見出し画像

【MBTI】タイプ論とは「偏見」なのか?

はたしてMBTIは偏見・決めつけであり、「悪」なのかという話。


MBTIは「偏見」なのか?

 MBTIは自己理解・他者理解のツールとして、生き方のヒントを得る上で有用な一面はある。筆者のように偏っている人間ほどその効果は覿面だろう。

しかし一方で、類型論ゆえに気を付けなければならない点もあると考える。それは類型論ゆえに一定の偏見・決めつけを伴うということである。

1.あらゆる類型論は「偏見」である

 MBTIは理念系に基づいた類型論である。類型論である以上は「偏見」の域を出ないし、MBTI自体が科学的根拠のないツールだ。一応心理学というカテゴリにはなっているが、そもそも学術的根拠の裏付けがないので「学」とも言い難い。

しかし理念系や類型論自体は、社会学や行政学、経営学といった人文科学に関してはたくさん登場しており、何かにつけて4つ切りのマトリックス図が出てくる。筆者も公務員試験を受験する際にイヤという程食わされた。

これらの祖となる総合社会学が確立する前の思想・哲学の分野でもやはり同じような類型論は出てくるだろう。紀元前のギリシャ哲学ですら既に類型論は存在する。

人文科学はこの点弱くて、自然科学と違って数学的に証明したり、事象として観測することで実証することはできない。だからそうした自然科学的アプローチをされていない人文科学はほぼ全て偏見の域は出ない。

2.偏見とは「決めつけ」である

 言わずもがな、偏見とは決めつけである。一般論として語る以上は個別具体性は排除しなければならないからだ。

一般論というのはある情報群から一定の傾向性・法則性・パターンを抜き出すということだ。パターンを見出すということはそれなりの母数が必要になる。だから一個人の経験とか、個別的な事象といった個別具体性をなるべく取り除かなければならない。

これを怠ると一般論としては偏ったものとなり、悪い意味での偏見になってしまう。一般論はひとつのパターンをまとめてそうだというので、どうしても主語が大きくなってしまう。だからこれは避けたいが、かといって無尽蔵に母数を形成しようとするとそれこそ学者の仕事になってしまう。

反対に、そんなの人によるとか、ケースバイケースとか、臨機応変みたいな個別具体的要素に立つと決めつけは回避できるが、今度はパターン性を否定してしまうので一般論が馴染まなくなってしまう。その意味ではやはり一定の決めつけは必要で、程度問題ということになるだろう。

3.決めつけは必ずしも「悪」ではない

 ではそういった偏見や、それによって生じる決めつけは悪いことなのかというと、これもちょっと違うと考える。こうした偏見や決めつけは、正しく使うように心がけていれば問題解決手段や処世術にもなるからだ。

なんでも決めつけから入る人も考え物だが、一切の決めつけを嫌うという人もそれはそれで偏見が強い人ではないかと思う。要はバランスが大事で、とりあえず決めつけで入って、違っていれば後で正せばいいのだ。

なお筆者がこう考える理由は以下の3点だ。

①事前情報の有無

 我々は常に限定合理性の世界で生きている。情報は自分の生きている環境世界においてのみ入手でき、考えられる知能限界においてのみ合理的な処理・判断ができるので、全知全能の神の視点で生きているわけではない。

現実として我々はごく限られた狭い世界で生きていて、さほど頭もよくない。だから入ってくる情報は多くないし、あまり高度な処理や判断もできない。何が正しいのかはわからないし、「正しい情報」を正しく詳細まで理解できるとも限らない。現に筆者は数学や抽象概念はほとんどわからない。

しかし解せないことも多いし、今現在の科学では明らかになっていない事象は多い。多くの近代学問が成立したのは早くて19世紀、遅いものだと戦後とごく最近のことだ。ITなら2000年以降になる。

私たちは全ての情報を知っているわけではないし、正しく解せるわけでもないのだが、しかし一定の傾向性・法則性・パターンを伴う現象に度々遭遇する。これをどう取るかで、決めつけを行った方が都合がいい場合もある。

②人生は有限である

 上記に関連して、我々が生きる人生は有限であるという事実もある。人類がこれまでに築いた英知は途方もなく膨大であり、とても1度の人生で回収できるものではない。人はほとんど何もわからないままその一生を終える。

また経験という意味ではさらに有限性が大きい。経済資本、社会資本、文化資本といった格差が現に存在し、人は自らの意思で環境要因を選べないことが多いからだ。友情、恋愛、自由、海外経験などは全ての人が謳歌できるというわけではない。その先の就職や結婚も言わずもがなだろう。

恵まれた経験は常に偏在し、そのためには優れた能力を備え、良質な環境を享受できることが必要となる。人生は有限である、そして不平等であるという前提に立つと、どうしても想像の領域に頼ざるを得ない部分も出てきて、自身を納得させるためのある種の決めつけは必要になってくるだろう。

③パワープレイができるか

 また現実として我々の生きている世界では強者と弱者がいることは否めない。腕力の強い人、権力の強い人、お金を持ってる人、容姿の美しい人、いずれにしても自分のワガママを通せる人ならこういった決めつけは必要ないだろう。思い通りになるからだ。

強者にとって世界はただ自分が望むままに存在していて、地球は自分を中心に回っている。そういう人間に偏見や決めつけは必要ない。相手や環境がどうあれパワープレイをすれば「勝てる」からだ。この意味で強者はただ絶対的な存在といえる。

強すぎるボクサーは対戦相手の対策など必要ない。金が無限にあるならトレードの傾向分析する必要はない。会社の社長は何でも買える。美人なら受け身でも、友達も恋人も、進学就職結婚すらも向こうからやってくる。

ただし現実は決してそうでなく、ワガママを通せない人の方が多い。パワープレイができない弱者は世の中思い通りにならない。地球はそいつを中心に回っていない。世界には思い通りにならない環境や他者が、自分よりも優先して存在している。この意味で弱者は相対的な存在にすぎない。

パワープレイができずに勝てないのなら、その分だけ傾向分析は必要になるし、努力の方向性をはっきりさせる必要も出てくる。だから世の中や他人を知る必要があって、その手段として決めつけはどうしても必要だし、必然的に偏見は伴ってくる。決めつけとは生存戦略なのである。

5.「決めつけ」は強制すべきではない

 ただしこうした偏見や決めつけは他人に強制するべきではない。自分が決めつけてかかる分にはまだいいが、権力や発言権を増してくると無意識のうちに他人にそれを強制してしまう人もいて、こうなるとよくない。

偏見は、世の中の何が正しくて、なぜそうなのかを考えて、その上でどうしたいのかは自分で決めるという自己決定権を前提に基づくものであるべきだ。何らかの主張を行った際、それをどう取るかは受け手に委ねられるものでなければならない。強制すればそれは指示・命令になってしまう。

一般論はどうしても主語が大きくなってしまうし、その性質から偏見や決めつけを伴うものなので留意したい点ではある。MBTIのような劇薬を扱うならば尚更だ。

6.類型論は「距離感」が難しい

 これも度々申し上げているが、類型論はその距離感が難しい。どこまで偏見や決めつけを入れていいのかという部分がグレーだからである。

だからMBTIもあまり迂闊なことは書けないのだが、これ自体は海外からの輸入概念になるので、ある程度のローカライズは必要だと考える。MBTI公式の文章やテキストは直訳的なので、読んでいて頭に全く入ってこないのだ。

自己理解や他者理解のためのツールであり、他者との交流を通して解釈を深めるという向きなのだが、肝心の公式が解釈を示さないので、こちらで日本社会の実像に照らしながらローカライズし、解釈を補完せざるを得ないという事情はある。そうでないとツールとしては役に立たないからだ。

①事例(ケーススタディ)の必要性

 筆者は法学部出身なのでMBTIもどうしてもそのような捉え方になってしまう。先駆者様のイブリースさんと文体が似ているのはこういう事情もある。

法律の世界はまず条文(明文の規定)がある。しかしこの条文を「どう読むのか」は明言されていないため、解釈は人それぞれになってしまう。そこで有識者の判断を仰ぐことになるわけだが、それが判例・通説とか有力説とか呼ばれるものである。

問題はその先で、実際の個別事例に遭遇した際にどうなるのか?という話なのだ。法律的にセーフなのかアウトなのか、裁判で勝てるのか負けるのか、というジャッジは専門家でも当てることは難しい。裁判官ですら間違えることもあるので複数人で審議するし、三審制が取られている。

MBTIも結局そうで、事例に当たった際にケーススタディとして使うところまでやらないと結局役に立たない。一方で解釈論となるので、どうしてもバイアスはかかり、偏見や決めつけは一定入るという具合である。だから複数人の記述を読み比べるのが大事なのだ。

②解釈論の難しさ

 解釈はフィルターが間に一枚入るため、どうしても偏見や決めつけは入ってしまう。学問でなくツールである点も厄介で、医者や学者のような知見や権威性を持たない素人でも扱える反面、その内容が正しいかどうかは担保されにくい。

筆者は先駆者様のサイトを読み比べ、ここnoteでも気になった人はアポを取り話を伺うことでなるべく信頼性を確保するように心掛けてはいるのだが、類型論ゆえに主語が大きくなりやすく、解釈論にもなるので荒れるのは必須であり、まさに劇薬と感じている。

そしてこのnoteのコンセプトが「生きづらさをなんとかしたい」なのでMBTIは避けて通れないテーマでもあり、かといって解釈を入れないと無味無臭で退屈な記事になってしまうので、ケレン味の塩梅が実に難しい。

③うそはうそと見抜ける人でないと‥‥

某ネット掲示板の管理人がかつて発言した言葉があって、

うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

これは本当にそうだ。この発言からちょうど四半世紀が経ったが、現在は有象無象のブログ・SNS・動画サイトが乱立しており、一層その重要性は増していると感じる。

西村氏は最近メディア露出が増えているが「独学力」が大事と語っている。わからないことに直面したときに自分で調べたり、知っていそうな人を探して教えを乞うことができるかが大事ということだ。

こういった自己決定権、および探索志向については度々自身のMBTI記事でも触れているが、MBTIという概念自体にこうした要素が一定求められるのも扱いが難しい要因なのかなと思っている。

まとめ

 今回はMBTIは偏見なのかについて論じてみた。筆者は鳥なので、自分の書いた記事はあまり覚えていないことが多いのだが、正月休みにあらためて読み返してみるとコレはひでぇな‥‥という記事も多い。

そういう記事に限ってスキ100とか200とか付いているので複雑な心境である。そして無下にもできないので消すわけにもいかず、嬉しい反面これでいいのかなぁと逡巡している次第だ。

スッキリしないところも含めてMBTIの楽しさになるのかな。なるべくいい記事を書いていきたいと思うので、どうぞよろしくお願いします。

リンク


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集