“わがまま”の大切さについて
注記:本記事は何らかの“根拠”や“実績”に基づくものではありません。また別記事「提案型無根拠記事のススメ」の続編的内容です。もしよろしければそちらもご覧ください。
■ 親族に対する“わがまま”と世間に対する“わがまま”
自己紹介欄で記載したように私は怠惰・臆病・飽き性(根気がない)人間です。おまけに高齢の親族に現在扶養されている引きこもり生活者という情けない状況にあります。
このような私の社会的属性に嫌悪感を抱く人が多数いることは十分に承知しています。特に私と親族との関係を問題視してこう思うでしょう。
「そんな生活をしていて申し訳なく思わないのか。」と。
率直に言って私は扶養してくれている親族に負い目を抱いており、なおかつ当然ながら感謝しています。またその親族に道義的にいつまでも頼るべきではないという以上に実際問題としてこのような生活をいつまでも続けることはできないと考えています。そしてこのような境遇から脱するための試みの一つとしてこのnoteでの活動を始めたわけです。
もちろんnoteでの収益獲得が一般的に言って簡単なことでないことは承知しています。
「それならさっさと就職しろよ。」
と早速世間の声が聞こえてきそうです。
自己紹介欄に書いたように私は畢竟の宿願である書物を完成のために、労働することは拒否しています。私は結構長い間、事務職で働いてきましたがこの宿願は働き始める以前から抱いていたものです。しかしそのような労働生活と書物の完成への活動の両立は不可能であることを悟って退職を決意したのです。労働によって私が被る疲労感が私自身の職務上の無能ぶりもあって退職間際の頃には耐えられなくなったことも大きいことは認めますが。
以上のような説明は扶養してくれている親族にも説明しています。親族は私の説明を全面的に受け入れているわけではありません。しかし一方で退職金を取り崩して生活費を負担することを親族に申し出ても、私に対する将来的な心配もあって断られている状態です。そしてそれに私は甘えてしまっているわけです。
ここで大方の世間の皆様は呆れてこう叫ぶでしょう。
「わがまま過ぎる。そんなことは許されない。」
ここで私はそのように言いたがる方々へ異議を唱えたい。
「確かに私は“わがまま”で、かつ情けない。しかし私は扶養している親族からの批判に対して応答する責任はあるとしても、世間の名の下において“許されない”という声に対しては従う義務もなければ応答する義務すら本来はありません。なぜなら私の“わがまま”は私を扶養する親族に対してのものであって、世間一般に対する“わがまま”なのではないからです。私は世間に対して何ら“迷惑”はかけておらず、よって私は世間から“わがまま”とか“許されない”と指弾される理由はありません。」
■ 少数者は多数派の支配を受け入れることが当然なのか
自分の意見としてでなく、世間の一員として発言する人たちは、世間という多数派であることを根拠に発言を正当化しようとします。しかし仮にその人の発言が世間の多数派のものであることが正しい事実であると承認したとしても、少数者は多数派の生き方に倣わなければならないことまで正しいと言えるのでしょうか。もしそれが正しいのなら世間は少数者としての生き方を基本的に認めてないことになります。それは差別以外の何物でもありません。
実際、“世間の人”としての発言は暗黙のうちにそのような姿勢を肯定しているように見えます。だから“世間の人”としての発言は往々にして少数者の生き方に対して圧迫的で差別的なものとなりがちなのです。私から見ればそれは多数派の少数者に対する横暴です。
■ 世間に順応して生きることの意味
「横暴」は一種の“わがまま”を通すことに他なりません。世間からの圧力とは集団的に形成された個人に対する世間の側の“わがまま”であることに気づくべきです。そして世間に順応して生きるということは、自分の“わがまま”を押し殺して生きる、あるいは自分のかけがえのない“わがまま”を擦り減らしながら生きることになっているかもしれない、ということなのです。
ただ多くの人は世間からの要求を織り込んで生きることにさほど苦痛を感じません。自分のやりたいことが世間の要求の方向性と一致しているようなタイプの人たちはそうなります。そして多くの人はそうなるように努力して世間の要求の方向性に沿った理想的な自己像を作り上げて、それに近づいていくことで自己承認欲求を満たしているわけです。
もちろんそのような生き方を否定するつもりはありません。しかし繰り返しますが多くの人がそのように世間の価値観に沿った生活をしているからと言ってすべての人が世間に合わせた生き方をしなければならない、という考えは到底承服できません。日本国憲法第13条には幸福追求権と呼ばれる規定がありますが、世間の多数の考えに合わせた生き方をしなければならないという圧力を他人にかけるのはこの権利の侵害に該当します。追求されるべき幸福は各個人ごとに多様であることを当然のこととして認められるべきです。
■ 私の考えが世間の考えとズレていった理由
私は十代のころから友達というものを作りませんでした。いじめられていたとか、作ろうとしても友達になるのを拒否されていたとかではなく、特に欲しいとは思わなかったのです。色々なことを一人であれこれ考えることが十分に楽しくて、以来特に私は友達を必要と思わずに現在まで生きてきました。また友達がおらず一人でいることに関して劣等感を抱く感情も薄かったと思います。
だから私は世間の価値観からズレたことを考えることに大したためらいや抵抗感がありませんでした。友達付き合いが豊富なタイプの人は友達と考えることがズレてしまうことをかなり恐れることが多いように思いますが、私は友達自体がいなかったせいでそういう恐怖心はあまりなかったのです。
ただ私は物事を自由に考えようとした結果、世間と考え方がズレていったのであって、世間に対して反感や斜に構えた姿勢が先にあって、世間の考え方との差別化を図ろうとしていたわけではありません。だから私は自分の考えが世間とはズレていることは認めますが、根本的に反世間的な志向の持ち主ではありません。私は世間の考えを押し付けられることには抵抗し批判しますが、それによって世間の考え方自体を変えてやろうとか、自分の生き方として世間に対する反抗をテーマにしようなどとは思いません。そもそもそれらが私に可能とも思っていません。
■ 世間の通念を踏まえることが記事作成には不可欠
とは言うもののnoteに記事を書くという行為は当然、他人に向けたものです。他人、すなわち読者に理解してもらえる文章にするためには世間一般の価値観や世間の常識を踏まえたものにする必要があります。私のように世間の価値観や常識に沿わない内容の提起をする者でもそこから超然とした立場から文章を作るわけにはいきません。さもなければほとんど誰にも理解されない記事が出来上がってしまいます。
私は「世間の価値観や常識」からズレた視点からの記事を作りますが、それは「世間の価値観や常識」を無視して記事を作るということとは全く違います。むしろ「世間の価値観や常識」からズレた記事を書くためには「世間の価値観や常識」が何かをきちんと見極めた上で、それらと記事内容の関係が読者に理解できるようにしなければならないのです。重ねて言いますがそうでなければ読者にとって意味不明の記事になってしまうのです。
前記したように私は物事を考えるときには世間の価値観や考えとは無関係に思索していきます。しかしその思索した結果を他人に理解できるような記事に仕立てるには世間との関係を前提に組み立てなければならないことになります。私たちは世間に対して積極的に同調しようと逆に批判しようと世間的通念を介してコミュニケーションを取っているからです。しかしそれは世間的通念自体を肯定的に受け入れることを意味するわけではありません。
■ 「世間とのズレ」を起点とした言説が面白味を生む
私の記事が読者に面白いと思ってもらえるかは私には分かりません。しかし仮に面白いと思ってくれる読者が存在するとしたら、世間的通念に対する疑問や葛藤を持つために何らかの苦痛を抱えて生活している人だと思います。
ある意味で世間と折り合うことに苦痛を感じていることが記事に面白味を感じる要因となることがあるのです。私のように世間とはズレた見解に触れることによって読者の側も自分と世間との間にある距離を発見する契機になる場合があるということです。
しかしそれは必ずしも私の考えに読者が同調したことを意味するのではありません。私の意見の方にも違和感があったとしても、その違和感を手掛かりに読者が自分と世間との距離を捉えなおす機会が提供できた、という場合もあるからです。そしてそれは私の記事における私の意図とは関係なく結果的に生じうることです。
あるいは世間からの根拠のない要求に応えなければならないという無意識の強迫観念に自分が晒されてきたがそこには必然性がないことに単に気づくということもあり得るでしょう。そのような世間と自己との関係の捉えなおしや気づきによって、世間と自己の間にあった緊張からの小さな解放感を覚えることもあると思います。そしてそのことを通じて私の記事が読者のみなさんにに面白味として伝わることを期待しています。
それはある意味でたとえばペットを眺めていて癒しを覚える感覚に近いかもしれません。勝手気ままに見える猫の行動が面白いと感じ、同時にある種の安堵感を覚えるのは飼い主が「こんな自由に生きていてもいいんだ」という気持ちになるからではないでしょうか。その気持ちや安堵感は飼い主が猫の気持ちに共感できたり、猫の考えていることが分かることに由来するわけでも必ずしもないはずです。共感や同調的理解がなくても面白味を覚えることはあるはずです。
ただし世間からの圧力に苦しんだ経験がなかったり、世間の動きや常識に疑問を持ったことのない方は私の記事を読んでも多分面白味を感じられないでしょう。ただ小難しく感じたり、屁理屈のようにしか考えられず、その必要性が理解できないと思います。どんな“面白さ”にも伝わる相手(読者)の範囲に限界がありますのでそれは仕方がないことです。
■ 労働しながら内心で“わがまま”を保持するということ
私は働いていたころ「人づきあいは良くないが人当りはいい人」、あるいは「ちょっとお人好しな人」と同僚たちから思われてちょっと軽く見られてさえいました。つまり職場において世間の中に埋没しているよくある人のように振舞っていました。私は臆病で面倒くさいことが嫌いな質でしたから、人との摩擦はできるだけ避けたかったのです。
だから私は世間からズレた見解を他人に表明することもできる限り避けてきました。もし日常的にそうした見解を披露していれば“ドン引き”され、その見解自体が“わがまま”扱いされるのは目に見えていたからです。だからそのような考えは内心に秘めておいて、いつか畢竟の宿願である書物の中でそれを結晶化してやろうと思っていました。
もちろん私も内心は世間の考えや価値観に抵抗感を覚えつつ、世間に合わせる生活には苦痛が伴いました。ただそのことが飽きっぽい私にとって宿願である書物を書き上げようとする意志が持続した一つの要因にはなりました。いつかそれを完成させることへの希望が私をその苦痛に耐えさせて、かつ支えたと言えます。
一方で内心だけでも世間とズレた考えを保持しようとすることは私を疲弊させました。内心の中だけでも世間とはズレた見解を保持するということはキツいことです。世間とのズレた立場を保持するということは、常に世間に対して距離を置いて観察し、批判的であることを辞さない営みを続けることです。
もちろん私の場合、それは内心だけのことだったのですから、それを世間に表明する場合と比べれば随分楽なはずです。それでも世間に一面では合わせつつも、それに反する内面を保持することは、どうしてもある種の葛藤が生じるのが不可避だったのです。それが私の疲弊を増幅させた一因でした。
また周囲の人間に私が内心で何を考えているかを知られていないとしても世間の考えや価値観によって私の内心が侵食される危険は常にありました。自分や周囲で起こったことを自分の考えで咀嚼して消化する時間や手間を私が惜しめば、たちまち私自身の考え方が無自覚のうちに世間的な考えや価値観の方に寄ってしまうからです。だから労働時間以外においてかなり大きな時間を頭の中の整理のための時間が欲しかったのです。しかし労働時間がそれほど多くなかったころでさえ、私にとってそのための時間が十分に確保できていたとは思えなかったのです。それが以前勤務していた職場を退職した一因でした。
■ 自分の“わがまま”を世間から守る場所としてのnote
以上のように私は“親族に対するわがまま”と“労働を拒否するわがまま”、そして“世間からズレた見解を保持して生きるわがまま”の三つの“わがまま”を抱えて生活しています。このうち後者二つの“わがまま”は私にとって強く結びついていて、なおかつ手放したくない“かけがえのないわがまま”です。しかし“親族に対するわがまま”は私にとってできれば軽減するか、なくしたい種類の“わがまま”です。
ご承知の通りnoteには記者を金銭的に支援する「サポート」という素晴らしいシステムがあります。私はこのシステムに頼って生活したい希望があります。それによって“親族に対するわがまま”をなくすことが私の当面の目標です。
私はこれからいろいろなテーマの記事を作成してnoteを通じて公表していくつもりです。それは本記事のように世間との関係を直接テーマにしたものとは限りません。しかし読者に向けて書くという行為を通じてどれも間接的に世間のありさまに関わる内容になる気がします。
そのような記事を通じて読者のみなさまに私の記事内容や読者の方と世間との関り方を再考するきっかけとなれれば、と思います。またそれを通じて読者の方の裡にある、“かけがえのないわがまま”を守ったり、大切にすることに繋がれば幸いです。
もし私の記事をお読みになって、これからの私の記事執筆活動の継続をお望みの方にはぜひサポートをご検討くださるようお願い申し上げます。どうか助けてください。