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『ののはな通信』読了後のつぶやき1

初めまして、すぴかと申します。
先日、三浦しをんさんの『ののはな通信』を読了しました。
普段なら「読んだ〜!」で終わっていたのですが、ちょっと考えたい箇所が多く、せっかくなら文章に起こしてみたいと思いました。
『ののはな通信』は、「のの」「はな」の二人の少女が、恋愛をし、別れ、成長し、それぞれ歩む道を探る物語です。女性の生き方や恋愛、家族、人生について、ハッと思わせるフレーズが沢山散りばめられていると思います。

今日は家族の在り方について、少し書いてみます。
あくまで個人のつぶやきですので、温かく見守っていただけると幸いです。

『ののはな通信』を読んで、家族について思うこと

以下は、本文の引用です。

夫婦間における子供の存在って、逃げ場なのかもしれないわね。だれか一人だけを見て、そのひとの求めるものがなんなのかを察しつづけ、そのひとから与えられたいものがなんなのかを熟考し続けるのは、とても濃密で疲れることだもの。子供という第三者がいてくれれば、力は適度に分散され、感情も煮詰まりすぎない。

『ののはな通信』三浦しをん

この後には、以下の文章が続きます。

子どもはパートナーじゃないんだもの。同じ方向を見て、同じ速度で歩く相手ではない。いつか、べつの方向へと歩み去っていく。それが子どもなんだし、親は本来、それを見守り、見送ってあげる存在なんだもの。

『ののはな通信』三浦しをん

ちょうど両親と自分との関係について考えていた時期にこの文章と出会いました。
母親が更年期に差し掛かって父親を敬遠するようになり、一人っ子の私は普段母親と過ごしつつ、いつの間にか二人の間に入っているような存在になっていました。

思えば、父と母は価値観が大きく違っていて、そこの摩擦が昔からあったように思います。都会育ちの母、田舎育ちの父。家庭のあり方にしても、ニュース1つに対する感想にしても、いい意味でも悪い意味でも「食い違い」がありました。

その姿を見て、この本を読んで、私はパートナーってすごく難しいと感じました。どんなに考えが近くても、他人と意思疎通を続けていく。改めてその難しさを言語化できた今日この頃です。

先日母がひどく激怒して外出してしまい、久しぶりに父親と一対一で話す機会がありました。私は泣き虫なので号泣しながらこれまでの母親の葛藤、間に置かれた自分の心境を伝えました。

何かの拍子に、私が父と母のどちらについているのか、という話になりました。
父親は、 私が母の味方になった方が絶対にいい と言いました。母の辛さ、孤独さを分かった上での気遣いの発言でしょう。
その時、なぜか、普段舌足らずな私はこう言ったのです。

「私は母の理解者だけど味方かどうかは分からない。そこは個人どうしの関係だから」

言ってから、自分でも驚きました。咄嗟に出した言葉だけれど、私はこんなこと思っていたの?と。そんなドライな性格じゃない!と。

本当に驚いたのですが、
今思えば、『ののはな通信』の先のフレーズが影響したのかなと思います。
子供はいつか別の道をゆく存在。
今の私の置かれている立場に関わらず、いつかは私も離れなければならない。そういう自覚が心の底にあったのかなと感じます。
私は今大学生で、まだまだ未熟者ですが、だんだん親離れをしなくてはならないと気づき始めています。
それでも、家族のことはずっと理解できたらなと思います。たとえ家族が個人の集まりであったとしても、赤の他人ではない。お互いに、理解しようとすることが重要だと気づきました。

最後に、『ののはな通信』の違う場面の言葉を借りて終わりにします。どうやら私はこの本に多大に影響を受けているようです。

他者の心も、自分自身の内面すらも、等しく遠い。しかし遠いからといって、知る努力を放棄してしまったら、想像の翼はいつまでも羽ばたかず、距離は縮まらぬまま、私たちは永遠に隔てられてしまうでしょう。はな、物理的に遠い場所にいても、あなたは私に教えてくれる。距離を超える術、心に狭く硬い殻をかぶせずに、だれかに寄り添う術。知り、考え、想像することを。

『ののはな通信』三浦しをん

理解すること、寄り添うこと。これからも大事にしていきたいと思います。


駄文ですが読んでくださりありがとうございました!
まだまだこの本には素敵な場面が沢山あります。
不定期ですがまた更新したいと思っておりますのでよろしくお願いします。

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