【最難関考察】 人格破綻の正体①


あることをキッカケに自分が『自己愛性パーソナリティ障害』だと判明。

さらに多重人格でもあるとも判明し

毎日こうして自分と向き合い考察すること、約2ヶ月。

「とにかく自分は”人格”に問題アリの人間のようだ」


何が迷惑だといわれるのか

何が生きづらさの原因なのか

どうやって治療を進めたらいいのか

どうやったら社会共生ができるのか

原因究明⇒自己対策までのプロセスの中で常に試行錯誤し

どうやったら目に見えるカタチで自分の仕組みを示せるのか

自己対策⇔実態解明を誰が見てもわかるようにしたらいいのではと考え

かつて没頭して大事に保管してあった数学の証明ノートを引っ張り出したが

どうもこれだけではリアルに実態が掴めない

動作と作用をより分かりやすく示せるようにするにはどうしたらいいのか

買ったまま放置していた相対性理論の本をパラパラめくるうちに

「なにかヒントになるかもしれない」と思い新しく物理の勉強も始めた。

数学フリークさと新しい分野の勉強と自己研究の3つを兼ね備えた

目に見える世界にこだわる、自分オリジナルの研究方法で取り組んでいた。

その中で「何でも鵜呑みにしてはいけない」と考えているので

実態解明⇔原因究明というプロセスも作り

「自分の究明は本当にあっているのか?」という自分を疑う作業

自己分析もいまだに繰り返している。

自分の中では、

原因究明、自己対策、実態解明  の無限ループが確立されている。

これが、今の状態。




今日はこの記事を死ぬほど掘り下げて再考察しようと思う。

自分にとっては今までの中で最難関の考察であり

この内容が自分にとって「人格障害」全体への重要理解に繋がる

すでに自分の中だけではただならぬ予感がしている。




この記事は

「人格」と「性格」の定義をハッキリさせることが主題となっている。

上の記事を踏まえて今一度「人格」と「性格」の定義を示すと

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「人格」・・・①知能面を含んだ "その人固有の人間としてのありかた"
       ②倫理観と法律上の行為をなす独立主体のこと

「性格」・・・①行動のしかたに現れる "その人に固有の感情・意志の傾向"
       ② 特定の事物にきわだってみられる傾向

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□ 同義語   ・・・ 「人格」=「品格」, 「性格」=「性質」
□ 主観客観・・・「人格」=「主観」,  「性格」=「客観」

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となる。

また記事の中では2つをハッキリ区別するために

英語表記では   「人格」は personality    「性格」は character

としていたが、

「性格」には personality  ; character と2つの表現があるので

「パーソナリティ障害」という表現についてはあながち間違ってはいないと

ここは考えを修正した。

ただ、本質を捉えるにあたっては英語より日本語のほうが分かりやすいので

解釈と考察を進める上では日本語優先で進めていくようにする。



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「人格」・・・①知能面を含んだ "その人固有の人間としてのありかた"
       ②倫理観と法律上の行為をなす独立主体のこと

「性格」・・・①行動のしかたに現れる "その人に固有の感情・意志の傾向"
       ② 特定の事物にきわだってみられる傾向

-------------------------------------------------------------------------------------

上の「人格」「性格」の定義づけをもとに

いままで『自己愛性パーソナリティ障害』で「障害」と言われていた部分はⅠ「障害になっている性格」だと一旦結論づけた。
自分の一例で示すと
リーダー(独裁者)の性格  /  無秩序な性格 /  衝動性のある性格

また、自分の場合は『多重人格』でもあるので
Ⅱ多重である「人格」については
慈愛性をもつ人格 / 残忍性をもつ人格 / ユーモア人格 
さらに物理的にも実感覚としても 離人症 も併せ持つとした。

さらに、Ⅲ「障害となっていない性格」については
子供みたいな性格 / 男性的な性格 / 憑依体質                 とした。





この振り分けをするときに”とてつもなく難しい”と感じたのが

「子供」と「ユーモア」を
「人格」とするのか「性格」とするのか

記事では短い文章でしか書いてないけど実際は3時間ぐらい悩んだ。
「これは一体どう解釈すればいいんだ・・・」
一旦結論を出してはいるけど実際はまだ相当葛藤している。
どうしてここまで難しさを感じているかというと

「子供」も「ユーモア」も相反する表現を持つから


--------------------------<子供についての考察>-------------------------------

「子供」はリアルな実社会においては法律上「未成年」とされ
成年になりきれてない20歳未満の「未熟な存在」だとされている。
ゆえに「意思決定」においては成年である大人の同意が必要となることが多い。
法律の基準でいけば20歳を超える者は全員成年とされ「子供ではない」とされる。
しかし、こと精神面においては法律でも明確な「子供ではない」の定義がない。
なので、本来であれば「成年」=「子供ではない」とされるものが
法律上の「成年」ではあるけれど、精神面は「子供」であるケースも出てくる。


倫理観としては
「子供」は大人とは別の存在とされ
無邪気・ワガママが許されるものであり社会全体で愛ずべきものであるとされる。


『自己愛性パーソナリティ障害』になる原因の一つとして
幼少期の母親との関係に問題があること、とされている。
全ての人間がそうではないと思うけど、自分には該当する。
法律上での「未成年」である時期に
倫理観としてある無邪気・ワガママが許されなかった
だからこそ、
「成年」になってもずっと精神的には「子供」であるのではないだろうか。


その「子供」である精神がどこにも行き場がなくなったとき
2年前に起こった津久井やまゆり園で大量殺人を犯した
植松聖被告のようになってしまうのではないかと考えてしまう。

正直、この事件について詳しくは知らないけど
植松聖被告が『自己愛性パーソナリティ障害』である
その背景としてひとつ「精神が子供である」ということが考えられてやまない。
殺人犯を擁護するわけではないし個人的には死刑以外はないと思うけど
被告の主張として「障害者の安楽死を求める」とある。
彼はたしかこの障害者施設の元職員だったはず。
「生きていても本人も辛いし家族も辛いだけ」
元職員だからこそ障害者やその家族と近距離で接してきたからこそ
もうこれ以上無理に生きている方が辛いんじゃないのか
そう考えたのかもしれないと思えなくはない。
もしかするとそういう主張を勤務している期間内ですでにしていたのかもしれない。
これは植松被告の話ではなく自分が自分の目で見た現実として
障害者施設の人間が暴力・暴言を吐いているのを何度か見たことがある。
ちょっと普通じゃないな、とすら思った。
でも悪質で歪んだ思考の施設の人間も、現実にいる。
植松被告はおそらく勤務中に暴力や暴言を吐いたりはせず
むしろ障害者に対して親切に誠実に対応していたのではないかと推測する。
ただ、障害者のことを思えば思うほど自分の無力さも感じていき
どうしようもない現実をどうにか自分で受け入れようとする過程で
「子供」である精神が「安楽死」思想へ向かわせたのではないだろうかと考えてしまう。
「安楽死」ならば本人も家族も幸せになれるだろうと。
子供が無邪気さをもって動物に触ったりする、よしよしと愛でる
それと全く同じ感覚をもって「安楽死」が幸せだと願い
「安楽死はいいことなんだ」と自分の中にひとつの正義を持つ。
この時点で思想が歪んではいるけど、
この「安楽死」主張が誰にも受け入れられなかったから
「安楽死がダメなら自分の手で幸せにしてやる」という過激な殺人容認へ向かったのかもしれないとも深く考える。
人を幸せに出来る手段が安楽死だと考えることが絶対悪だとは思えないけど
それが受け入れられなかったからといって殺人に走るのはおかしいと思う。
ただ、被告の背景を個人的に想像すると
なんとも言い難い感情を覚えてしまう。

これは自分の話になるけど、「安楽死」について
この『自己愛性パーソナリティ障害』だとわかってから
世の中で「死ねばいい」だの「加害者」だの「危害しか加えない」だの
散々な言われようを目にすればするほど
「なにもしていないのに存在するだけでダメなら自分は安楽死アリかも」
と実のところ思ってしまった。
多分この先「安楽死」が制度として導入され自分も生きることに絶望したら
おそらく「安楽死」を選択すると思う。
自分がそれで幸せなら、自分だけを安楽死にすると思う。

話を戻して植松被告は元々精神疾患ではなく、学生までは明るい好青年
成人後に急に刺青を入れたり大麻を吸ったりという反社会的行動が目立つようになったと聞く。
また、真相は知らないけど事件が起こる前に
ご両親が家を出ていき被告一人で暮らしていたとも聞く。
反社会的行動に困り果てて出ていかざるをえなくなったのか
それとも昔から家族関係がよくなかったのか
それは分からないけど、もしかすると被告は
事件を起こすよりずいぶん前からモノ言えぬ障害者と同じ
社会からの疎外感、誰にも理解されない苦しみを持っていたのではないかと
ここもまた推測する。
総合的に個人的見解として植松被告のケースはなるべくしてなったと思っている。


また、植松被告だけではなく
過去に凶悪犯罪を犯した自己愛性パーソナリティ障害の人間をよく観察すると
「子供」であるがゆえに殺人に走ったような傾向がある。
無邪気さ・ワガママが自分だったら許されるのではないかという錯覚。
それに加え、「子供」独特の万能感。
「自分ならどんなことでも出来るんじゃないか」というスーパーマン思考。
これが、法律の壁をぶち破った時
「人格破綻」に向かわせ、
殺人容認という思考回路になるのではないだろうか。

たとえ殺人容認に向かわなくとも所謂反社会的だといわれる行為に走りやすくはなるようにも考える。


自分は現在犯罪者ではない。世の中のひとりの成年として生きている。
『自己愛性パーソナリティ障害』の障害は
「障害となる性格」からくる他者への迷惑だと一旦結論づけていたけど
この「子供」については
たとえ今現在犯罪者でなくとも最悪のケースまで熟考し
凶悪犯罪を犯す種を元々持っていると捉えるとするのならば
「人格」として捉えたほうがいいように、今は考える。

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-------------------------<ユーモアについての考察>----------------------------

「ユーモア」というのは元々2つの相反する意味をもつ。
一般的には ①面白さ・ユニークさ の意味合いで使用されるけど
②皮肉さ・風刺 という意味も持つ。

また、「ユーモア」の表現の受け取り方ひとつで
それが愉快だとも不愉快だとも捉えられる。
どう受け取るかは受け取った相手にしか分からないけど
仮に、
自分がよかれと思って使った「ユーモア」が不愉快だと取られ続けた場合
「ユーモア」を使った人はどうなってしまうのだろうか?

1対1の対話の場面でなら不愉快だと感じるのは1人だけど
何十人何百人と不愉快だと受け取る人間が増え
規模が大きくなって社会全体が不愉快だと受け取るようにもしもなってしまったら
「ユーモア」を使った人の心理として
初めは「よかれと思って使った」つまり「相手を喜ばせるため」
だったのが、徐々に皮肉に変わっていくのではないだろうか。
さらに、皮肉となった「ユーモア」が不愉快をますます加速させると
「ユーモア」を使った人も同様に不愉快だと感じるようになり
不愉快がさらに進むと嫌いという単純差別思考へ進み
最終的には単純差別思考ではなく排除思考に行きつくのではないだろうか。
そうなると、
「子供」の場合、無邪気さ・ワガママ・万能感が人格破綻へ向かわせたけど
「ユーモア」の場合
受け入れられなかった憎しみが人格破綻へ向かわせるのではないかと考える。
嫉妬ではなく「あまりにも強すぎる憎悪」。
また
「子供」の場合は、根っこは自分がいいと思うからというのがあるけれど
「ユーモア」の場合は、根っこが相手のためなので
単純に自分の快楽のためだとは言い切れないところがある。
何かしらの因果関係が自分以外の人間とあるからこその人格破綻だとも推測する。


この「ユーモア」については自分が関係のある
『自己愛性パーソナリティ障害』『多重人格』について
全ての人間が持っているわけではないけれど自分はこれが該当する。
前回すでに「人格」と位置づけはしているけれど
今回の考察を含めて、
「ユーモア」による人格破綻もありうる
将来的な凶悪犯罪の種になりかねないという認識をもって捉えるべきだと
今は考える。


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正直、自分自身のことを「将来凶悪犯罪を犯す可能性が否めない」として
客観視するというのは心情としてツライものはあるし非情だと思う。
誰だって自分のことを凶悪犯罪者予備軍だなんて考えたくはない。
誰だって世の中でせめて存在してもいいと思いたいのが人間。
自分の場合は
元々残忍で非情な人格を持っており、
常に自分のことがマンガのキャラかなにかしか思えないような他人感覚
離人症だからこそ非情なことにも耐えられるのかもしれないと思う。
だから他人にはとてもじゃないけどススメられない。
たとえ同じ障害の人間であってもススメられない。
自分と同じ考察をすることで、生きる希望を失いかねない。
それほど酷な考察をすることになる。
そんなことはひとつも望んでない。
自分はあくまでも当事者として「人格」にまつわる精神障害を
嫌というほどの現実と「人格破綻」」による犯罪の数々を直視することで
「人格破綻」の共通点・傾向を分析し
自分のような当事者の対策が将来的にできるようになることを望んでいる。
これは当事者含めて、それに携わる人間はもちろん
SNSで増えている「自己愛性パーソナリティ障害予備軍」も
ひいては社会全体で
「いかにして人格破綻するのか」
「人格破綻した先にどんな恐ろしい現実が待っているのか」
それを共有できることが一番いいのではないかと思い
こうして公開している。


それで、考察したことを踏まえ
今一度自分のケースで「人格」「性格」を振り分けると

Ⅰ「障害になっている性格」
リーダー(独裁者)の性格 / 無秩序な性格 / 衝動性のある性格

Ⅱ多重である「人格」
慈愛性をもつ人格 / 残忍性をもつ人格 / ユーモア人格 / 離人症 / 子供人格

Ⅲ「障害となっていない性格」
男性的な性格 / 憑依体質

となる。


また、今回の考察により
『自己愛性パーソナリティ障害』に関しての障害部分の捉え方については
「障害となりうる人格」「障害となっている性格」の双方で考えていきたいと思う。



今回は「子供」と「ユーモア」についてのみ考察したけど
他のことについても深く考察したいと思う。




拙い文章お読みいただきありがとうございました。



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