プライドを祝うということ
ここ数年、6月になると日本でも「プライド月間」という、LGBTQの生き方を祝うためのイベントが行われるようになりました。SNSや大手メディア、企業広告などが、レインボーカラーに染まるのを目にされたかもしれません。
「プライドを祝う」とは、実際どういう意味を持つのでしょうか?
同性愛の傾向を持つ人々のためのミニストリーのCourage International の取り組みのひとつ、Truth and Love のサイトに掲載されているブログをご紹介します(以下、ブログの和訳。元記事へのリンクは文末)。
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私が今年プライド月間を祝わない理由
テオフィロ(仮名)
2021年6月30日
毎年6月になると、私はレインボー・フラッグに囲まれます。呼んでもいないのに向こうからやって来るのです――メールの受信ボックス、職場の壁、テレビやネット映画を視聴している時に。6月になると、同性愛を祝う行事がいたるところで行われるようになり、今年は私の職場でも、同僚がお祝いのためのレインボー色のマスクを用意しました。以前の私であれば、この「承認」をありがたく思ったに違いありません。しかし回心してからは、私は同性愛を”自分の本当の姿”として祝うことはなくなりました。
”ありのまま”が自然でない時
同性愛は、私にとっては「自然」なことですが、私は聖トマス・アクィナスの言葉に頼りたいと思います。トマスは、たとえ何かが個人にとって「自然」なことだと感じられても、普遍的な自然の秩序に反するならば、それは善ではあり得ないと指摘しています(トマス・アクィナス,『神学大全』, supra note 8, Prima Secundae, quest, 31, art.7, at 726)。理性の時代ではなく、感情の時代に生きる私でも、神が意図して秩序を創造したことを否定することはできません。私が神の秩序についてどのように感じようとも、私の感情が真理を変えることはできないのです。もし同性愛が、生殖器が表現する本来の目的――夫婦のむすびつきと産殖――に反するものであれば、それはレインボー・フラッグやマスクで祝われるべきものではないのです。神の被造物に意図された目的を基本的に理解していれば、同性愛関係を祝うことは「矛盾」となるのです。
しかし最近では、論理や合理性は”脅威”とみなされ、誰かが心の中で真理だと感じていれば、それは「その人にとっての真理だ」とされるのです。私たちは客観的な現実――私たちを愛する神が創造し維持されるヒエラルキー的秩序――に対する認識を失ってしまいました。お気に召すまま、自分の秩序を作り、心ゆくまで快楽を追求することが「自由」となったのです。しかし私たちは、快楽に溺れても、結局満たされなかった人を何度も目にしています。
私の回心の話も、そのひとつです。世界中を旅して、自分の心のあらゆる欲望を追求した結果、霊的に破綻をきたし、決して満たされることのない、苦しい渇きを感じるようになりました。教会に立ち帰った私は、欲望よりも理性を優先させるという正しい順序を発見しました。私はもう、同性愛的欲求を追求しません。なぜなら、それは私に永遠の幸福をもたらさないと知っているからです。自分の同性愛的行動をやめることができるようになるまで、私はさまざまな失敗を経験しなければなりませんでした。ありがたいことに、同性に惹かれる人がすべて、私と同じような失敗の経験をするわけではないですが。
虹色の幻想
プライド月間は「同性愛行動にこそ幸せを見いだすことができる」と私に思わせた、しかけの一部です。「プライド」は組織的なアイデアに基づいています。「自分の同性愛的欲求を受け入れることでしか幸せを得られない」という声に耳を傾けた若い私は、それを鵜呑みにしました。そのせいで、私は何年も同性愛関係を追求することになりました。幼い頃から、同性愛的感情が自分の一部であったため、私はこの「ありのままの姿」を表現しなければならないと思ったのです。プライド月間が来るたびに、私は偽りの肯定と励ましを受け、他の男性の性愛を求めることこそが真の幸せなのだと言われ続けてきました。この同性への欲求は、一生私につきまとうものかも知れません。ですが、それを行動に移すことが自分の心に平安をもたらすことだとは、もはや考えていません。むしろ、それは私に無秩序と混沌をもたらすものだと考えています。
カトリック教会の「秩序」と「性」に関する理解を身につけた今、私は自分の性的欲求に対して落ち着いていられるようになりました。もちろん、この欲求はいまだ誘惑として現れることはありますが、それが、神の子たちのための神の御計画には当てはまらないことを私は知っています。私の同性への欲求がどこから来たのか、はっきりしたことはわかりませんし、もしかすると、一生わからないままかもしれません。ですが、すべての逸脱が堕罪に起因することはわかっています。そして私の性的欲求が、天地創造の秩序や神が私のために用意された御計画にいかに沿わないかを、私ははっきりと知っています。
十字架と解放
私は、同性への性的欲求を誇りに思うのではなく、それを自分の特別な十字架として受け入れることができるようになりました。聖パウロは、ローマ人への手紙の中で、こう書いています。
ローマの信徒への手紙 8章17節
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
私たちカトリック信者は、御国を受け継ぐためには、キリストの苦しみにあずからなければならないことを知っています。キリストが十字架上で苦しんだように、私も自分の性的快楽を拒否することで、キリストと共に苦しむことができるのです。大いなる秩序のための性的自己否定なんて、キリストとの共同相続人になるためには、小さな犠牲のようにさえ思えます。
プライド月間という現象は、私たちのアイデンティティとして、性的欲求を何よりも優先させるものであり、それは過ちです。それは、私たちの本来のアイデンティティから、私たちを遠ざけるものです――私たちは「愛する神」の子であり、この神は、私たちの欲求と行動のすべてに、理性的で論理的な秩序を創造されたのです。プライド月間は、「自己受容」という言葉を使ってはいますが、人が本能的に過ちだと感じているものに対する羞恥心や罪悪感を無視するようにと教え、そうすることで私たちが真善美に満ちたヒエラルキー的秩序を受け入れることを妨げるのです。プライドは、過去の束縛から解放してくれる善であるかのように提示されますが、実際には、私たちを肉欲の奴隷とし、それを私たちの誤った礎にしてしまうのです。
神の創造された秩序の圧倒的な美しさを理解するようになってから、私は誘惑を遠ざけることができるようになりました。祖母が私のために毎日祈ってくれたことに感謝しています。それが私の回心に一役買ったことは間違いありません。同性への性的欲求を経験したすべての人が、それを「表現されるべきもの」ではなく、御国を受け継ぐために、主の苦しみを分かち合うための特別な道である、と捉えることができるよう祈ります。私たちは、畏れとおののきをもって、神のいつくしみに信頼しながら、救いを目指すのです。このイエスのみ心の月(6月)が、あなたとあなたの家族に多くの祝福をもたらしますように。そして、神の恵みに包まれた聖なる健全な生活に努める私たちを、神がいつくしんでくださいますように。
元記事へのリンク:Why I Am Not Celebrating Pride This Year - Truth & Love By Theophilus/ June 30, 2021