Dr. Johnのセカンド・ラインは続く
6月6日は、2019年に亡くなったアメリカ・ルイジアナ州ニューオーリンズを拠点に活躍した、グラミー賞受賞者であり、ブルース・R&Bの天才であり、奇才であり、宝であるミュージシャン「ドクター・ジョン(本名:マック・レベナック)」の命日です。
今日は大好きなドクター・ジョンのことを想って、彼のことを書きます。
ドクター・ジョンとニューオーリンズ
彼はアメリカ・ルイジアナ州ニューオーリンズ出身です。
ニューオーリンズという土地は独特のクレオール文化が根付いているところで、ヨーロッパ系移民とアフリカ人と先住民の文化が混然一体となっているのだそうです。
彼の音楽は、そのニューオーリンズ独特の文化を背景にして、ジャズ、ブルース、R&B、ファンクなどを融合した感じのサウンドです。
ドクター・ジョンはニューオーリンズの文化と音楽がとても好きだったので、彼自身が子供の頃から聴いていたレジェンド的な地元のミュージシャンとたくさんコラボしたり、曲をカバーしました。
私はドクター・ジョンの曲を聴いたのをきっかけにして、プロフェッサー・ロングヘアや、パイントップ・スミス、カウカウ・ダヴェンポートのようなブギウギ・ピアノの曲を一時期ずいぶんとたくさん聴いたものです。ドクター・ジョンを聴かなかったらたぶん知ることはなかったであろう素晴らしい音楽に、彼のおかげで出会えたのでした。
■Big Chief with Professor Longhair & The Meters
ハリケーン・カトリーナでニューオーリンズに大きな被害が出たときは私も「ドクター・ジョン大丈夫かな!?」と、とても心配しましたが、彼は元気にチャリティのためのレコーディングなどを行っていました。
他の多くのニューオーリンズ周辺のミュージシャン達同様、愛する故郷の災害にとても心を痛めているというインタビュー記事も見ました。彼はニューオーリンズとその音楽を心の底から愛していたのでしょうね。そういうところも素敵な人でした。
ニューオーリンズに住むアフリカ系の人々が信仰するヴードゥー教会などが身近にある文化の中で育ったドクター・ジョンは、若い頃、エンターテイメント的な演出として、大きな羽飾りに髑髏付きの杖というヴードゥー風の衣装を身に纏ってステージに立ったりしていました。
だから私は、なんとなくドクター・ジョンは死なないんじゃないかな、なんて思っていました。そんなことあり得ないですが、私の中のドクター・ジョンって、そのくらいちょっとエキセントリックなイメージの人だったんです。まぁ、年を重ねた後は割と普通のミュージシャン風になりましたが、それでもやっぱり少し風変りな感じを受ける人ではありました。
だから訃報を聞いたときにはあまりのショックで、しばらく気持ちの整理がつかなかったのを覚えていますし、彼がもうこの地上にいないと思うと今でも悲しくなります。きっとそういう人は多いと思います。
自伝『フードゥー・ムーンの下で』
1994年に出版されたドクター・ジョンの自伝『フードゥー・ムーンの下で』は、彼の愛するニューオーリンズと同じように、ごちゃまぜで猥雑で、そしてびっくりするほど魅力的な一冊です。
ニューオーリンズの音楽シーン、彼のアルバムやツアーのことはもちろん、ギタリストだった時に指を銃で撃たれてギターが弾けなくなりピアノに転向したなんていう穏やかならぬエピソードや、「Dr. John the Night Tripper」というキャラ設定のこと、マルディ・グラのこと、フードゥーのこと、ガールフレンドのこと、(シャレにならないくらいの)悪さをしていた若い頃の話などもいろいろ書いてあります。
レオン・ラッセル、アラン・トゥーサン、プロフェッサー・ロングヘア、ジェリー・ガルシアなどなど、おなじみの面々の名前もあちこちに出きて、読んでいて嬉しくなる一冊です。
ドクター・ジョン追悼のセカンド・ライン・パレード
彼が亡くなった後、ニューオーリンズの街ではいくつものセカンド・ラインのパレードが開催されました。
セカンド・ラインとはニューオーリンズのお葬式の風習で「ファースト・ライン」は墓地へ行く時の行列。この時は悲しい音楽とともに少人数で向かいます。そして墓地からの帰り道の行列が「セカンド・ライン」。
セカンド・ラインは故人の親族や葬儀関係者以外にも、街の人などが加わって、魂の解放と天国への旅立ちを祝って缶やドラムを叩いたり、リズムに合わせて踊ったりしながら、楽しい音楽とともに練り歩くのだそうです。
2019年、彼が亡くなったときも本当にたくさんの人が集まり、ニューオーリンズの街を挙げて何日にもわたってパレードが行われました。
ドクター・ジョンの音楽は、このセカンド・ラインのリズムやグルーヴを取り入れたことで有名だったので、その彼が亡くなったんだからさぞかし盛大なセカンド・ライン・パレードが催されるだろうとは思っていました。
そして実際にドクター・ジョンをセカンド・ラインで送る大勢の人々の顔をインスタの動画で見たときには、思わず号泣してしまいました。
ブラス・バンドによってドクター・ジョンの曲も演奏され、みんな「悲しいけど、でもパレードに参加できて嬉しい」というような表情で、歌ったり踊ったりしながら練り歩いていました。彼は世界中の多くの人々に愛されたミュージシャンでしたが、ニューオーリンズの人々にとっては、自分たちの故郷の文化と音楽を愛し、広めてくれる「おらが街のスター」みたいな人だったんだろうなぁって思いました。
ドクター・ジョン日本公演の思い出
ドクター・ジョンは1987年から1997年くらいの間に、ほぼ一年おきくらいに来日してくれていました。私もクラブ・クアトロやブルーノートTOKYOへ何度も足を運びました。
最近は行かないから良くわかりませんが、ブルーノートはライブの前にゆっくり食事することが出来たので、せっかくドクター・ジョンだからってことでガンボ(ルイジアナ周辺地域の名物料理)を食べたのも、楽しい思い出です(ナマズ の唐揚げがあったら食べたかったけど、さすがにそんなメニューはなかった・・・)。
一度、ドクターのピアノの真向かいの席に座ったことがあるのですが、彼が顔を上げる度にあの目で「ぎろっ」と睨まれているようで、すごく嬉しかったのを覚えています(ココロの中で「ギャ~」って叫んでました)。
間近で見たドクターの手は(特に年齢が上がってからは)「ころっとしている」というか「まるっとしている」というか、とにかくピアニストって感じの指ではないという印象でした。でも、彼のクリームパンみたいな「まあるっこい手」が鍵盤の上をコロコロと転がると素晴らしいグルーヴが転がり出して来て、私たちオーディエンスはみんな魔法にかかったみたいに聴き惚れたのでした。
ドクター・ジョンの動画
■「Iko Iko」
1972年の名盤『GUMBO』収録曲。
もともとニューオーリンズの伝統的なフォークソングですが、ドクター・ジョンの代表曲のひとつと言っていい曲。
ドクターのコロコロ転がるブギウギ・ピアノとダミ声は、永遠に不滅です。
■「I Walk On Gilded Splinters」
1968年のアルバム『Gris-Gris』に収録されている曲。
ドクターの曲には「kon kon killy」みたいな、英語に翻訳できなかったり、そもそもスペルもあやふやな単語がたまに入ってきます。
いろいろな説があるみたいだけど、私は個人的には「大した意味はない。合いの手みたいなもの」というのが一番しっくりくると思うんだけど、どうなんだろ?
スローでちょっとオドロオドロシイ感じですが、私の大好きな曲。
『Gris-Gris』がリリースされた頃はキャリアの初期で、まだヴードゥー風というかマルディ・グラ風というか、派手な衣装を着て「Dr. John the Night Tripper」と名乗っていました。
この動画は2013年なので、だいぶ最近のもの。
見た目も「ちょいワル」くらいに落ち着いていますね。
■ハンブル・パイがカバーした「I walk On Gilded Splinters」
『Performance-Rockin' the Fillmore』(1971) のときの演奏。
ドクター・ジョンの「I Walk On Gilded Splinters」をハンブル・パイがカバーした名演。
スティーブ・マリオットの声がいいし、ハンブル・パイらしい重たいブルース・ロックっぽさがすごくいい。
■「Such a Night」
この動画は1976年、The Band 伝説の解散ライブ『The Last Waltz』の時のドクターですね(若~い)。
あの独特の声で「さちゃなぃ~♪」と歌いだされると「キャ~」を通り越して「ギャ~」ってなります。
ちなみに自伝『フードゥー・ムーンの下で』の中でドクターはザ・バンドを「いいやつらだった」と言ってます。
今日は一日、ドクター・ジョンの曲を聴いて過ごします😊
大好きなドクター・ジョン。
あなたのセカンド・ラインは、いつまでも続いて行きますよ。
どうか天国のニューオーリンズでレジェンドたちと楽しく演っててくださいね。
RIP.