」「趣味用」と分けているのだ。
いろいろな書物を調べていくと、長明がどれほど琵琶の演奏が好きだったかを示すようなエピソードもあって、面白い。
当時の学生だった私は思っていた。「長明、かっけー!!」
あんな名文を残すような人だ。本当に言葉やリズムのセンスが良かったのだと思う。
もし興味が出たら、ぜひ「方丈記」を読んでみてほしい。原文のリズムに触れてほしいので、原文に訳がついているものがおすすめだ。
もう1つ、私が「声に出して読みたい美しい日本語」だと思っている名文がある。森鴎外の「舞姫」の一節だ。
高校の国語の授業で初めて「舞姫」を読んだ。高2や高3の私なんて、だいたい2時間目から学校に来るか、来ても寝ているか、友達と授業を抜け出して校舎の屋根の上に隠れているか、昼休みに学校を抜け出して帰ってこないかのどれかだった。成績はどんどん落ちて、下から数えて数番目の落ちこぼれだった。
その日も相変わらずぼんやりと授業を受けていた。
が、当てられたクラスメイトが読んだその一文で目が覚めた。体中に電気が走ったように震えた。
それは、主人公が初めてエリスを見た時の描写だ。
これはなんだろうかと思った。教科書を食い入るように見て、何度も同じ箇所を読み返した。美しい言葉というのは本当にあるのだと知った。
ただ、それ以降、森鴎外を好きになったかといえば、それはなかったのだが。
でも、自分はやはり文学が好きだ。日本語が好きだ。それも近代以前の古い文学と言葉が好きだ。その想いは強くなり、大学は文学部で国文学を学ぼうと決意した。(相変わらず勉強には身が入らなかったが)
日本語の美しさに心奪われた私がライターになったのは、必然ともいえることなのかもしれないなと、今は思う。
あんな人の心を震わすような名文はいまだに書けていないが、いつか一文でも書いて残したい。人がハッとするような響きを綴りたい。
エリック・クラプトンがギターの最初の1音で人の心を震わせるように。
そんな音を出せる人間になりたいと思いながら、毎日書き続けている。
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