blu(エッセイ)

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  • 東京の昭和の話(たまに大正)

    数年前に亡くなった、ぎりぎり戦前生まれの母から聞いた、家族や近所の人についてのいろいろな昔の話。特にオチなどはないです。

最近の記事

母の話 - 黄金バット

母の子どもの頃のエンタメといえば紙芝居だ 公園で遊んでいると自転車の後ろに紙芝居と駄菓子を乗せておじさんがやって来る、例のあれである 母たちがよく遊んでいた公園には紙芝居のおじさんが何人かまわってきた そのうちのひとりを「第一ラッパ艦」という 当時の紙芝居のおじさんにはそれぞれ屋号がついていた 紙芝居のおじさんの収入源は紙芝居の前に売る水飴などの駄菓子なので、駄菓子を買った子は前で見る、買わない子は後ろというルールが一般的である しかし母は駄菓子を買うことができなかった

    • 祖母の話 - 応援上映

      祖母の若い頃の話である 戦前の映画館では、大ピンチというところで颯爽とヒーローが登場すると観客席から拍手と歓声があがった、と聞いた なので応援上映という制度を聞いたときそのことを思った 当時、大きい商家に限った話ではなく公務員の家庭などにも女中さんがいた お金を稼ぐのみならず、地方の若い女性が嫁入りする場合の行儀見習いという意味合いもあった 江戸時代だと大奥もまたそういった役割を負っていた 武家の女性だけではなく商家の娘も「箔つけ」のために大奥に入った ホシモンの三代目

      • 母の話 - ビートたけし

        母の方針で小学生の頃は視聴するテレビ番組が決まっていた 月曜日「クイズ100人にききました」 火曜日「それは秘密です」 水曜日「わくわく動物ランド」 木曜日「タイムショック」 金曜日「かっくらきん大放送」 土曜日「クイズダービー」 日曜日「象印クイズ ヒントでピント」 ときに「連想ゲーム」「霊感ヤマカン第六感」「世界一周双六ゲーム」などラインナップが一部入れ替わったり、追加したり、または戻ったり、新番組が始まるとそちらを試しに見てみることもあったが、いずれにせよ視聴するに

        • 祖母の話 - 関東大震災

          祖母の実母ツヤの実家であるアサカは御家人だった 小名木川沿いの御三卿田安家の隣の敷地に住んでいた 一人娘を、羽振りがいいとはいえ商家の後家に嫁にやるくらいなので、教科書の維新後の不平士族の乱の項に書いてある通り生活にゆとりがあったとは言い難い 一人娘のツヤは嫁に行って数年で亡くなり、そのあとも侍もなくなった 残ったのは奥方である 侍の妻とは思えないほどおしゃべりだったと聞いている ちなみに祖母も母も私もおしゃべりで、私などはとうとう母方の叔母から「ぶっかれラジオ」という二つ

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        • 東京の昭和の話(たまに大正)
          9本

        記事

          母の話 - In My Life

          祖父の本当の苗字は「アライ」という アライについては、仙台藩の江戸定詰の人、というところまでは分かっている この人が生涯結婚せず夫婦養子をとった 2人はそれぞれセキグチ・キノシタという家からきて男の子を3人もうけた が、養子を出したセキグチ・キノシタがそのあと男児が生まれなかったためアライから次男と三男をセキグチ・キノシタに養子に出した だからアライ3兄弟はみな苗字が違う セキグチにいったのが祖父である が、今度はアライの家に子どもができなかったので、セキグチの次男をアライに

          母の話 - In My Life

          母の話 - 謎の歌

          母から教えてもらった謎の歌がある 「馬子は 馬子歌 下り坂」「も一度聞きたい 馬子の歌」の部分は一番と二番でメロディーも音符の数も違って、なかなか凝ったつくりになっている 人に聞いても誰も知らず、検索しても出てこない 母自身も祖母から教えてもらった歌なので、少なくとも1940年あたりには存在していた歌だと考えられる 他にも手毬唄風の「おいらの後ろの おっさかさかさか 赤坂どのよ 四谷でどのよ 四谷赤坂麹町」というのもある これは検索したら出てきた、群馬県の手毬唄だった

          母の話 - 謎の歌

          母の話 - 進駐軍と東京タワー

          母が小さい頃は東京にはパンパンガールがいて、進駐軍がいた 「ハロー、ジョー」とパンパンは言うのだと母は言っていた 進駐軍のジープから黒人兵士がにこにこ笑って小さかった母に手を振った、その手のひらが黒くなかったのが印象的だった そうかと思えば進駐軍のジープに追いかけられた若い女性が「助けてください」と家に飛び込んできたこともあったそうだ 小学校にはまだ給食がなく、弁当はさつまいも1つという子もいたし、弁当を持ってこられない子もいた そういう子は「家で食べてきます」と言って、教室

          母の話 - 進駐軍と東京タワー

          母の話 - 戦争と太宰な兄

          母が生まれて数ヶ月後、太平洋戦争が始まった 終戦時5歳だったためあまり覚えていないが、長兄の自転車の後ろに乗って空襲から逃げたことや、疎開したときのこと、疎開先の生活のことなど多少の記憶はあるという 母の家は都内にあった 本屋を営んでいたのだが医学書専門なので、お客はもっぱら医師か医学生だった 医学生にはお金がない者も多く、したがって高価な医学書にはなかなか手が出ない そこで本屋の主人は座敷を1部屋解放し、お金がない学生のために本を書き写すことをゆるした そんなことをしてい

          母の話 - 戦争と太宰な兄

          祖母の話 - あだ名をつける

          私の祖母なのだが、少し風変わりな人だった たとえばこの祖母は、私が幼稚園生のときにキャンディキャンディのなんとかBOXを買ってくれたことがある キャンディの柄がついたクレヨンとかメモ帳とか小さい折り紙が入っているカラフルな紙の箱なのだが、これにサイコロが2つ入っていた 付属の説明書には2つのサイコロを振って出た目で占いができるよう「1と1:おともだちができるかも?!」などと書いてある 祖母はサイコロ2つを見るとおもむろに立ち上がり台所に行くと、湯呑みを持ってもどってきた そ

          祖母の話 - あだ名をつける