アモールとプシュケー〈9〉神々の祝宴
第9章 神々の祝宴
ゼウスが若き恋人らの願いを聞き届けた真の理由は不明である。
クピードによれば、ゼウスは恋の矢には懲りたので二度と自分を煩わせてくれるな、との交換条件を持ち出したとのことだった。
ゼフュロスがのちにうっかり口をすべらせたところによれば、その条件はクピードの側から出したものであり、ゼウスはそれを呑むでもなくただ一言、次に見目容貌の並外れて美しい乙女を見つけたら、今度こそは連れてくるように言っただけだったという。
いずれにせよ、光の神アポローンや武神アレース、知恵の女神アテナや大地の女神デメテルなど、名だたる神々を事もなげに左右に従えたゼウスは、まっすぐに見つめることも憚られるような威厳に満ちていた。
プシュケーは、手を掲げて讃美の礼を執ろうとしながら、ふと膝の力が抜けてしゃがみ込みそうになった。
これでもなお、真の姿を顕してはいないということに、ただただ身のすくむ思いだった。
「そなたの徳により、そなたを女神となそう」
隣に並んでともに膝をついているクピードは、たっぷりと襞をとった光沢のある繻子絹を、たおやかな胸の下で優美に絞り、裾を長く引いた純白のプシュケーを見た。優美の女神たちの粋を凝らした技により、見事なまでに優雅に、そして可憐に装われていた。その上、装われたというより、この姿で生まれてきたかのように、自然な調和をたたえていた。
少し青ざめた肌はいっそう透けるように細やかで、優しい瞳も気品ある鼻すじも静やかな唇も、長い睫毛の先までもが、すでに女神になり果せたかと思われるほど、瑞々しく清らかだった。
結い上げた栗色の髪に編み込まれている薄青い花びらが震えているのは、風のせいではないようだった。
「死を知ることこそが生を知ること」
ゼウスは、神々の給仕たる少年ガニュメデスの差し出した玻璃の高杯を受け取った。神妃ヘラが、複雑な意匠の彫り込まれた翠玉の水差しを青春の女神から受け取り、水晶のように輝く液体を注いだ。
「つねに生と死を対照させ、愛と生をつなぐ者となれ」
ゼウスの輝ける面輪を貫く深い青い眼のなかから、鮮やかな穹窿と星辰が、空を拓く稲妻のように閃き出でて、プシュケーは束の間目を固く閉じた。瞳の中に森羅万象が赫灼と光り、響動もしていた。セメレーが撃たれたのは、このような稲妻だったのかもしれない──受け止められようはずのない烈しさだった。
妻なるものすべての守護女神であるヘラに厳然と、けれど深い慈しみをこめた眼で促され、プシュケーは傍らの愛の神と目を合わせて、なんとか気を落ち着かせようとした。
怖ず怖ずと進み出ると、杯を受け取る。身体が震えて制御もままならず、不死の神饌に満たされた玻璃の杯を取り落として、何もかもを台無しにしてしまいそうだった。
ようやく気を確かにし、杯を口もとに運ぼうとするプシュケーの、おぼつかなげな手をふと押さえ、クピードはいたずらっぽく目を輝かせた。自ら泡沫の液体を口に含み、プシュケーの細腰を片手に抱きよせ、唇を深く重ねたのだった。
喉に流れ込み、小さくはじける泡の感触にプシュケーは束の間目を開け、瞼を瞬かせた。やわらかな炎のように、生命がほとばしり、流れ込んでくる。
そしてふと気づく。
いつもどこか高いところから、混じりけのない冷たさで彼女を見下ろしていた死の天使の、美しき眼が、いつしか消え失せていたことに。
そうだ──たしか、冥府でペルセフォネー様が、額に手を当てた、あの時から。
心の中が、輝ける春で満たされていた。真っ白な強い輝きが、身体の奥から貫くようにはじけ、彼女を純白の炎で鍛えたかのようだった。
クピードはようやく長い口づけを終え、楽しげにほほえんだ。見ると、頬の火傷の痕はすっかり消えていた。
「……いまのお酒のおかげですの…?」
一瞬不思議そうな顔をした後に得心したクピードの頬に、プシュケーは、確かめるようにふれてみる。クピードの手がそれを包み、ふたりは初めて触れあったときのことを思い出してまなざしを交わしあった。
「きみの背中にも、羽が生えたのだね...きみらしくて、綺麗だ」
プシュケーが背中をすかし見ると、肩のところで、うす青い銀の羽が、日の光を映してやわらかく輝いていた。
「この祝宴が果てたら、きみの父上と母上に会いに行こう。それからハデスとペルセフォネーに、キュアネ河のほとりで会いたいと訊ねてみよう。ハデスがきみのことを許してくれて本当に良かった。私も、恋の矢のことを謝りたいんだ...ゼフュロスの言うとおりだ──どれほど重大なことだったか、君を愛するようになって、よく分かったから...」
プシュケーは、夕映えのしずくにも似た清らかな目見に笑みを含ませ、クピードを見つめて、軽やかな調べさながらにほほえんだ。
「ペルセフォネーさまがいらっしゃるから、きっとなにもかもうまくいきますわ」
オリュンポス十二神と、それを取り巻く神々の中、中央のあたりにいた女神が、不意に声を上げた。
「プシュケー」
アフロディーテだった。
白鳥の引く車駕で乗りつけた天翔る女神は、ほっそりと豊かな肢体を美しい純白と薔薇、銀梅花で包み、暁に戯れる波穂のごとき初々しさを眼差しにたたえ、進み出た。煌らかな亜麻色の髪は咲き匂う愛を零し、白銀に輝く足の爪先まで、すべてが美の調和に満ちていた。その唇には、すべての者を甘やかな降伏へと誘い込む、抗いがたい艶やかさがあった。
どの女神もそれぞれ麗しいにせよ、多くは隙のない、峻厳なる美を有していた。一方、アフロディーテは、このひとなら抱きしめてもよいのではないかと思わせる、親密なる甘やかさを、たおやかな姿から咲き匂わせていた。
それが、その美しさゆえにオリュンポス十二神の列に迎え入れられ、すべての神々が妻にしたいと今もなお気高い胸を騒がせ続ける女神、アフロディーテだった。
美の女神は、荘厳な場に敢えて挑んだ息子に、賞賛を含んだ笑みを送り、それから息子の愛する乙女を見つめた。
「アフロディーテ様」
プシュケーは胸に手を当てて跪き、少し青ざめながら深く頭を垂れた。
「私のような者が、末席を汚してもよろしいのでしょうか」
女神は一瞬すっと眼を細めたあと、上からたっぷりとプシュケーを見下ろした。それから、不意にくすりとほほえんだ。
聞く者を甘く揺らす声が、音楽の調べのようにこぼれ、やわらかなうす紅の唇で調和を結んだ。
「ようこそ、わたくしたち女神の列に。ともに並べる事を喜ばしく思うわ。──けれど、美しさと貞淑は、並び立つのが難しいもの」
女神はプシュケーの前に膝をついて、面を覗き込んだ。髪に染み込ませた没薬の甘く、どこか秘密めいた香りが、衣ずれとともにふわりと立つ。プシュケーは軽いめまいにも似た甘美なおののきを感じた。
そのまま、女神の長い袖の裾を恭しく両手で押し戴いて、一層頭を低く垂れた。
女神は、オリュンポス山に降り積む処女雪をもあざむく指先を差しのべ、プシュケーの面を上げさせると、目深く覗き込んだ。榛色の瞳の奥には、水晶の浜辺を洗う明け方の波のような澄んだ輝きがあった。そしてそこには、朝露に濡れた花の蕾が、静けさを蓄え時を数えつつ、やがて知る孤独を押してほころぶような、孤高の凪があった。
真の美というものは、ひたすらに隔絶し、孤独へと極まっていくものなのかもしれない──プシュケーは一瞬、永劫というものの深い淵を覗き込んだ思いに身を震わせた。
「あなたは、アンブロシアを飲んだ僥倖にかけて、永久にクピードを愛し抜きなさい。それがあなたの歓びの泉となるのだから。──そして、あなたの名前を証ししなさい。ゆくゆくは、あなたの二つ名は《魂》となるの。《智》や《徳》や、あらゆる善きものの中でも最上の《愛》を直観し、選び取った者として、語り継がれることになるのよ」
そして女神は立ち上がると、周囲を見渡し、波間にたゆたう真珠のような艶やかさを声に含ませ、婉然とほほえんだ。
「そしてわたくしはこの身の美と愛を証するために、これからも多くの殿方との逢瀬を楽しむことにいたしますわ」
それから時を移さず、クピードとプシュケーの婚礼の祝宴となった。
黄金の頭に月桂樹の冠を戴くアポローンが、輝ける指先で七絃琴を奏で始めると、九柱の詩の女神が見事な調和を見せて笛を吹き、讃歌を歌い、舞を舞い始めた。季節女神たちも加わり、パーンも葦笛を鳴らして和した。
優美の女神が薫香をたなびかせ、花の女神フローラの可憐な歩みの後ろでは、咲き初めたばかりの花々が香りよく舞っていた。
豪華な大理石板の食卓には、零れんばかりの花々があでやかにあしらわれ、神々の後光を受けて輝く玻璃の器に、なみなみと注がれた神酒や、香ばしく上品な食事がまめやかに並べられている。
プシュケーは、宴のあまりの壮麗さに気圧されて、言葉もなく見惚れていた。
クピードはそんな妻を気遣い、さりげなく食事を勧めながら、自らもそれに従った。
見たことのない食物に戸惑い、プシュケーは良人に倣おうと視線を向ける。
峻厳なる神々の立ち交じる中で見るクピードは、ほとんど少女めいた手つきで、実のような赤いものをおっとりとつまんで口に運んでいた。他のどの神でもなくこの優しげな青年が、闇の中で恋に落ちた相手でよかったと安堵するプシュケーだった。
神々の食物は少量でよく、すぐに光となって身体を潤すのだという。
けれどプシュケーは、これほどの場では何も喉を通りそうになく、良人の勧めに従って神酒をほんの少し口に含むのが精一杯だった。
その合間に、クピードは、離れたところに立っている父をそっと見た。ふらりと現れたアレースは、アフロディーテを見つけるや、暗い熱情をたたえた眼で、匂やかな花の容顔を貪るように見つめた。甘えかかる微笑を認めたものか、荒々しく抱きすくめて唇を奪う。アフロディーテは、勝ち誇ったような、そのくせひどく優しい眼差しで恋人を見つめ返すと、子守歌を歌うようにやわらかな口づけを返した。そのまま、つと耳元に唇を寄せ、囁いた──今夜、唇が渇かないうちに、いらしてね──。
目交ぜで頷いたアレースはその場を離れ、それからは、ひとり泰然と構えていた。粗暴な性質のゆえに彼を好まない神々も多く、わずかばかりの親交があるとすれば、冥王ハデスのみであったのだ。
高雅な白で包んだ逞しい身体、露わな腕には鍛え抜かれた筋肉がなめらかな隆起を浮き立たせている。体幹から指の先まで、動きのひとつひとつに剣戟の閃きが響くその様は、気の弱い者を恐怖でおののかせる殺気を秘めていた。
並み居る男神の中でも一、二を争うと言われる美貌はやるせない凄みをたたえ、鳶色の瞳は激情を焚きつけられる瞬間を待ち望むようにくるめいている。
唇に浮かべたいつもの不敵な笑みは、けれど今日は心なしか和らいでおり、闘いの神は優美な息子の姿をじっと眼で追っていた。
クピードは、静かに眼差しを伏せると、傍らの妻を見つめた。
ネクタルを口にしたプシュケーは、やや落ち着いたように見えた。
そこで、再び食物を勧めてみると、プシュケーはうなずき、おそるおそる淡い水色の実を口に運んだ。
口中でほどけるやわらかな光の舌ざわりに、プシュケーは目を見張った。春風に散る光のようなそれが、良人からの最初のくちづけを思い起こさせたため、少しはにかんで良人を見上げた。
ほほえみを交わすふたりの横を、空色の瞳をなごませた虹の女神イリスが、親しげに頷きかけつつ、玲瓏たる白金の御髪をなびかせて通り過ぎていく。
神々の約定の標として空に虹を架ける女神イリスはまた、使いの神としてヘルメスと並び冥府に出入りできる身だった。それゆえ、良人ゼフュロスに頼まれて、プシュケーが冥府をさまよう間、様子を見にいっていたのだった。
彼女は七色綾なすかげろうを肩先にまといかけ、まっすぐにヘラのもとに戻っていった。神妃の熱烈な信奉者であり、忠実なる従者であったのだ。
ゼフュロスが妻を追うようにやってきて、風の息吹にのせてあたりを言祝ぎ、蒼い眼差しで涼風を立てた。
清新なる風を身に侍らせた青年神の輝ける銀髪は、空に松明を掲げるように渦巻いている。
原初の昔に紡がれた空の蒼を溶かした瑠璃の瞳は、金砂とも見える燦めきを明るく揺らしていた。
クピードと比べて幾世代か古い神だというのを思い出して、プシュケーは半ば畏れに打たれ息を呑んだ。
故郷の王宮で空から舞い降りてきた姿を見たとき、そのひとの言葉通りに、何の不審もなく西風の神だと納得し、けれど畏怖するでもなく導かれて風に乗ったのは、なぜなのだろう。いつも親しげで朗らかなそのひとは、他のどの神々とも異なり、そよ風のようにさりげなく風景に溶け込んで、いつも人々のそばにいるように見受けられた。
プシュケーの視線を、おもしろそうに受け止めて微笑したところは、いつもの朗らかなゼフュロスと変わらなかった。
「よかったですね、なにもかも、おさまるべきところにおさまりそうで。しかも、ご覧なさい、冥府のふたりまで姿を見せましたよ」
プシュケーは、弾かれたように立ち上がり、なつかしい姿を探した。
少し離れた岩陰に、一頭の黒馬がいた。白い外衣と黒髪を風に揺らめかせた馬上のハデスが見える。その手前には、最も高貴な色である紫で淡く染め出した絹衣をまとったペルセフォネーの、つややかな姿もあった。
互いの名を呼び合いながら、ふたりの女神は固く抱きあった。
「なつかしいわね…いくらも経っていないのに」
「ペルセフォネーさま…わたし、──ああ、いろんなことがありすぎて……でも今はただ、お会いできたことがうれしい…」
「わたくしもよ……あなたにどれほど感謝していることか…」
ペルセフォネーの、透き通るように青ざめていた面差しが明るみ、氷肌の頬にはかすかに花の色がさしていて、プシュケーはそのことにも安堵した。
クピードは少し青ざめながら立ち上がり、けれどまっすぐにハデスの前に歩み出ると、身を低くし深々と頭を垂れた。
ハデスは、地上を覆う不吉な影のように立ち尽くし、あたりの静けさを引き寄せる氷晶の眼で、若き神を見下ろした。
クピードは、いつもは夢見がちな茶色の瞳に真剣な光をたたえ、まず、妻が死すべき定めから解放されたことについて、慈悲深い承諾に深謝した。
頷くハデスを見て、クピードは少しほっとして、息をゆるめた。
大事な話の始まったのを見て取り、ペルセフォネーは良人の傍らにすっと寄り添った。プシュケーもそれに倣う。
クピードは一瞬、傍らの妻に視線を合わせてから、再びハデスに向き直った。
「私は...これまで幾多の人間や神々に矢を放ってきて──でも、自分で誰かを愛したことはなかったから……うらやましかったのかもしれません。心の底から魅かれ合う想いが──だって...愛を知らない愛の神、なんて、おかしいでしょう?」
ハデスの眼は常と変わらず、鋭く冷たげに見えたが、クピードはひるまなかった。
「母は…あんなにいろんな愛を知って豊かに生きているのに、私は……もしも愛することができるなら、たった一度だけなのかもしれないと、そんな気がしていたのです」
ハデスはまた、静かに頷いた。
「だから、いつか誰かを愛するなら、恋の矢に頼らず、自分の心が示すひとを愛したいと思っていたのです──ずいぶん身勝手だと思われるでしょうけれど……なのに、結局……」
クピードは寂しげに笑って、背の高いハデスを見上げた。
「だから……ハデス、あなたとペルセフォネーが、私の矢でどれだけ苦しんだか、今ではよくわかります」
「クピード」
声を上げたのは、ペルセフォネーだった。
「わたくしには、どうやって愛をはじめるのか、正しい道筋が存るのかどうかさえ、わからないけれど……真実の光は弓矢よりも速く、魂の輝きはもっと深いところまで届くのではないかしら…」
そのとき不意に、アフロディーテの声がして、四人は振り向いた。
「──愛の神が、その道具である恋の矢に支配されるはずがないでしょう? その矢はクピード、あなたには効かないわ」
「そう……なのですか、母上──」
「ええ」
いたずらっぽく笑って、美と愛の女神は言葉を継いだ。
「だってわたくし、試したことがあるの。あなたが寝ている間に金の矢を手に持たせて、恋に落ちたがっている人間やニンフを集めて。あなたにだけは効かなかったわ…かつてこのわたくしにさえ深手を負わせたものを──けれどなんだか、誇らしい気がしたものよ──」
半ば絶句し、それからクピードは泣きたいような、笑いたいような、言い表しようのない陶然とした思いに掴み締められ、その場にしゃがみ込んだ。
「アモール…?」
プシュケーは、心配そうに良人に身を寄せた。
「プシュケー──きみにその名で呼ばれると、想いがつのってどうしようもなくなるから、今はその名で呼ばないで」
プシュケーは顔から火が出そうになり、立ち上がった。視線が、助けを求めるように恥じらってさまよい、最後にゼフュロスに行き着いた。
「プシュケーさん。万事めでたしですよ」
西風の神は、連れだってきた花の女神と優しく目を見交わしてから、快活らしくほほえんだ。
フローラは、手にした薄桃色の花をプシュケーに手渡そうとし、クピードがまだしゃがみ込んだままなのを見て、代わりにとばかりに、プシュケーの編み上げた髪にそっとあしらってくれた。
そしてまた、ゼフュロスのなごやかな眼差しを見つめ返し、そよぐ花のようにはにかんだ。分かち難く結ばれているふたりの姿を、プシュケーは憧れをこめて見つめた。いつも、風の指先で揺れている花々は、この女神ゆえに美しく、この神ゆえに心ふるえるほどたおやかだったのだ。手折ることなく花を我がものとすることのできる風の不思議さを、いま自分は目の当たりにしている、と感じる。
己が人間であるよりも一輪の花でありたいと願ってきたこと、アモールの腕の中でそれが叶った気がすることを、いつかフローラに打ち明けたい──そう、プシュケーは思った。
その時、アフロディーテが近づいてきた。目もとで頷くのを見て、プシュケーは良人を置いて女神の許へ進んだ。跪こうとする乙女を、女神は両腕を差し伸べて制した。
「──誰とも恋に落ちないクピードが不可解で、ずっと気がかりだったの…だから、恋の矢の効き目まで試したりして、自分でもいらぬ世話だと思っていたわ──プシュケー、はじめこそあなたに嫉妬していたけれど、今は違う。こののちも、あなたには感謝してもし尽くすことはないわ」
この、美の極みたる女神が、なぜ誰かに──ましてや自分のような者に、嫉妬せねばならないのか──見当もつかず、いぶかしみながらプシュケーはつぶやいた。
「アフロディーテ様…私こそ、クピード様ゆえに、愛することを知ったのです──」
人間の乙女の例に漏れず、心から敬っていた女神と、こうして言葉を交わしていることそのものが、途方もないことに思われる。
軽くほほ笑んで、アフロディーテはちらりと息子を見た。
「あなたを冥府に遣ったこと、クピードに怒られたわ。ものすごい剣幕で──あなたには想像がつかないのではないかしら。あの子もアレースに似たところが少しはあったようで驚いたの。時々、あの子の父親は本当にアレースだったのかしらって、分からなくなる気もしていたけれど。いいえ、あの頃はわたくしアレースの虜だったから、彼以外にあり得ないのはよく分かっているのよ。そして、わたくしをそんなふうにしたのは、後にも先にもあのときのアレースただひとり。奇跡のような日々だった──だから、クピードはわたくしにとって特別な息子であり、二度と生まれ得ない唯一無二の、完全なる愛の神なのよ...」
ふっと遠くに目をやるアフロディーテの瞳に、再び、何人も寄り添うことのできない凪が立ち現れた。
「──そうね...あるいは、わたくしに似たのかしらね。愛は時にひどく狭量だものね...そう思うと辟易したけれど、頼もしくもあったわ」
アフロディーテは優しげに笑んだ。その唇では、清らかな蠱惑がつやめいた調べをとめどなく奏で、零していた。
「わたくしは、これからもたくさんの恋や愛に身を置いて生きていきたいと思うの。だって、情熱が過ぎ去った燃え殻をいつまでも慈しむのは互いへの欺瞞だわ。わたくしは残酷でありたいと思ったことはないけれど、かといって優しくありたいと願いもしない。誠実さの犠牲にもならないわ。──けれど、心はひとつしかないから、本当はひとりのひとだけを求めているのかもしれないわね。そう思うこともあるわ。──だからこそ、わたくしは誰かを愛するときに、すべてを注ぎ尽くしてその方を慕うことにしているの。その時々の、わたくしで……生まれ変わった思いとともに」
アフロディーテは優雅な白銀の爪先で和草の露を軽く踏みしめ、ハデスとペルセフォネーに歩み寄った。いつしか立ち上がり、妻と母を見守っていたらしいクピードも、それに従った。
「そのことをわたくしに知らしめたのは、あなた方だったのかもしれない──惑い、すれ違っても……ペルセフォネー、あなたは結局、一度たりともハデスのもとを離れることはなかったわね…そして、ハデス、苦しみ続けたあなたに、わたくしはひそかに感服していたの──そのような愛し方は、誰にでもできるわけではないはずよ」
アフロディーテは、暁の如く澄んだ瞳で、冥府のふたりを見、それから膝を折った。クピードもそれに続き、真摯な瞳でハデスを見つめてから、慎ましく身を低めた。
「軽はずみに矢を射かけるよう言いつけたわたくしと、息子を、どうぞ許して…」
ペルセフォネーは、その貴なる愛の形そのままに、しずやかにハデスを見上げた。無口な良人のまなざしを読み取り、腕にそっと触れる。
「ハデス……もう、この少年のようなひとを許してあげられたらと願うわ」
ハデスは、妻を見るまなざしに、柔らかな夜をにじませて頷いた。
「そうだな──公正をもって存在の礎としてきた私の、ただひとつの過ちが、我が妃を愛したことであるならば──」
悠久の昔より、幽寂なる夜を見納めてきた冥府の王は、よく通る深い声で言った。
「アフロディーテ、立たれよ。貴女は本心では、償うべきいかなる咎も負ってはいないと考えておられるのだろうから」
艶やかな女神の、蠱惑の核心であるところの孤高を一瞥し、それからハデスは若き神に向き直った。
「クピード、そなたも立つが良い。そなたこそが、死ではなく愛によって、地上に公正を行き渡らせ、汎愛をもたらす、新しき神になるのかもしれぬな──如何にも、愛とは実に偉大で、実に無防備なもののようだから──」
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