見出し画像

アモールとプシュケー〈8〉美しき死の花



第8章 美しき死の花



 冥府を流れる川のひとつ、蒼きステュクスのほとり──一群ひとむら不凋花アスフォデロス水仙死の花に囲まれた辺りに、ほっそりと優美な、ひとりの青年の後ろ姿がある。
 青ざめた初花のようなその姿を、ペルセフォネーはしばし歩みを止めて見つめた。
 彼の名はナルキッソス。未だ幼さの影を残した若々しい青年である。
 河の神と水の精の美貌を受け継いだ、この世ならぬ美しさゆえに、愛神あいしんクピードに似た面差しとまで囁かれたほどの清純さであった。
 その甘美は、数知れぬニンフや若者、乙女らに恋情の炎を焚きつけながら、誰ひとり受け入れることはなかった。
 あるひとりの若者が、決して報われぬ恋を彼に与え給え…と天に腕を差し伸べて恨みを述べた。それを、復讐の女神ネメシスが正当であるとして聞き届けた。
 泉に映る己の姿に恋をしたナルキッソスは、自分自身の仇姿あだすがたに焦がれていると知りながら寝食も忘れ、恋に欺かれて物狂おしく胸の炎に焼き滅ぼされていった。そして、泉に映る我が姿もろとも同じひとつの息を引き取り、その場に一輪の水仙の花を残してついえ去ったのだった。
 彼は死してなお正気のていもなく、今度は広々とした川面に映る己の姿に冷たく燃え上がりながら、苦しみのただ中で己が姿に魅入っているのだった。


 人は苦しみを手放すのに、なんと長大な時間を要することだろう。
 思い半ばに抱え込み、手放せば楽になると知りながらうべなえず、惑いもがきながら冥府の坂に立ちすくむあまたの人々を、ペルセフォネーは今日も見た。
 プシュケーもあの坂をたどりながら、どれほど心を凍り付かせたことだろう。気の毒ではあったけれど、誰かがここのことを知ってくれたというそれだけで、自分の苦労があがなわれた気持ちになるのだった。


 先刻のこと──プシュケーが去って行った扉のほうから、入れ代わるように良人おっとが帰ってくる気配がした。ペルセフォネーは、女王の玉座から立ち上がると、反対側の出口から広間の外に逃れたのだった──しばらくひとりで考えようと。
 地上ではおそらく、ひと月近く経過したはずだ。プシュケーは無事にクピードのもとに帰っただろうか。
 ハデスがクピードのことを深く恨んでいるのはあまりにもよく知っていたけれど、どうにかしてプシュケーが不死の身になることをハデスに受け入れてもらわなければならない。
 無防備なほどまっすぐに、ひたむきに良人を慕う姿に、深く心を動かされたのだった。
 春の蕾のように初々しい気色ようすが、まだ何も知らない無邪気な乙女だった頃の自分を思い出させた。

 地上で、春の女神として《乙女コレー》と皆に呼ばれていたあの頃。その晴れやかな愛らしさによって、オリュンポスのすべての男神おがみに求愛されながらも、月の女神アルテミスや知恵の女神アテナに倣って、生涯花のように清らかな身で過ごそうと思い決めていた。男性でも女性でもなく、大人でも子どもでもない身──それらの《仲介者》として、ヘスティアに倣って、ゼウスの御頭おんかしらに触れ、処女の誓いを立てて誉れを得たいと思っていた。母デメテルは微笑んで、好きなようになさいと言い、それ以来ペルセフォネーは、何かの折には己が願いを公言することもあった。

 それが、アフロディーテには、恋愛を軽視しひいてはアフロディーテ自身を軽んじる態度として映じたようだった。
 ハデスはハデスで、話しかけてくる女性がいても素っ気なく、いつも超然としていたから、美と愛の女神としてはしゃくに触るものがあったのかもしれない。
 アフロディーテの計略腹いせの標的となり、その息子からの恋の矢を受け、ふたりが前後の見境もない激しい恋に堕ちたとき。ハデスはまるで別人のようだった。
 思い詰め、どこか追い詰められたように鋭く、ひどく遠い感じがした。熱い抱擁の中にいながら、冷たい凍星に抱かれているような心地でもあった。
 自分の中のよそよそしさが、恋の矢の情熱さえも突き破り、その裏側に本心を透かせて見せていたのかもしれないと、ペルセフォネーは思っていた。恋に燃え立ってはいたけれど、心の中では、清らかでいられない自分に失意を抱いていた。それが、歯車を狂わせたのだろう、と。

 いつしか、ペルセフォネーは、黒を身にまとうようになっていった。フードを深く傾け、誰の目にもさらされないように──そして、あの坂で苦しむ人々のために、喪に服そうと。
 ふたり抱き合っていた頃には、死者たちを見守る役目が、もう少し堪えやすかったような気がする。今はもうただ虚しくやるせなく、払っても消えない雲のように、彼女を覆っていた。


 ペルセフォネーは、広間に戻ることにした。柳の細枝で仕立てられた、軽いはずのサンダルが、心なしか重く感じられる。
 話をどう切り出そうか──ペルセフォネーは、玉座に座っている良人に近づいた。
 けれど、その姿を見た瞬間に、悟ったのだ。自分が本当に願っているのは、プシュケーの事などではない、ということを。
 賭けてみよう──この一瞬に。プシュケーというひとに出会えた、今日という日に。

 ためらった末、そっと手を伸ばし、良人の冷たい手を両手で包んだ。ハデスは無表情のまま、妻に腕を引かれ、立ち上がった。
「ハデス……お願いがあるの」
 小さな声を出すのが精一杯だったので、彼女はハデスの胸に寄り添うように、わずかに空間を隔てて立った。フードを降ろし、それからふと思い至って女王のティアラを外した。野原で花を摘んでいた頃さながらに、艶やかな髪に大気をはらませて。
 声が届くようにと良人の顔を見上げる。けれどまっすぐに眼を見る勇気はなく、目を伏せたまま声を押し出した。
「もしよかったら……無理にとはもちろん言わないわ──」
 耐えきれず目を閉じ、少女のようにふるえながら、女神はささやいた。
「わたくしを…抱いてくださらないかしら」
 ハデスは一瞬、驚いて妻を見つめた。

 ペルセフォネーがおそるおそる目を開くと、いつもの黒く冷たい瞳が光を飲み込んで、表情を見せずにこちらを見下ろしていた。
 ペルセフォネーは、恥ずかしさと悲しみに、身を震わせた。
 地上に…帰りたい──月の光を浴びて、もう一度清らかだった少女の頃に戻りたい──彼女は良人の胸を離れ、身を翻して駆けだそうとした。
 その瞬間、ハデスが強い力で彼女の手首をとらえた。それは、意図したというよりはほとんど反射的な反応だった。
 己自身に驚きながら、妻に視線を合わせると、ハデスは自問するようにつぶやいた。
「──今の私は、あの矢から自由なのか」
 その声は、ごくわずか、ふるえていた。
「はい……ご存じの通り、もう、とうの昔に…消え去っていますわ」
「私は自分の意志で、あなたを愛してもよいのか」
「ええ…そうですわ──」
「ならば」
 ハデスは妻を引き寄せ、胸深く抱きしめた。
「もう一度……私の花嫁に、なってくれるか?」
 ペルセフォネーは、声もなくうなずいた。
 もし神々に泣くことが許されていたなら、月のように美しいおもてを、光の珠が止めどなく伝っていたことだろう。けれど彼女も涙を持ち合わせてはいなかったから、ただ深く貫かれるように、目の前のそのひとに想い焦がれるしかなかった。半月かたわれづきが、もうひとつの半身を恋うが如くに。


 そのくちづけは、月と星が互いを照らし合い、紡ぎ出す歌のようにひそやかだった。
 ハデスは、妻の唇から受け取った月の光を返そうと、もう一度くちづけた。
 このひとの身体は何もかも知り尽くしたと思うほど愛し合った。乱れた息の清らかな美しさも、黒い瞳に宿るうつつの夢も、彼の名をよぎらせる唇の痛々しい情熱も──だが、今、決して触れ得なかった何かにいざなわれているのだと、彼は思った。
 それに触れたくて、そっと抱きしめる。
「いつもフードをかぶっていて、よくわからなかったが……あなたの髪は、そんなに黒かっただろうか?」
大地の女神デメテルの娘ですもの……地上にいた頃は、茶色の髪でしたわ──長い間、共に冥府に暮らしている間に、あなたの髪のように漆黒になったの。わたくしは《髪麗しき君ハデス》の妻ですもの」
「そんなにも長く、あなたから目をそらしていたのだな…」

 ハデスは、精練された無駄のない動きで自ら玉座に腰を落ち着けると、ペルセフォネーをいざなって、横抱きに膝の上に座らせた。それから、妻の細いくるぶしに手をすべらせ、真珠色の爪先からサンダルを取り去った。
 彼女は、背丈こそ低くはなかったものの、深い闇にかき消えそうなほど華奢だった。硝子ガラス細工のように、強く抱きしめると砕けてしまいそうだった。
 ハデスはそっと、妻のほっそりとした身体を胸に受け、両のかいなで支えた。──死者たちの苦しみに寄り添うあまり、己が心を思うさま蹂躙じゅうりんさせてしまったひとの身体を。

 彼が呪うべき恋に堕ちた頃の彼女コレーは、なよやかな肢体をしていたけれど、これほどか細くはなかった。
 ハデスは、言うべき言葉を失い、ただ名を呼んだ。
「ペルセフォネー……」
 深く豊かな良人の声が、耳と、預けた身体を通して響いてくる。ペルセフォネーは、その響きに深く憩いながら、眼を閉じた。
 こんなにも、このひとの声を欲していたのだ、と知る。飢えかつえた胸の奥に沁みわたる、聖なる水のように。
 その声の深い陰影は、ともすれば己に向きがちな心の刃を、煌めきはそのままに、美しい氷の結晶に変えてゆくのだった。
 激しい愛は望まない──こうして寄り添い、口づけを交わす……それこそ、ふたりが望んでいた愛の形、その核にあるものだったのかもしれない。ハデスにとってもそうだったらいい、と、ペルセフォネーは思った。

「星霜の昔より冥府を統べてきた私が、あの赤子の如き若い神に──操られている己が許せなかった…」
 ハデスは静かにつぶやいた。彼もまた今や、冥府の王たるしるしの冠をその気高きかしらより取り去っていた。
「なにより私は…あの矢がなければ本当にあなたを愛していたのだろうか、あなたを辱めただけなのではないか、と、いつも考えていた……あなたを見る度に。清い身でいたいとの言、伝え聞いていた…」
「もしも…はじめからやり直せていたとしたら、お互いずっとひとり身でいた、そんな二人ですわ……でも、そうね…どのような出会いだったとしても、きっと今は──けれど愛とは本当に不可解なものですわね…」

 夜のゆらぎのなか、おごそかな星のヴェールに彩られ、自分の奥深くで何かが息づき、ささやき交わしていた。
 頼もしい胸に身を預け、良人の穏やかな息遣いに耳を傾けていると、果てしない過去も永劫に続く悲しみも、ひとときに失せ、儚いはずのこの一瞬の揺るぎない確かさが立ち戻ってくるのだった。
「信頼と、肯定と、慈しみと…ふたりでこうしていられることの快さ。それを愛と思えばいいのかもしれませんわね。──きっと、愛なんて、愛の神にしかわからないものなのですわ……」
 ハデスは、妻の艶やかな髪にかすかにうつる星の光を、静かな唇でたどりながら、つぶやいた。
地上うえでクピードと…すぐそこでその妻と、すれ違ったのだ」
「お会いになりましたのね……そうですわ。あのかわいらしい方が女神になれるようにと、お願いしようと思って、あなたのもとに来ましたの」
「まだすぐにクピードのことを許せるかどうかはわからない……だが、もしあなたがそうしたいのなら、オリュンポスに出向いて、あのふたりを祝福してもいい」
「あの出来事をいても、もともと春と冬ほどにも違いますものね…あなたとクピードは」
「あなたは春を好むのではなかったか」
「いいえ…わたくしは冬が好きなのよ……純潔にも似た、冷たい冬が」
 振り仰ぎ、死そのもののごとく冷たく完成された、美しいおもてを見上げる。ペルセフォネーは小さく身震いしたが、それを隠そうとはしなかった。
 冷気の結晶のような瞳に、畏れながらも魅かれてしまうのはなぜなのか。死者たちの苦しみにさほど心を動かされない無慈悲なまでの公正さが、ペルセフォネーにはわからなかった。

 このひとの心の中に、妻への愛の居場所などあるのだろうか。
 冷酷な人なのかもしれない、と思う。目を開けて注視していなければならないと、脳裏の片隅で何かがささやく。
 けれどその声には、盲目的に引き込む眠りヒュプノスのような穏やかな色がある。
 人間たちはいまわの際に、ハデスの眼を引き写したと言われる死の天使タナトスの冷たい瞳に怯えつつも、最後には、この豊かな声に抱き取られて冥府に導かれるのだという。

 ペルセフォネーは再び、良人の胸につむりをあずけ、冥府の空を見上げた。
 青いうすぎぬを幾重にも透かせた、美しくゆらめく夜色の虚空に、浄められた魂たちが静かに、水に映る月のようにたゆたっていた。それぞれが、うす桃や紫、青など、色彩をわずかにまとい、ゆらめいている。その中に、ひときわ白く、強く輝くものがいくつか見て取れた。
「あの白き魂は、もう西風ゼフュロスたなびく極楽の野エリュシオンを抜けて、天界の清浄なる精気に還るのだな──」
 ペルセフォネーは軽く目を閉じて頷いた。プシュケーの額にふれたときの暖かな脈動を思い出す。彼女の魂も、ほとんど純白に近い強い輝きを抱いていた。
「そうね…度重なる転生を終え、ついに始原の青い炎と、ひとつになるのね──」
 幸いなる魂だけが向かうその回帰に、ふたりはともに憧れながら、地の底深く閉ざされた星辰のもとで、互いだけを頼みとして寄り添い合っていた。
「美しいわ……そして愛おしい」
 陶然と、ペルセフォネーはつぶやいた。
 ハデスも、しばし声もなく心を打たれ、妻と同じ景色を見つめていた。

「──あなたをこんな暗い地底に閉じ込めたこと、本当に済まないと思っている……デメテルとの取り決めでは、あなたは一年のうちの四か月のみここにとどまれば良いことになったのに」
「ええ、四つの石榴ざくろをあなたからいただきましたものね」
「私はあなたをあざむいて、冥府ここのものを食べさせ、傍らにつなぎ止めた──あの穏やかなデメテルをして、娘を返さなければ一切の種子の芽を絶やし、人間はもとより地上の生き物すべてを飢えで滅ぼす、とまで言わしめた悲憤でゼウスが動かなければ、二度と日の目を見ることは叶わなかったはずの運命さだめだ…しかも、それを詫びたことすらなかった」
「謝罪の言葉など、要りませんわ…あなたを置き去りにするのが忍びなかっただけよ」
「あの頃、地上と花々を恋しがって、毎日打ち伏していたあなたを見て、悔いていた…否、悔いているのだ、今もなお──だがそれでも、あなたがそばにいてくれることは、我が喜びだった」
「あの頃は──いろいろありましたわね…あなたがわたくしを捕らえるために野に咲かせた水仙死の花は、見事なまでに美しかったわ…あれが、あなたの心なのなら、わたくしはこのくらい地の底に留め置かれても仕方がないと思ったほどに」
「あれは我らが祖、大地母神ガイアの力を借りて産み出したものだった」
「そうでしたわね…あの高祖までもが関わっていると知り、わたくしも覚悟を決めましたのよ」

「──本当は、クピードを恨むのは筋違いだったのかもしれない……いやがるあなたを無理にここにつなぎ止めた後ろめたさを、すべておもいの矢のせいにして、あのあどけない神を恨んでいたのかもしれない」
 ペルセフォネーの、夜露のように深くつやめく瞳が、ひたとハデスをとらえた。
「もしも……それで重荷が下ろせるのなら、謝ってくださってもいいわ──その唇にのせた罪深き愛のあかしを、わたくしの唇にうつしてくださるのなら」
 そこでハデスは、心から深く詫び、そしておのが唇が妻のそれを求めるがままにさせた。




⇒〈9〉神々の祝宴


[frontispiece]Alexandre Cabanel: Desdémone (1871)

この記事が参加している募集

いつもサポートくださり、ありがとうございます。 お気持ち、心よりありがたく拝受し、励みとしております。