四旬節の黙想③ 清いこころといつくしみ
「貞潔」の徳の真の意味について、Desert Stream Living Waters(砂漠から湧き出る生ける水)ミニストリー創立者のアンドリュー・コミスキーさんが6回にわたって指導する「貞潔といつくしみ」シリーズをご紹介します。6週間の四旬節(復活祭に向けた準備期間)に合わせた構成になっています。
第1・2回目はこちら↓
アンドリューさんは同性愛者でしたが、後に女性と結婚し、4人の子どもに恵まれました。牧師として元同性愛者たちのためのミニストリーを行っていましたが、2011年にカトリック教会に転会。以来、カトリック信徒として活動を続けています(以下、和訳。リンクは文末)。
***
正義である愛
アンドリュー・コミスキー
2016年
「正義」とは「ある人が受けるべきものをその人に与えること」です。性に関して言えば、人類が他者のための善良で忠実な「贈り物」となるために、人類を(罪の傾き)から解放することによって、「貞潔の徳」は正義を行います。これが意味するのは、わたしたちは、最も愛する者との性に関する約束を守らなければならない、ということです。この約束のうちにこそ、わたしたちの幸福があり、また他者の幸福も存在します。あらゆる肉欲によって内的分裂を起こしていない人は正義を行うのです――「自己贈与」という生き方を通して。その人は他者の賜物を認めますーーそれを自分のものだと混同したり、ぞんざいに扱ったりはしません。このようにして、わたしたちは「人間の自由」を発見するのです(『カトリック教会のカテキズム』2339番)。
このような「自由」は、わたしたちを囚われ人にしようとする衝動からはかけ離れています――最愛の人(自分の配偶者)に帰すべき「自分」を与えずに、自分のものではない人に手を出したりするような衝動とは。これは、実際に不義を働く人や、わたしたちを惑わすセクシーでロマンチックな空想の数々にも当てはまるでしょう。肉欲にまみれたストーリーや画像で私たちを虜にする画面は、私たちのほとんどを「心の姦通者」にしてしまいました。イエスはマタイ5章28節で、このような人間の内面における「妥協」も、実際におかした姦通と同じ「罪」として挙げています。イエスはわたしたち罪びとに対して「ただの性的空想なら耽ってもかまわない」とは、言いませんでした。それどころか、わたしたちが他者をただの「物体」としてしか見ずに、心の中の寝室で他者を自分の欲望の相手にしようとする、あらゆるものを「姦淫の罪」としているのです。
ですから、ある女が姦通の罪で捕まり、律法を順守する長老たちによって、キリストの前に引き出されたとき(ヨハネ8・1~12)――長老たちはキリストを自由主義者か強硬派かのどちらかに「仕立て上げる」ためにそうしたのですが――わたしたちはそこで語られたイエスのことばに耳を傾けなければならないのです。イエスはどのように正義を行うのでしょうか?
この問いに答えるためには、貞潔の徳がいかにして正義にかなうか、逆に、それに反する罪がいかにいつも、まったく不当であるかを真剣に考えなければなりません。例えば、姦淫です。モーセの律法は、神や自分の配偶者を遠ざけ、自分のものではない別の人に手を出すことは、いつもまったく不当であり、それは死の宣告を受けるに値するほどである(レビ20・10)、とはっきりと述べています。カトリックの哲学者であるヨゼフ・ピーパーの言うことは正しいと思います――「すべての外的行為は社会に影響をもたらす」――これには不正な性的行為も含みます。今日わたしたちは、性的な罪を軽視することに慣れてしまっているために、それが「共同生活の秩序や共通善の実現に対して及ぼす影響を見過ご(し)」てしまいます。わたしたちは皆、貞潔の徳に対する罪のために、家族、地域社会、国家が傷つけられるのをこれまで目の当たりにしてきました(ビル・クリントン元大統領の話をどなたか覚えていますか?)。
「この世とその偶像に自己をささげよ、と駆り立てる霊における混乱」について語るとき、ヨゼフ・ピーパーは、イエスが話されたように「目」でおかす肉欲の罪を「貞潔に対する罪」として説明しています。
肉において平穏に生きることのできないわたしたち「心の姦通者」は、他者の身体で自分の心を満たそうとします。そのような時にはわたしたちはまず、現実に生きるその人間を愛や名誉から切り離し、相手を非現実的な存在にしてしまっているのです。そうやって、わたしたちは結局、現実をすっかり見失ってしまいます。これによって最も苦しむのはわたしたち自身ではなく、わたしたちの愛する者たちです。彼らはわたしたちをその傍から徐々に失っていく悲しみを味わわざるをえません――人工文明がもたらす、魅惑的な欲望の刺激の深みに、わたしたちが溺れていくことによって――そこには、わたしたちのもろい“性”を一丸となって捕らえようとする、卑劣な“盲目的な肉欲と計算ずくの欲望”が渦巻いているのです(※ヨゼフ・ピーパーより)。
個人の性的な罪が、その人から「人間性」を奪うということをよく分かっている人は、自分が他者に対して行ったひどい仕打ちについて今一度考えてみてください。わたしたちは、他者を傷つけてきたのです――(性的な罪をおかすことで)わたしたちは他者を自分から遠ざけ(配偶者に自分を与えることをせず)、同時に他者の尊厳を侵害したのです。罪は死をもたらし、罪びとに死を約束します。さらに、冷酷な敵(悪魔)は、わたしたちが自責の念にかられながら生きていくことだけを望んでいるのです――わたしたちが死によって永遠に滅ぼされるまで。そのため、わたしたちの多くは絶望に陥り、より大きな罪のうちに忘却の淵に沈んでいくのです。
そのような時わたしたちは、責め立てる者たち(悪魔たち)によって、イエスの足元に引きずりだされなければなりません(ここで、「姦通の女」に対してイエスがどのように接したかについての考察を再開したいと思います)。わたしたちを責める者たちの無慈悲な心を知っているイエスは、彼らと対話することをしません(ちなみにこれは、自分より賢い人や意地の悪い人に責められたときに、皆さんができる良策ですよ)。
イエスは代わりに腰を落として、ご覧になります――この者たちが幾度となく、自身の罪と向き合うことを避けてきたことで、彼らに必要ないつくしみを神から受けようとしなかったときのことを。正しくない者が、同じく正しくない者に裁きを下すことの愚かさを見て「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエスは言われるのです。
矢面に立たされ、断罪されるのはいつかと待つわたしたちの耳に、砂の上に捨てられる石の音だけが聞こえてきます。顔を上げると、そこには身を起こしたイエスだけが立っていて、彼はわたしたちの目をのぞき込んで言われるのです――「(あなたを責める)あの人たちはどこにいるのか」。「もう、いません」とわたしたちは言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」――イエスのその声は毅然としながらも、瞳はいつくしみをたたえています。わたしたちもイエスのように立ち上がったとたん、心に平安を感じます。そして、イエスの足元にわたしたちの罪を置いていくよう、イエスにうながされるのです。いつくしみ深いイエスはこのようにして正義を行うのです。
祈り
神よ、わたしたちにいつくしみをお与えください。わたしたち自身がおかした罪と、それを責めたてる者は数多く、この2つが及ぼした傷はとても深いのです。わたしたちがこの傷の深さを決して過少することがありませんように。いつくしみだけがそれを沈黙させ、わたしたちに乗り越えさせてくれますように。
記事へのリンク: Chastity and Mercy 3: Just Love - Desert Stream Living Waters
https://truthandlove.com/wp-content/uploads/2017/06/Chastity-and-Mercy-1_6.pdf
教皇フランシスコ『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔――いつくしみの特別聖年公布の大勅書』(2015年)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?