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花幻忌をゆく|原民喜さん|写真日記



『悲歌』 原 民喜はら たみき

濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頰笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに



 3月13日は《花幻忌》。
 この月を迎えると、ひな祭りよりも先に、民喜さんの柳を撮りに行こう、と思う。
 そして思い出すのが冒頭の詩。
 それからしばし小説を読み、詩を味わう。
 毎年同じことをしている。


 『悲歌』は、初出が『歴程』昭和二十六年四月号、とのことなので、自ら命を絶たれたその翌月ということになります。『碑銘』と並ぶ最晩年の詩。

 原民喜さんについてはもう書きたいことは書き尽くしたように思います。
 私にとってトラウマ的に怖ろしいヒロシマの惨禍と原民喜さんの作品は密に絡み合っているので、このことについて語ると、無傷ではいられません。
 そんなわけで、この記事は引用と写真で組み上げます。




シダレヤナギ(『永遠のみどり』)

広島市中区橋本町、京橋川沿い。(写真の奥の方にJR広島駅があります。)原民喜さんのおうちがあった場所。お庭のシダレヤナギは傾き、川の上に大きく張り出しています。原民喜さんはここで被爆されました。
地面近くにある小さなプレートは《被爆樹木》を示すもの。広島市では、目録を作って管理しているそうです。
爆心地から1.4km。周囲の被爆樹木を見るに、爆風で一度にここまで倒れることはないはずで(むしろ折れます)、斜めになったあと、年月をかけて重みで傾いたのだろうと思われます。爆心地から2.5km圏内は自然発火しましたので、ここも燃えていたのでしょう…。
以前、このエリアに住んでいたことがあります。マンションから表に出ると、原家の敷地だった場所に面していました。原爆の前夜に民喜さんが姪御さんを背負って川上に避難した経路も、私にとっては歩き馴れた場所です。それで、民喜さんは、私にとっては「会ったことのない先輩(もし町内会に文芸部があったなら...)」のように親しく思えます。
やわらかな新芽。風で揺れるので、撮影も運任せ。
厳密に言うと、『悲歌』は東京に移り住んだあとで詠まれているので、"濠端の柳"はこの木のことではないけれど、きっと焼け野原で見たこの柳は目に焼き付いていたと思う。
左からの風。もう少ししたら、尻尾みたいな形のお花が咲きます。
『原爆小景』は、惨禍の核心を記した詩群で、「コレガ人間ナノデス」のように漢字とカタカナ。最後の一篇『永遠のみどり』のみ、ひらがなが用いられていて、それだけでほっとします。のちにメロディがつけられ、広島の小学校で歌われています。




平和公園の詩碑(『碑銘』)


遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻
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《花幻忌》はこの詩由来。亡き奥さまの姿を花に託しています。"石に刻み"は、100万℃を超える熱線で人型の影が焼きついた御影石、"砂に影おち"は、10秒間死の光が輝き続けたあと、空が暗く垂れ込めたこと、を想起させます。
反対側の面。佐藤春夫氏による追悼文。



『鎮魂歌』より


 一切の感情を排した記録文学『夏の花』に対し、観想が渦巻き、半ば錯乱しかけている『鎮魂歌』。生き延びてしまった苦しみが心に突き刺さります。この2作はどちらも傑作、双璧ではありますが、教科書で目にする『夏の花』に比べて認知度が低いので、紹介しておきます。
 ひとつの死/嘆きとは奥さまのこと、無数の死/嘆きとは原爆による死者のことです。


自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。

自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせいだ。

おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行ったのだろうか。わからない、わからない、僕にはそれがまだはっきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはっきり見ていたことだ。

そして、妻よ、お前はいる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遥かなところまで、最も切なる祈りのように。


一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。

死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは……ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。
 僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。
 明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだろう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもってそこを通りすぎるだろう。


青空文庫:原民喜『鎮魂歌』


原爆ドーム〜おりづるタワー


おりづるタワー屋上階。階段を上ると、平和公園が見渡せます。
おりづるタワーから見下ろす平和公園
右端の《相生橋》は、T字型の特徴ゆえ、原爆投下の際に目印になりました
下端の丸い噴水の左下あたりに、原民喜さんの詩碑。樹に隠れています。
おりづるタワー12階。階段を降りた向こうに、《爆心点》を示す説明板。窓の外に見える「島病院」の上空600mで、原子爆弾が炸裂しました。
産業奨励館=原爆ドームを設計したヤン・レツルについての展示


屋上階から見る原爆ドーム。ほぼ真上から爆風が吹き付けたため、倒壊を免れました。
「もはや建造物ではない」
痛々しい骨組みと、向こう側が見える壁。
樹脂の注入により修復保存されていますが、風雨にさらされ続け、傷みも激しいので、いずれは被覆することになるとの見通し。
元安橋。
原爆資料館(上端)、慰霊碑、平和の池、平和の灯



【おまけ】鈴木三重吉文学碑@平和公園

原爆ドームの隣に立つ碑
川向こうの《平和の鐘》


終わりに


 最近、図書館で借りてきた『ボードレールのパリ』という写真図録を眺めている。「リュクサンブール公園でよくお散歩していた、ですって!? 確か(観光で)行ったと思うけど、もっと心して踏みしめてくれば良かった…」など、ページを繰るごとに色めき立ってしまうのですが(そして疲れる)。
 いつかお墓にお花を供えたいと思うの。モンパルナスの墓地に。
 でも、原民喜さんのお墓なら、そのつもりにさえなれば今からでも行けるのに、行こうとしない私。文人のお墓参りにある、どこか浮ついた心持ちが、私にそれを禁じるのです。その誠実さは、無くしたくないと思う。
 それにしても、ボードレール、オスカー・ワイルド、原民喜さん。みんな46歳頃に亡くなっていて…儚いね。



 原民喜さんについては、マガジンに収めています。主なものはこちら。

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