『発注いただきました!』から思考を飛ばして考えたこと
こんにちは、すぴかです。
先日朝井リョウさんの『発注いただきました!』という本を読みました。
様々な企業からの執筆依頼を受けて書いた短編小説集となっていて、小論文?って思うほどの短いものから、少し読み応えのある短編まで沢山ありました。またテーマも、キャラメルからお酒など、身近な題材でとても読みやすかったです。
今回も本文を引用させていただき、ちょっと自己中心的に文章を書いていきたいです。
凄く刺さりました。読書経験の浅い私なので、読む本のほぼ全てに、「え、すごい感動する。メモらないと。」という現象が起きています。
この本は全体的に明るめで重い話は少ないと思いますが、こういう些細な会話の中に、核心をつくようなフレーズが散りばめられているのがすごい。
ではここからは、私の主観と想像100%で語っていきたいと思います。
※引用元の小説とは完全に逸脱した内容ですのでご了承ください。
「夏休みの小学生」で無くなったとき
最近私が多用する言葉の中に、ジブリ映画『魔女の宅急便』でキキが言う「暮らすって物入りね」というフレーズがあります。私は学生なので、全く独り立ちはしていませんが、最近ようやく、日々の生活を生きていくことがどれだけ手間と労力のかかるものか、実感するようになりました。毎日同じ家事をやること。朝ごはんを作りながら昼食と夕食のメニューを考え(実際にはまだ出来ていないのです)、さらに今日は部屋の掃除をすべきか考える。そういえば定期検診に行かないといけないとか、スケジュールを考えていたら気づけば夜。あれ、やりたかった勉強とか読書ができていないな…。
毎日生きるって、ずっと何かを考え続けるせわしいことなのだなと思っています。
このnoteを読んでくださっている方の中には、そんなの当たり前だ、気づくのが遅いと感じる方、あるいは全く違う意見の方もいるでしょう。
多分私は、幸福なことに、高校生まで「夏休みの小学生」状態を過ごしていたんだなと思っています。
とにかく自分優先。ゲームをしたければいつでもする。頭の中の100%が学校生活。家のことも手伝うけど、あくまで「手伝う」でした。言われた家事をやる。親の指示を待つ。
私は受け身のまま、自分で「生きる」ことはしていなかったのかもしれません。
人生の選択肢
違う話になりますが、中高生時代、常に「自分の選択肢を減らさない」ことをモットーに生きてきました。どの進路でも大丈夫なように、苦手科目を作らず、とりあえずレベルの高い高校に行き、そして大学も専門の幅がある所を選ぶ。
そうやってどんな人生でも選べるように、というプラスの意味で、私は自分の選択肢を削らずにいました。
そして現在大学生。もちろん様々なことが学べる環境にいて、知識が広がったことは確かです。しかし最近感じていることは、
選択肢を減らさないことは、同時に人生の選択から逃げているのではないか。ということです。
朝井さんの文章のように、選択肢とはいわば自由であり、私たちは年を重ねるごとにそれを減らして、だんだん定まった道を歩くのかもしれない。
でもそれは、安定した人生だという考え方もできるでしょう。
選択肢が沢山あったとしても、選ばずに自由だけ持て余してしまっている状態では辛いです。私はある種の「焦り」を現在感じているのだと自覚しています。
選択肢を減らし、生きること。それは自由を失うという切ないことでもある一方で、ふわふわとした状態から身を起こし、自分のため、他者のために人生を歩むという素晴らしいことなのだと考えます。
「大学生は人生の夏休み」とよく言われますが、私にとっての最大の夏休みは、あの小学生時代なのかもしれない。あるいはこうしてnoteで生き方について考えている時点で、もうとっくに「夏休み」なのかもしれませんね。
もう少し、夏休みを謳歌していたいなと思います。
少し病み気味かつ、まとまりのない文章になってしまいましたが、読んでくださった方ありがとうございます。
個人的には、口には出せない自分の思考の整理になっていて良いのですが、何年後、何十年後に私が再び読んで、「まだまだ若いな」と赤面あるいは失笑しそうな文章である可能性が高く気にしております笑。
また次回の投稿も頑張りたいです!!
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