アモールとプシュケー〈7〉天上への階
第7章 天上への階
その時、ゼフュロスが窓から飛び込んできた。身の軽い彼にしてはめずらしく、壁龕の花瓶や石彫の花綱飾りがカタカタと揺れたほどだった。
その手には、黄金の小箱があった。
ふたりの恋人たちは、同時にゼフュロスの名を呼んだ。
「ああよかった…なにか悪いことでも…と、急に胸騒ぎがしたものですから」
ゼフュロスは一瞬言葉を切り、息を整えてから言を継いだ。
「クピード。結局のところ、あなたの心ひとつなのですよ。あなたの心が、真に永久と定めた女なのであれば、我らが主なるゼウスに、女神としての生を賜ることができないか、お願いしてはいかがでしょう。あなたの愛と、ペルセフォネーの厚意を受けた女人とあれば、我らが王の心も動くかと」
「むろん考えていたさ──初めからずっと」
刹那、怒りを抑えきれず、それからクピードは呻いた。
プシュケーを腕に抱いた時から、いつかこのひとを女神とし永遠に傍らに置きたいと願うであろう…それを悟ってしまったのだ。だがそれは初めから、叶わぬ望みでもあった。
「先にハデスの了解を得なければならないのは君も知っているだろう?」
「ええ。人間の魂の引受け先は冥府ですからね」
「あの頑固者が私の願いを聞き入れるわけがない。あの男が何かに心を動かされるなど──現に、数日前にめずらしく地上に出てきていて…追いすがったものの眼も合わせずにそのまま──他の神ならともかく、どう考えてもハデスは無理だ──元はと言えば、私が招いたことだがな…」
敵意と無関心はどちらが堪えるのだろう──いつ見ても、自分に向けられる冥王の眼は氷よりもなお冷たかった。
「そりゃあそうですよ。あなたがハデスに話しかけたら、完全に逆効果です。クピード、こんな大事な局面ですから、もう少しうまく立ち回らないと…まあ、そこがあなたの良いところではあるにしても──たしかにハデスは奈落の閂のごとく不動のお人ではありますが……ペルセフォネーに頼みましたか? ハデスを懐柔し得るのは、天地広しといえども彼女しかいませんから」
クピードは、ふっと遠くを見た。
ゼフュロスは諭すように続ける。
「きっとあなたは、暗闇の中で愛を深めるうちに、夜の女神の子らに取り憑かれ、希望を求めることを忘れていたのですよ──おそらく二人してね」
若き神の、類いなく美しい顔容を、ゼフュロスはちらりと見た。火傷の痕はあるにせよ、それは優美さを損なうことはなく、むしろ痛々しさと混ざり合い、美の女神の息子に不思議な魅力を添えていた。
プシュケーと出会ってから二ヶ月ほどしか経たないうちに、クピードの瞳に宿る意志の力は増した一方、その姿はどことなく透きとおる翳りを帯び、わずかに人間めいた儚さをさえ漂わせるようになっていた。
プシュケーはと見れば、もの柔らかな中にあふれんばかりの気高さが備わり始め、たおやかに清々しいのだった。
ふたりが一心に愛し合い、同じひとつのものになりたいと切望していることが見て取れ、我知らず心を揺り動かされるゼフュロスだった。
「確かに、暗闇に紛れようとはした──だが、他にどうしようがあったと?」
「さあ、どうでしょうね。──私は、女人の手を求めるときに、自らの身を偽ったことはありませんから、なんとも」
素っ気ないゼフュロスを見やり、クピードは頭を振って、言った。
「君は、私が神として顕れ、畏れによってこのひとを打ちのめして従わせるべきだったと言うつもりなのか? ──けれど、そうだな…ペルセフォネーならば──少なくとも耳を貸してはくれるだろう。母君にも口添えをお願いしてみよう。ならばあとはゼウス、それよりまずは母上か」
クピードの眼は次第に狂おしく煌めきはじめていた。
「ですね。あなたが神殿にも宴にもまったく姿を見せなくなったので、母君は気に病んでおいででしたよ。それで私の方から折々に話を通しておりましたから、あともう一押しかとは思いますが。なにしろ、あの方がお生まれになったときに、キュプロスまでお運び申し上げたのは、この西風ですからね。──これは、母君には内密にしていただかなければ、私がたいへんな目に遭いますが」
ゼフュロスは、クピードの脇に寄ると、声を低めた。
「そもそもなぜ、プシュケーさん…というより人間との仲に、なにはともあれ否定的だったのか、ご存じないのでしょう? あの方もかつて、人間の男性を愛したことがございました。アンキセスという──かのトロイア王家の面目躍如たる美丈夫で、さしものアレースもかすむほど──あ、いえ、人間には、あえかな儚い美がありますから神々では敵わないところがあり──それはご立派な方でしたが、露の命であることに変わりはなく…それで、女神は、おふたりが同じような苦しみをなさってはと──もっとも、あちらの場合、一夜かぎりだったようですが…おっと、失礼」
クピードの鋭い一瞥を受け、ゼフュロスは小さくなった。
「ですから、故なきことではないのです。ですが、ご子息のあまりの熱の入れように、女神もお困りになりまして。プシュケーさんの覚悟のほどが見たいと」
「冥府下りは母の差し金か」
「はい。悩まれたあまりご容色に翳りがさしたから、冥府の女王の美を分けていただきたいと、あちらにお伝えになり」
「母上らしいにしても、大概にしてもらわねば」
クピードは、一瞬、ぎらりと怒りに目を光らせた。
「まあ…狂乱した折の殺戮神を鎮め得るのはあの方の美のみですから、我々もそれに負うところが大きいわけでして…そもそも、ヘラスの民たちがかつて、アフロディーテに捧げるべき贄代や香油など、プシュケーさんの王宮の階段に積みあげたりしていたでしょう」
「ゼフュロス」
目顔で止められたが、ゼフュロスはお構いなしだった。
「紺青の水沫だつ波のしずくで養われた美の女神と対にすべく、今度は天上のしずくが大地からもう一柱の美の女神を芽生えさせたのだ、とか──あれですよ発端は。女神の瞋恚はすさまじく──」
「ゼフュロス、それは言うなとあれほど──」
ゼフュロスはプシュケーを見た。事の次第をわきまえておいた方がいいですよ、と言わんばかりに。
プシュケーは、青ざめたまま何も言わなかった。積み上げられた供物を見ていたから、女神の不興を買うのではという意識はあった。だが、世間の評判とは浅はかなもの。一輪の花にも及ばぬ自分の、どこがそんなに美しいのかよくわからなかったし、体つきに到っては華奢で頼りなかった。
花々の清らかさを引き写したニンフたちのなよやかな麗しさは、それだけで息をのむほどだった。ましてや女神は、すべての花やニンフたちを易々と超える、崇高なる調べを響かせている──と、古よりその美に打たれた詩人たちが熱を込めて讃美し続けてきた。アフロディーテこそは、その女神たちの上に君臨する、至高なる《美》そのものである。比べることなど思いも及ばなかった。
両親の勧めに従い、供物の多くは、車馬を押し立てて、美の女神を祀るいくつかの神殿に運ぶようにもしてきた。
ことが大きくなる前に、使いの者だけではなく自ら、遥かキュプロスに詣で、神殿に身を投げ出して女神の慈悲を嘆願しておくべきだったのだろう。けれどそれでは自ら名乗りを上げているようなものではないか。
「──この世でもっとも美しくあらねばご自身が許せないお方ですから。つくづく思いますよ、自分が西風程度の神でよかったと」
肩をすくめるゼフュロスが、ふっと視界に入った。
時々聞こえてくる声に耳を傾けながら、プシュケーはまた、いつしか考えをめぐらせ始めていた──半ば放心しながら。
つい先ほどまで、死んで無に帰することばかりに取り憑かれていたのに、今度は永遠に生きることになるという。
死んだあと人間がたどる道筋の先の先までは、もちろん知るべくもなかったけれど、冥府に降りていき、そこで浄められるということが、女王によって示された。浄められるとはどういうことなのだろう。体も心もぼんやりと、清らかな水のようなもので薄められ、空と大地に溶け入って広がり、自分が自分だとわからなくなるくらい淡くなっていくのかもしれない…そう思い浮かべてみる。それもまた、ひとつの永遠の形ではあるのかもしれない。だが、不死になってしまえば、意識もはっきりとし、身体もこのままなのだから、風が吹けばその風を感じるだろう。痛みも心地よさも、このまま永遠に止むことはないのだろう。充分に長い間、ということならば想像もつく。だが、永遠となると、望んでも終わりは来ないのだ。それは、ほんとうに望ましいことなのだろうか。
楽しき宴の終わりに、友との語らいの後の澄んだ淋しさに、悲しみや痛みのさなかに、死とはいつも最後の慰めであり拠り所ではなかったか。
そしてまた、女神になるとはどういうことなのか。何を背負うことになるのだろうか。国の民ひとりひとりに向き合い手を伸べて支える…女神であれば、届く手、見出す眼も鮮やかになるのだろうか。ひとつの身体でありながら、すべてのひとのもとに遍在して寄り添うことができるのだろうか。ひとつの国を越えて、遍くヘラスへ、そしてその先まで…。
想像すらつかなかったけれど、なにか取り返しのつかぬ決定的なものを失くしてしまうのが怖ろしく、プシュケーはただ黙ってアモールを見つめていた。
そこに答えがあるとすれば、それはひとえに、アモールの永遠の生命が、少なくとも今この時に失われることはなくなるという安堵だけだった。
それだけがたったひとつ確かなものならば、それをよすがに、階を上って行くしかないのだろう。アモールがわたしにそれを望むのであれば、きっと善きことに違いないのだ。
このひとの愛をこの身に受けたその時に、すべての道はひとつに収束していたのかもしれなかった。
「──それにね、大神もたぶん反対なさいませんよ。私がニンフのクローリスを女神にと願い出た折、何の益もないのに叶えてくださいましたから。ましてやあなたが愛するご婦人と結ばれれば、少しは分別がつくでしょうからね。まったく、退屈するたびに恋の矢を振り回して気晴らしをされては、たまったものではありません。こちらに金の矢、相手に鉛の矢を射られたりした日にはもう」
「──私がいつそのようなことを?」
「似たようなものですよ母子して。冥府のふたりの件だって、そうでしょう。アフロディーテの言うがままに射たりするから、ペルセフォネーはともかく、ハデスとは以来、最悪の仲でしょう? あの潔癖で超然たる御仁に…しかも血筋から言ってゼウスの兄君ですよ? そのハデスに最も効き目の強い矢を、なんて、アフロディーテもいい度胸ですよ」
「…それで、私の妻だというので、プシュケーが何か酷い目に遭わされているのではないかと思うと、生きた心地がしなかったんだ…」
クピードは、プシュケーを見守りながら慎重に言った。冥府の主の憎しみを買っているとするなら、それを知ったプシュケーがどれほど激烈な恐怖におののきながら残りの人生を生きることになるか、容易に想像がついたのだ。
「でも、杞憂だとわかったでしょう。そもそもハデスはそんな御仁ではないと、何度も申し上げましたがね──まったく、あの時のクピードの狂乱ぶりをお見せしたかったですよ。少々、身の危険を感じたほどですからね」
ゼフュロスは、優しい眼差しでプシュケーを見た。アフロディーテの膝の上で育った青年を、ともかくも恋に陥れた乙女に、彼としては敬服したい思いでもあったのだ。実際プシュケーは極めて美しい顔貌をしていた。しかもそれは、心を奪うというよりも、心を打つような、なんとも言い表しようのない深い響きをもつ美しさだった。その響きは、共鳴したが最後、決して消すことのできないやわらかな手ざわりを、クピードに、そして人々の心に残したに違いないと思われた。
「いいですかプシュケーさん。あなたのクピードは夢見がちなところがありますし──まあ、愛の神ですから……私だってお節介を焼きたいわけではないのですが──アフロディーテ然り、この母子はひっかきまわすのが得意ですからね。なんでしたら、いくつかお話し申し上げても──」
ほろ苦い思いをさせられたことのあるゼフュロスは、意趣返しも実に楽しげだった。
しゃべり立てられ、クピードはすっかり閉口したようだった。
「ゼフュロス、細かい話はあとだ。プシュケーを困らせるな」
「困っているのはあなたでしょう──まあ、今はこの辺で矛を収めておきますよ。で、この黄金の箱はどうします? 母君から、ふたりに任せると今しがた聞いて参りましたよ」
クピードは嘆息した。
「君は母のところに行っていたのか? しかたないやつだな──まあ、そうだな。事がうまく運ぶまでは、やはりあの私の峰に置いておいてもらえないか?」
「わかりました。ではこれから、今度こそはしかと届けて参ります」
「ゼフュロス──いろいろありがとうと言うべきだろうが…君はいささか口が過ぎるのではないか?」
クピードは、苦笑を隠せぬまま友を見た。
西風の神は、葦笛のように響く、息の多い声で朗らかに言った。
「風のたよりは遠くまで届く、と申しますからね」
そして、ゼフュロスは黄金の小箱を手に取り、立ち上がった。
身ごなし軽く窓辺に進み、夜空の手前でふと振り向く。
その顔には虚空の蒼がさしかかり、表情は影に沈んでおぼろげだった。先ほどとは打って変わって、ごく低い声でささやく。
「クピード。これはずいぶん昔のことですし、最後の真相を知るものはあまりいませんが──ゼウスに願い出る折には、我が母の轍を踏まぬよう…恋人の不死を乞いながら、不老を願い損ねたゆえに招いた哀れを、なぞらぬよう──死んだとも、《声》だけになったとも伝わる彼ですが、幸運にさえ見放され、今もなお生きながら朽ちていますよ…あの部屋の扉の前を通る度に、なにか良き策をいつかは…と願ってはいるのですが……永遠にかかわる約定は一度きり。覆すことは如何なる神にも叶わぬこと…クピード、正しい言葉で願うのですよ──それだけ深くひとりのひとを想うあなたであればこそ──」
言い終えると、俯いたゼフュロスは、星の如き銀髪をなびかせ、彼の父たる星空の懐へと、身を投げるように静かに、飛び立った。
その厳粛なる瑠璃の瞳の奥に、気高き妻と愛らしい恋人の面差しを、ともどもに抱きながら──。