私がゲイなのは、神のせい?
「神様が私をゲイに造った」というフレーズを聞くことがあるかも知れません。この考え方は、はたして正しいのでしょうか?人間を造られた神とは、どういう方なのでしょうか?同性愛の傾向を持つ人々への司牧を行うCourage Internationalのボチャンスキー神父の解説の一部をご紹介します(以下、動画の和訳。リンクは文末)。
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大いなる疑問
私たちの(性に関する)倫理的判断を導く規準となるのは、その性行為が夫婦間のものであるか、ということです。この夫婦関係は、(男女の)性的補完性、忠実さ、不解消性、新しい生命の出産に開かれているか、に基づいています。
これら全ての要素が、人間性とは何か、男性性とか何か、女性性とは何かという問いに関わってきます。私たちが「性的な存在」であるという意味、「性的交わりを行う能力」があるという意味を考える上で、重要なポイントです。
さて、ここから生じる問いは、これではないでしょうか?
もし結婚の中での夫婦行為が、神の本来の御計画であり、男女の関係にしか”許されていない”のであれば(世はそう言うでしょうが・・・そうした考え方を私は支持しませんが、昨今の文化ではそういうふうに言うでしょう?) 、なぜ神は、同性愛者を造られたのでしょうか?
これは、非常にリアルな問いでしょう。
私が今住んでいる小教区に着任したばかりの頃、こんなことがありました。朝ミサの後、教会のある女性がやって来て、こう切り出しました。
「神父様は、Courageのために働いていると聞きました。素晴らしいことですね、それを必要としている人たちにとっては。私の息子は、今、彼の同性パートナーと幸せだから必要ないけれど。でも、神父様のお働きは素晴らしいと思うわ。」
私は「ありがとう」と微笑むしかありませんでした。火曜日の朝8時から、長引きそうな議論を始めるつもりはありませんでした。でも、彼女はこう続けたのです。
「神様が、息子をそのように造ったんですよ。私がそう育てたわけじゃない。」
同性愛がどこから来るか、という問いはとても奥深いものです。まだ謎に包まれていることは確かです(これについては、他の講演会で時間を取って、みなさんと探求してみたいと思います)。
2つの矛盾
ただ、私たちは神学的な観点から「神が誰かをゲイとして創造した」と言うことは不可能です。神が、同性愛の傾向を持つようにある人を造られた、とは言えないのです。
なぜなら、この説を認めると次の2つの矛盾した解釈が生じるからです。
1) 神は、天地創造の時の人類とは別の人類を創造した
信仰の観点から見れば、創世記の物語、そしてこれに関する教会の理解が示すのは「すべての人類に、共通した神の御計画がある」というものです。「性的補完性、不解消性、忠実さは、男女の一致に導く」という理解です。もし私たちが「神はある人たちだけ、異なった道を歩むように創造された」とするならば、神は途中で自分のルールを変えたということになってしまいます。「神は創造の物語を変えたのに、私たちにはそれをまだ啓示していない」ということになります。ということは、聖霊の霊感を受けた聖書記者たちによって聖書が書かれた後に、神が御計画を変えたということになります。神様は、そのような働きをされる方ではありませんよね?
2) 神の御計画は今も有効だが、一部の人たちだけは、失敗するように造られた
もう一つの矛盾は、前述した人間の「関係性」や「親密性」の意義は創造の日から変わらないが、ある一部の人たちだけ、最初から一生叶えられることのない望みを抱き続けるように神に造られた、というものです。ある人たちだけは、初めから一生もどかしい思いに苦しみ、そして挫折するように、わざわざ造られた、ということです。このような神は、私たちが信じる神ではありませんよね?
私たちは、カトリック神学界の中でも一種の流行となってきているこの仮説を拒ばまなければなりません。「同性愛の傾向を持つ人々は、他の人たちとは異なる人間性を持っているため、彼らの行動、願望、関係性には、別の倫理原則が当てはまる」、ということになってしまうからです。
覚えておいてほしいこと
今日の講演会で一つだけ、みなさんに覚えておいていただきたいことは、これです。この問題に関しての教会の見解は、1986年に教皇庁教理省が発表した文書によく表されています(『同性愛者の司牧的ケアに関するカトリック司教団への手紙〈未邦訳〉』)。
「神にかたどり神の似姿に造られた『人間』を、その人の性的指向への還元主義*的な言及で、適切に説明することは到底不可能です。この世に生きる者はすべて、個々の問題や困難を抱えていますが、成長、強み、才能、恵みのための挑戦も抱えているのです。
今日、教会は、司牧的ケアでもっとも必要とされている文脈を提供します。人を「異性愛者」または「同性愛者」と見なすことを拒むことで。また、人間一人ひとりが根本的なアイデンティティを有することを強調することで――神の被造物であり、恩寵によって、神の子となり永遠のいのちの相続人となる、というアイデンティティを。」
【訳注* 還元主義・・・複雑な事象を、その構成要素の一つを理解すれば、全体を理解できる、とすること。物事の矮小化】
キリスト教の人間理解の第1ステップは、これです――「人は、『神の似姿』として造られた」。神は、意図して人間を男と女に造られた。(男女の)性的補完性によって可能となる性的交わりをとおして、二人は一体となる。この夫婦の「一致」が、この世において、神の私たちへの愛を現す「しるし」となるのです。だからこそ、この一致は、性的補完性に基づき、不解消で、忠実でなくてはならず、新しい命に開かれたものでなくてはならないのです。このことを理解して、これに基づいた人生の選択をすれば、私たち人間の尊厳と召命の成就、人間の繁栄と幸福を見出すでしょう。
この解釈を回避し、「私は違う種類の人間である、私は自分の性的願望によって自己定義をする、あなたの言っていることは私には当てはまらない、そういう考え方は好きじゃないから」と、あなたがもし他の人に話したり、他の人がそういうふうに考えるのを止めないなら、あなたはその「人間」に対して、ひどい仕打ちをしていることになるのです。
動画へのリンク:Excerpt from a talk on Christian Anthropology by Father Philip G. Bochanski, Executive Director of Courage International (July 2016)