ストーブのかたわらの文化人類学者の至福
連日氷点下のその日
隣の街から3日ぶりにその街に戻ってきて、
いつ戻ってきてもいつ出ていってもなんだかその時の塩梅でいつもうけいれてくれるその家で、
いつもお世話をしてくれる女性が、夕方ストーブを焚いてくれた。
薪は高いと聞いていたのだが「いくらなの?」と聞くと日本円にしてひと月1万3000円にもなるとか。
現地の収入にしてみたらべらぼうなその金額におののきつつも
その貴重な薪に彼女が油をかけ、燃え上がったその炎の暖かさには、やはり心身がときほぐされた。やわらかい暖気のなかで一日の凍えをとりのぞいていたとき、彼女が
「今度オツパルがあってさ」
といった。
オツパル、なにそれ、というと
彼女はちょっと笑いながら「前にも説明したじゃない」という。
死んだ人の墓のまえでやるんだという。
お葬式かな(思いだせていない)と思っていたら、
今じゃなくてもうすぐやるんだという。
じゃあ今もうすぐ死にそうな親族がいるってこと?!!と緊張して聞くと
彼女はまた笑いながら、1年に1回の行事だという。どうやら一周忌とかそういうのらしい。
墓の前にハンダン(一族)がそれぞれ別な料理を持ち寄って集まって、墓の前で皆で食べるらしい。
それだけ語ってじゃあそろそろ夕食の調理してくるわ、と彼女は部屋をあとにした(実は隣の家が彼女の家)。
別に聞きたかったわけでもないのに突然聞けたその話を反芻しながら、
一族って全員集まるとどのくらいいるのかな、
そこでは死者も「食べる」ものなのかな、
「別々の料理」ってどうやって世帯間でどう采配するのかな、
結果としてどういう料理が集まるのかな、
……わたしもその場にお邪魔させてもらうことはできるのかな、
という泡が浮かんではきえ、なにかが輪郭をとっていく。
今日も成果がないな、どんな質問をすればいいだろう、
これまでの時間で何を集められただろうか、
自分の積極性が足りなくて結局なにもできていないんじゃないだろうか、
という焦りを、
現地の人々のほうから玉をころがすように与えてもらえる瞬間にたちあえるときこそ、文化人類学者の至福である。
自分の、自分が、というアグレッシブな「調査」ではなく、
かれらのなかから転がりでてくる芽を一緒に育てさせてもらう、
この調査方法をもつ文化人類学が、わたしは本当に好きである。