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【松田聖子】リゾートミュージックの3年間
大瀧詠一のアルバム「ロングバケーション」が発売されたのは1981年3月21日で、私は藤沢市辻堂西海岸に住む中学1年生だった。13歳。だいたい13歳から19歳くらいまでに聴いた音楽を人は一生聴き続けるという定説通り、はっぴぃえんど、さらにはディープなナイアガラ時代のLPまで一通り買い集め、いまも時おり聴いては新しい発見に震えたりしている。時代を超える名盤の存在感というのはほんとにすごいものだ。それはともかく、当時の13歳にとってLP1枚を買うための2500円というのはホイホイ出せる金額ではなく、必然として友達間での貸し借りとカセットテープへのダビングというのは日常的な行為だった。
学期が変わって中2の1学期当時、3枚のアルバムが友人の間をぐるぐる流通していた。サザンオールスターズ「ステレオ太陽族」、渡辺貞夫「オレンジ・エクスプレス」、そして「ロンバケ」。私の所有はサザンで、桑田佳祐の出身地である茅ヶ崎はチャリ圏内隣町だったから、まあこれは私が買わなかったとしても、誰かが買う。しかし渡辺貞夫は渋いチョイスだ。中坊からみればジャズのおじさんだもんなあ。渋すぎる。誰が買ったんだっけ。いずれにしても理由はたぶんタイトル曲がCMソングだったとかそんなところだろう。たしかにあのキャッチーなサックスはジャンルを問わない吸引力だったし、海辺の街の空気にも合った(団地だけど)。そしてロンバケ。3月に発売とは言ってもすぐに火がついたわけでもなかっただろうし、まして中学生の耳に届くのには時差がある。
というわけで、あの懐かしい辻堂団地に暮らしていた当時の音楽好きな中学生たちの間では、夏に向かうこの時期、いかにも夏らしいこの3枚のアルバムが熱く支持されていた。余談ではあるが、私がサザンの前に買ったアルバムは高橋ユキヒロ「音楽殺人」だったと思う。1980年6月発売。テクノポップ人気の冷めやらぬ頃で、同時期に「増殖」が出ていて、これは先輩から借りた。縦の世代の流通もあったのだろう。「ソリッド・ステート・サヴァイヴァー」は自分で買っていまでも持ってる。それどころか時々まだ聴く。アルファレコードの、あの薄くて軽いヴァイナル。「パブリック・プレッシャー」は友人から借りた。
余談に余談を重ねるが、「BGM」は今調べるとロンバケと発売日が同じで、だから中学生の耳にはYMOが流行っていた分、BGMの方がおそらく数ヶ月のタイムラグでロンバケより先に届いている。で、届いて「は?」となった。誰か同級生が買ったのでみんな一斉に聴いて、たぶんみんな一斉に「は?」となった。いまではそのすごさがわかるBGMだけれど、当時はあの先進性にはさすがに耳がついていかない。ちなみにそれに先立つ1980年秋、中1の壁新聞で私は坂本龍一の出たばかりのソロ「B2−Unit」について熱く語るという中2病(1年だけど)らしいヤラカシを犯している。未だに思い出すと赤面の至り。
そんな、思い出すと青い空と青い海(でも汚い。当時の地元民は大腸菌を恐れて誰も庭先の海には近づかなかった)、クロマツの林(笑)が眼前によみがえる1981年、リゾートミュージックは藤沢の中学生にとってたいへん身近で、身近というか、そもそも日常生活と地続きで、そこにするっと入り込んできたのが松田聖子の一連のリゾート曲たちだった。さて、ようやく本題。
適当に書き始めてここまで至り、いまぱっと思いついた曲が「セイシェルの夕陽」で、これはアルバム「ユートピア」収録だから83年。この頃の1年は今の10年くらいの超高速なので、松田聖子とリゾートのかかわりを考えるためにはもっと遡らないといけない。なおこのユートピアにはセイシェルと双璧をなす「当時の中高生にはよくわからない謎のリゾート地名」を冠した佳曲「マイアミ午前5時」や、「天国のキッス」「秘密の花園」といったリゾート感全開のシングル曲も入っていて、松本隆はどこまで(まだバブル前でおぼこい日本人をたぶらかす)悪いやつなんだ、という悪逆非道ぶり(大絶賛&感謝)なのだけど、その前身は三浦徳子だ。酒井氏とか言い出すとごちゃるのでそこはとりあえず脇におく。
松田聖子の1stアルバム「スコール」が眼前に現れたのは、これまた1980年。発売日は8月1日。LPを買った友人の名前は覚えていて、でも聴いた場所が北部(地元用語)なのでそこは記憶に齟齬がある。ともかく同年4月のデビュー曲「裸足の季節」からまだ4ヶ月、なんだけど、当時中1の男子たちにとっては社会をひっくり返すような4ヶ月(多少誇張)を経て投下されたアルバムで、たぶんこれで70年代的なものを(自分ごとに惹きつけて言えば小学生的なもの、山口百恵やピンクレディー的なもの、八代亜紀的なもの)を振り切ることができた決定的な出来事だったのだろうと考える。
裸足の季節、に続いてのシングルをまずは発売順に列挙する。「青い珊瑚礁」「風は秋色」(ここまで80年)、「チェリーブラッサム」「夏の扉」「白いパラソル」「風立ちぬ」(ここまで81年)、「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「野ばらのエチュード」(ここまで82年)、そして「秘密の花園」「天国のキッス」。天国のキッスが83年4月発売。
ここまでが松田聖子リゾートミュージック時代、ととりあえず位置づけてみる。デビューからジャスト3年だ。たった3年だけども、まさしく社会を変えた3年だ。
ここまでで敢えて区切ったのは、次のシングルが「ガラスの林檎」(同年8月発売)だからで、以降「瞳はダイアモンド」(ここまで83年)、「ロックン・ルージュ」「秘密の国のアリス」「ピンクのモーツァルト」「ハートのイアリング」(ここまで84年)、そして「天使のウインク」と続いていくシングルディスコグラフィーにおいて、ガラスの林檎からはリゾート色が霧消し、都会、街なか、そしてなにより東京(表参道的な)に世界観が切り替わる。
アルバムを追ってみる。くだんのスコールのあとは「North Wind」「シルエット」「風立ちぬ」「パイナップル」「Candy」「ユートピア」「Canary」の順。アルバムタイトルはシングルほど極端でもないものの、リゾート的なイメージ喚起力はやはり強い。Canaryの発売は1983年12月で、同年春のシングルである天国のキッスは入っていない。鍵となるのは、瞳はダイアモンド(A-5)と「青いフォトグラフ」(B-4)だと思う(個人の感想です)ので、リゾートからは切り離されている。つまりユートピアまでが松田聖子のリゾートアルバムで、ユートピアは(ジャケットを含めて)松田聖子のリゾートアプローチの集大成だと思う。
先を急ぎすぎた。巻き戻して、デビュー曲の「裸足の季節」だ。この曲が1980年春の日本にどう響いたのか。私も幼いゆえ想像の域は出ないが、有り体に言えば、頭上の重だるい灰色の雲が切れて青空が覗く、そんな感じではなかったか。
私は70年代の文物が嫌いではない。むしろ、映画などではこの時代の日本映画をいまでも好んで観る。雑でがさつで乱暴で、むき出しの何か、50年後のいまはもちろん、もっと前から失われてしまった生命力「の、ようなもの」が70年代のユースカルチャーには間違いなくある。なんだけど、それはとても「重い」。その「重さ」の根っこは何かと考えると、それは対立軸がもたらす「とことんやり合って、それに掛けた労力に見合うリターンが最初から得られないことがわかっていて、それでもやり合わなくてはいけない、そうしないと先に進めない」という体の重苦しさなのだろう。世代でも、東西でも、南北でも、貧富でもなんでも、あらゆる対立軸がしっかりはっきりあって、それを乗り越えなければいけないんだけど、自身の無力も自覚していて簡単にはいかない。簡単ではないことがわかっているから、暗く、重く、否定的になる。私は60年代には詳しくないけれど、70年代の10年間は、その前の10年(太古の昔!)とはまるで違う空気が流れていたのではないかと思う。日本も、世界も。
80年代に入ってその空気が突如入れ替わった。3月の頭ごろのある日、背中を丸めたくなる寒気がいきなり抜けて入れ替わり、春の暖かい空気に全身の細胞が歓喜に震えるような唐突な転換。10年の重しがいきなりなくなって心身が軽く浮き立つような感覚。その後、バブルの始まりまでの数年間の日本を包む、祝祭的な、でも刹那とは違う「きちんと前を向ける」ような感覚を連れてきたのが、三浦徳子の手による「裸足の季節」の歌詞であり、松田聖子になったばかりの蒲池法子の声だったような。この曲の出だしはこうだ。
白いヨットの影
渚を滑り
入江に近づくの
手を振るあなた
いま読むとけっこう加山雄三の若大将シリーズっぽいような。それはまあいいや。歌詞はこう続く。
夢の中のことと
わかっていても
思いっきり答える私です
80年の春、ほとんどの日本人にとって、リゾートは夢だったのだと思う。その日本人の実感を三浦の歌詞はジャストに捉えている。続くサビは、もういいや。この世界観は「青い珊瑚礁」そして「夏の扉」に引き継がれ、そして爆発する。途中何曲か抜かしたけれど、基本ラインはたぶんそんなに違っていないだろう。
シングルでは「夏の扉」を最後に作詞が松本隆にスイッチされる。「白いパラソル」(81年7月リリース)。でも、描かれるリゾート的な世界観は三浦作品から違和感なく引き継がれる。ああ、松本隆だぁ、と後から思わされるのは、大瀧詠一作曲の「風立ちぬ」からだ。81年10月発売の、秋のリゾートソング。思いつくままに清里について検索すると、観光客数は1975年に87万人だったのが89年に254万人、という数字(Wikipedia)しか見つけることができず、この曲がリリースされた80年代初頭の空気感を掴むことはできなかったのだけれど、ビーチリゾート同様、高原リゾートも新しい意匠をまとい始めていたのだろうとは思う。実体感にはまだ乏しいにしても、それでも人は「想像する」生き物なのだ。
風立ちぬという松田聖子7枚目のシングルと、同名アルバムにおいて、松本隆と大瀧詠一は完全無敵のタッグを組む。以上は大瀧のアルバム「ロングバケーション」の発売からたったの1年半の間に起こったことだ。1年半。すぐに過ぎちまう時間だけど、中学生にとってはけっこう長い時間(アインシュタインもそう言ってる)なので、ロンバケと風立ちぬが点から線になるには十分な時間なのかもしれない。その後、大瀧✕松本、で松田聖子のシングルが切られたことはないと思うけど、それでも1980年に三浦✕松田聖子(✕大村雅朗)によって生み落とされて日本人の感性を大きく変えたリゾートミュージックの奔流は、松田聖子と松本隆という声と詞の組み合わせによって引き継がれ、83年4月までは続く。そしてこの年の夏前からは「東京の時代」に置き換わる。その東京の輝きは、形を変えながら、そして日本の人々の感受性を変えながらも1994年まで続くのだ。次はガラスの林檎と瞳はダイアモンドについて書きたいなあ。
2024/09/27