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読書感想文~横浜フリューゲルスは何故消滅しなければならなかったのか~

「まあ組織の都合の犠牲になったわけだよな」
読み終わって思った感想はこうだった。
当方は野球とサッカーで1つずつ応援チームを持っているが、幼少の頃から追ってきて二つのプロチームが姿を消している。1つ目はNPBのパシフックリーグで「いてまえ打線」の強打で鳴らした大阪近鉄バファローズで、2つ目は全日空を親会社とする横浜フリューゲルスだ。
今回は後者の横浜フリューゲルスを取り扱わせていただく。

「横浜フリューゲルスの軌跡」
まず、フリューゲルスがどんなチームなのかを説明しなくてはいけないだろう。1964年に横浜市中区スポーツ少年団を源流とし、少年団と称しているものの小学生から社会人、果ては女子チームまで在籍する大世帯だったいう。75年横浜サッカークラブ、79年航空会社の全日空の出資をキッカケにトライスター(全日空の航空機名に因む)を経て1984年全日空横浜サッカークラブと改称している。
つまるところ「会社のサッカー部」として立ち上げた実業団あるいは部活式ではなく、「市民クラブを会社が買った」形式といえるだろう。ともあれこの本ではどんな経緯で横浜でサッカーができて、どんな黎明期の人物が携わったのかが窺い知れる。サッカーショップのKAMOの成り立ちや三浦カズや李忠成の父も登場はなかなかの驚きだった。

「伏線となったボイコット事件」
しかし寄り合い世帯の宿命として、「派閥争い」が発生するのはままあることだ。中日ドラゴンズの例を挙げると親会社の中日新聞は、戦時中に行政命令で合併した会社として知られている。そしてドラゴンズの人事に至るまで派閥力学が現在でも影響する実態はあまりにも有名だ。生え抜きスター・立浪和義が監督として振るわず、落合博満の監督再登板を願う一部ファンの声が届かないのは立浪を推す与党派閥の思惑が大きいとされる。遡れば逆のパターンもあり、落合政権時代(2004~11年)に星野仙一再登板及び立浪への禅譲を訴えるファンの声も派閥争いに因るといえる。
フリューゲルスも例外ではなくプロ化を志す全日空社と、市民クラブでいたい少年団古参選手の不和が時間とともに昂じた。1984-85シーズンにJSL1部昇格を決めたが、トップリーグは御三家(古河、日立、三菱)はじめ会社の看板力が幅を利かせていた。川淵三郎が掲げる「地域密着の理念」の思想はもっと後だ。社員選手を前面に押し出したがったことと「トップリーグでやっていくにはモデルチェンジが必要」と判断した可能性も窺える。いずれにせよ会社の思惑で少年団古参選手が淘汰されていく。当時はプロ契約というものが広まり始めたばかりの頃で、日産(現マリノス)の木村和司が年収1300万をはじめ社業に就かないでサッカー一本でプレーする選手が現れ始めたばかりであった。
内輪揉めを抱えながらのトップリーグ初年度は負けに負けまくり、86年3月22日には試合ボイコット事件が起こっている(会場は西が丘、相手は三菱/現・浦和)。現場の奔走で試合は成立したが(結果は●1-6)、この時ボイコットを起こした木口茂一ら(少年団古参)は「試合が成立したのは計算外だった」と明かした上で、「サッカーが好きで集まった人間なのに、身分保障がない上に会社の玩具として終わりたくなかった」とインタビューで答えている。社員選手に花を持たせたい企業戦略と、企業戦略に伴いグラウンドを古参選手に使わせない措置など会社側の追い出しありきの人事などが起こっており確かに符合する。ボイコットした木口ら6選手は規律委員会で懲罰規定の「大会運営上の違反行為」「グラウンド内外での相応しくない行為」抵触と結論付け、無期限登録禁止処分を科され事実上永久追放処分となった。
プロ契約という新手が押し寄せた副作用という面はあったものの、ボイコット事件で浮き彫りになった「会社と現場の摩擦」という構図は12年後の大騒動を暗示しているように見えた。中日は秤を揺らした状態が続いているものの、全日空の少年団追い出しは続き、少年団選手達は新しく立ち上げたチームがJ3のYSCCこと横浜スポーツ&カルチャークラブである。「市民クラブでいたい」理念は一度潰えたとはいえ形を変えて復活を遂げた。
ともあれ同じフリューゲルスの中でも「全日空vs少年団」という派閥争いの存在は今回大いに考えさせられたことの一つである。

「ASフリューゲルスの軌跡」
全日空のプロ化は成されて「フリューゲルス」と名乗り、マリノスとの区別を兼ねて親会社である全日空とゼネコン大手・佐藤工業の頭文字をとり「AS横浜」と呼ばれた。マリノス監督だった加茂周を91年に招聘、相手選手から積極的にボールを奪う「ゾーンプレス」を導入。OBとしてはアトランタ五輪予選でブラジルから金星を挙げた試合の主将・前園真聖を筆頭に、長く川口能活と鎬を削ったキーパーの楢崎正剛、日本で初のボランチと讃えられた山口素弘、そして日本代表やガンバ大阪で長い活躍を見せた遠藤保仁がいる。フリューゲルスはJリーグ開幕初年度となる93年に天皇杯優勝を達成し、96年は優勝争いに加わった。

グラウンド保護を理由に三ッ沢球技場でダブルヘッダーができなかったこととフリューゲルスを使って本業の宣伝をしたかった全日空の意向から、三ツ沢だけでなく当時まだ空白地帯だった九州でもフリューゲルス主催試合を実施している。しかし過重な移動負担が災いし九州でのホームゲームは3年間で5勝22敗と惨憺たる成績で「九州に行くのは嫌だ」と公言した選手まで現れたという。福岡の参入で96年以降九州からは撤退しているが、合併報道直前の試合は鹿児島鴨池で試合を行っている(相手は京都で●2-3)。

「抵抗の大きかったチーム消滅」
1998年10月29日、スポーツ報知(スポーツニッポンも掴んでいたが止められたという)にすっぱ抜かれる格好で「フリューゲルスがマリノスに吸収合併される」という仰天情報が1面に躍った。
一時は日本を席巻したJリーグバブルであったが96年から客足が途絶え、97年頃からのアジア通貨危機によって財政面が低迷。他球団でもヴェルディから読売新聞撤退、平塚からフジタ撤退、鳥栖ヒューチャーズ(準会員チーム。マラドーナ弟の所属チームとしても有名)が消滅資本撤退やチーム消滅が現れており、フリューゲルスでも出資企業の片方である佐藤工業がスポンサー離脱、代わりになるスポンサー(ガソリンの出光興産が手を挙げたという情報もあったが、この本では「ゴールドマンサックスに依頼して売却先を探してもらったが、見つけられなかった」とのこと)もなく、全日空単独で支えることができなくなり日産に吸収合併を申し出たという。
これを受けたフリューゲルスの選手・サポのみならず、全国のサッカーファンの怒りを買った。楢崎正剛、山口素弘、三浦淳宏ら当時の選手も参加し存続を願う署名は62万筆に達し、フリューゲルス球団、全日空社は勿論、中には試合ボイコット案も選手から出されたり、当時のチェアマンである川淵三郎のもとに押し掛け直に掛け合ったりしたフリューゲルスサポもいたといい、川淵の著書にも「人生で初めてスーツを着ました」と自己紹介をするフリューゲルスサポの学生が登場してチーム存続を訴えている。合併運動の最中、全日空はフリューゲルスサポ・選手ら存続派から敵視され11月7日の試合(相手は福岡)で選手全員がANAのロゴ(選手から見て右胸の箇所)を隠して入場するという事実からも現場の親会社への不満がみてとれる。
中には先述のボイコット事件に倣う案も上がったが、これは止められたという。
結果は承知の通り存続は実らず、かつて全日空が少年団を乗っ取ったとき同様現場無視で調印が強行されたという。奇しくも1998年は同一本拠の横浜ベイスターズが日本一、松坂大輔擁する横浜高校が春夏連覇を達成し地元大盛り上がりではあったが、サッカー界隈、特にフリューゲルスはこの幸運に肖れなかった。一部の選手はマリノスでプレーしたが居場所を確保できたのはRSHの波戸康広と下部組織から上がった俊足FWの坂田大輔、やはり下部組織から波戸と同じくマリノスの右サイドを切り取った田中隼磨くらいだった。
それでも天皇杯では「火事場の馬鹿力」の後押しもあって勝ち残り99年の元旦決勝に清水を2-1で破って勝利し優勝達成。あの名言を引用する。

私達は忘れないでしょう。

横浜フリューゲルスという

非常に強いチームがあったことを。


今でもフリューゲルスOBは山口素弘の呼びかけで集まることがあるという。
フリューゲルスの版権はマリノスが保持し、天皇杯優勝メンバーだった波戸康広が今尚フロント入り。フリューゲルサポーター有志は横浜FCを立ち上げ、山口は選手として最終所属に選び後に監督を務めた。もっとも山口は「フリューゲルスとは全然違うチームでしたね」と感想を漏らす。そして繰り返しながらボイコット事件から半年後に少年団関係者が募ってYSCCを立ち上げることとなり、現代表・吉野次郎は少年団の選手であった。

「『プロのチームは会社の宣伝部門』なのか?」
野球、サッカー…プロスポーツでフロント、特に背広のお偉方が選手やファンに突き上げられる度に佐藤はいつも紐解く言葉がある。

「会社のお偉方は、プロのチームを
『会社の宣伝部門』だと思っている節がある」

現役時代は巨人、監督としてはヤクルトと西武を優勝に導いた廣岡達朗氏の言葉だ。モノ申すとアンチの多い廣岡だが、背広組の横暴をこれほど的確に表現したセリフは他になかなか見当たらない。古くは巨人で品川という背広のお偉方が、当時の監督水原茂に大勢の記者の目の前で土下座を強要したこともある。
少なくともフリューゲルスの敗因は廣岡氏の論旨ピッタリに思えてならない。ボイコット事件直前の全日空社内報で「仕事とサッカーを両立する」と題した社内選手5人の座談会を催し、トップリーグ昇格の功労者であるはずの少年団選手には意図的に触れないようにしたこと。当時を知る代理店社員に拠れば「『サッカーチームは会社の宣伝部門』という態度を特に強くとっていたのはヴェルディとフリューゲルス」で、サッカー界のドンたる川淵三郎が掲げる「地域密着の理念」を理解していなかったこと。「ボイコット事件は『心ある人』の反乱であり、YSCCのような街のクラブをフリューゲルスがサポートしたことが一回もなかった」とYSCC代表吉野次郎も語ったこと。全日空社の「地域密着理念の軽視及び会社ありき」の姿勢は間違いない。
また競技の造詣ある人物が経営陣に不在だったのも不幸である。著者の田崎氏は合併を押し進め山口ら選手にはいたく敵視されていた全日空側の丸尾紘治郎氏にインタビューした際、「経営が火の車なら主力を高い金で売って、若くて才能ある選手を抜擢すれば低コストでもやっていけて、ブレイクした若手を高く売ればフリューゲルスを続けられたのでは?」と提示している。「そうすればよかったんだよな。そういう手が思いつく人が全日空にはいなかった」と丸尾は腕を組んで頷く。

「横浜FCは『フリューゲルスの生まれ変わり』たるか?」
2024年10月時点で横浜市にはプロのサッカーチームが3つあり、
「フリューゲルスの暖簾を貰っちゃって掲げているのがマリノス。
『幻の味』を求めて常連の手で店を開いたが、人手に渡ったのがFC。
元店員が始めたのがYSCC」
と呼ばれる。
『常連の手で』即ちファンの手で横浜FCは作られた。もともとは『フリューゲルス存続が実らなかった場合の非常手段』としてのやはりYSCC同様「企業の都合に振り回されないチーム」を志し、FCバルセロナに倣いファンがお金を出す「ソシオ制度」で資金を調達しての運営を図った。
チームは特例で繰り上げスタートし2007年にJ1参入、J1初勝利をマリノスから奪い、2024年はユースプレミアリーグで首位に立つなど下部組織は順調だが、ソシオ制度の行き詰まり、2005年より給食を生業とした小野寺裕司率いるLEOC(現・ONODERAGROUP)の参入を機にフリューゲルス同様企業色の濃いチームに収まったといえる。
世間では「横浜FCはフリューゲルスの生まれ変わり」と目する見方は根強いが、2001年に当時の社長(現会長)たる奥寺康彦が違うチームだと公式で明言したこと、今日現在もフリューゲルスの版権を買い戻していないことで小野寺、奥寺といった経営陣はフリューゲルスをほとんど気にかけていないように見える。監督も務めた山口は2014年に監督を退任した際、小野寺の気に入りである三浦知良と契約延長し三浦の現役続行を今尚後押ししているのを見て「チームの理念が蔑ろにされている」と嘆く。もっとも球史上「クラブよりもサポーターが先輩」である点で横浜FCは珍しい存在ではある。

「大阪近鉄バファローズの場合」
冒頭でも述べたがNPBの大阪近鉄バファローズもフリューゲルスと同じく消滅の憂き目を見た。フリューゲルスはマリノス、近鉄は阪神とすぐ近くに人気面で上回る「目の上の瘤」があった不運はある。だがそれ以上に近鉄もフリューゲルス同様、経営陣の評判が芳しくないことで知られる。後に渡米した野茂英雄が試合当日(それも開幕戦)に車を止めようとすると「本社の人間が来るから車を動かせ」と強要されたり、「高い給料を払いたくないから2位で終わるのが一番」と言い放たれたという。野茂の場合は「個性派の部下vs頭の固い上司」と構図が明快な鈴木啓示監督との確執のほうが知られ、金村義明には「別にメジャーに行きたかったわけではない。あの人(鈴木)の下でやりたくなかっただけ」と漏らしたという。
佐々木恭介は新人時代、背広のお偉方の「お前たち野球クラブの選手は」とあからさまな上から目線に頭に血が上った。
近鉄は89年に優勝を達成するが、金村義明によれば移動は往復ともエコノミークラスな上、選手の子供など家族分の旅費が自腹になるなど旅行業を展開しているとは思えないケチさで、後年参加した西武の優勝旅行と比べ近鉄のあからさまな経費節減に首をかしげたという。金村は甲子園優勝投手の看板を引っ提げて近鉄に入ったが、入団交渉で提示された金額及び不動産が空手形になり「詐欺だと思った」と述べている。
結局近鉄はフリューゲルスから遅れること6年、銀行の勧告もあってバファローズを手放したがフリューゲルスの消滅同様「会社ありき」の敗北に見えてならない。
なお近鉄では「バファローズを買いたい」とライブドアの堀江貴文が挙手したのを無視してオリックスとの吸収合併に漕ぎ付けた経緯があるが、奇しくもフリューゲルスも似たことが起こっており「フリューゲルスを買いたい」と前社長で資産ある泉信一郎が手を挙げたことをこの本では紹介している。いかんせん合併話はかなり具体化していた段階だったこともあってマリノスから反発されており、泉に話を持ち掛けるのが遅すぎた。ともあれフリューゲルスも近鉄も消滅に「待った」をかけた形跡は共通する。

プロスポーツとは実力主義を原則とする一方で、お金のかかる現実がある。よって企業の潤沢な資金に支えられスポンサーには支払金額に応じた発言の権利を持つ。だからこそ「会社ありき」「スポンサーの意向」がまかり通るのもまたプロスポーツの一部である。真剣勝負を見世物とする演出には、夢と感動、大勢の観客、選手の立身、裏方さんの汗、企業の動かす巨額のお金、栄誉と名声、社会の影響…様々なモノが交錯する。
だが会社は景気や業績の良し悪しやお金の有り無しで伸び縮みする。景気が良い時または安定している時は良いが、不景気になれば「会社ありき」はいとも簡単に圧し折られる。つまるところフリューゲルス(と近鉄)の消滅もまた「会社ありき」の限界を現す一例だ。そしてスポーツが爽やかにもたらす夢と、お金に限りのある現実という課題は永遠に鬩ぎ合う。

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