作曲・編曲156
今日は予告通り、自分自身の作品制作のスタイルについて、その理由を書いていきたいと思います。
「個性」は作品の中に埋め込んで、分かる人には分かるけど、分からない人も聴けるというスタイルでの作品制作です。
本当に聴ける音楽なのかは自分には分かりませんが(汗)。
ただやはり単純に多くの「聴き手」は自分に心地よいものを求めています。
何度も書いている話ですが、音楽って「聴き手」なしには存在しえないんですよ。
だから言い方は悪いですが、「聴き手」に「おもねる」部分は必要です。
所詮「聴いていただく」ところから始めるしかないんですよ。
ある意味「妥協」ですが、それがないとそれは単なる「独りよがり」にしかなりません。
どんなにいきがっても、そこからしか話は進みません。
ただそれだけででは「自分」が音楽をやる必要はありません。他のミュージシャンが制作した作品を聴けばいい話。
他の誰でもない「自分」が音楽をするのであれば、「自分」ならではのものがやはり必要になるだろう、と考えています。
まあそれが「近代的自我」というものなのかもしれませんが(笑)。
この二つを両立させるには、とてつもない才能があるか、耳に心地よいように聴かせながら、その中に「個性」を埋め込むしかない。
自分に「とてつもない才能」はありません。だから後者を選ぶ訳です。
ミュージシャンとして生きるための「戦略」のようなものです。
まあそんな大層な話ではないのですが、ほとんどのミュージシャンって「自分にとっての「スキ」だけを求めているか、「自分」があるつもりで「内輪」の中で「共同体の中で受け入れられやすい、その中だけで成り立っている」音楽をやっているのか、どちらかだと考えています。
だから自分自身としてはあたかも「共同体の中で受け入れられる」ように見せかけながら、その中でどうやって「個性」なり、自分にしか出せないものをどう表現していくか、ということを主眼において、音楽制作を行っています。
という割に最近音楽作ってないけど(汗)。
今日は脱線的な話だったので、明日は軌道修正したいと思います。
というかいつも脱線ばかりしてるけど(笑)。