徳山藩館邸跡のおもかげを求めて、周南市文化会館の見どころ
バックステージツアーに参加するレポート記事を書くために、周南市文化会館についてリサーチをしようと思い立ちました。
私が知っていることと言えば、江戸時代には徳山藩の藩邸が建っていた場所。「外観も意識して作られているな」程度の情報です。
改めて現地の説明板を詳しく見たりインターネットで調べたりすると、ステキなものに気がつきました。
今回は、江戸時代の遺構、日本建築を取り入れた建物、今では大家になられた作家の制作物をご紹介します。
徳山藩藩邸とは?
1650年(慶安3年)、下松に居宅を構えていた徳山藩初代藩主の毛利就隆(なりたか)により、「徳山」と名付けられたこの地に藩邸が建てられます。
日本三陣屋の一つ
徳山藩藩邸は、1836年(天保7年)に幕府から「城主格」を許され「御城」と呼ばれるようになりましたが、それ以前は「御館」と呼ばれていました。
もともと城ではなかったため、徳山藩藩邸は徳山陣屋とも呼ばれています。
この徳山陣屋は、日本三陣屋(徳山陣屋・敦賀陣屋・飯野陣屋)の一つとして知られています。
建物が残っていたら、観光資源になっていたかも。
昭和に入り、市民の憩いの場所へ
昭和の初め頃には、藩邸跡地は市民の憩いの場所として整備されました。
桜や紅葉を新たに植え、桜の名所として市民に親しまれたのです。
1945年(昭和20年)の空襲で毛利邸は焼失しましたが、その後も球場や動物園として市民を楽しませます。
1982年(昭和57年)、周南市文化会館が完成。
今も周南市文化会館と周南市徳山動物園では、かつての徳山藩館邸の遺構を見ることができます。
現在の周南市文化会館
では、現在の周南市文化会館周辺を見てみましょう。
江戸、明治、昭和、そして令和のミックスされた風景が広がっています。
徳山藩邸の遺構、庭園跡
まずは江戸期の遺構を見てみます。
国道2号線に面した入り口から右手に、こんもりとした木々に覆われたスペースが広がっています。
この庭園内に、「徳山藩館邸跡」の立て看板があります。
近くにベンチも置かれ、散歩の途中でお休みをする市民の姿も見られました。
のんびりとした空気の中、私もカメラを構えます。
ガス燈と白壁の塀
入り口左側には、築山の跡と思われる小山があります。
通路には、アンティーク調の街灯。
「もしかしてガス燈?」と思い、帰宅後調べると正解でした。
江戸期をイメージした白壁の塀と、明治の文明開花のガス燈の灯り。
夕闇に灯りをつける時間帯には、幻想的な景色が広がるでしょうね。
銅板葺きの屋根を持つ、日本的な建物
周南市文化会館の建物は、日本建築の意匠がさまざまな場所に使われています。
屋根に注目してみてください!
銅板葺きが使われているのです。
銅板が屋根に使われ始めたのは、江戸期からといわれています。
火事の多い江戸の街で、神社仏閣に納められている大切な宝物を守るために、幕府が奨励して広まりました。
銅板は、とても薄くてデリケートな材料です。
銅板葺きの屋根を持つ、近代的な多目的ホール。
江戸と昭和の共演ですね。
建物の中も見どころがたくさん!
さあ、今度は建物の中。
ホワイエにも、庭園が広がっています。
エントランスでは萩焼作家の陶壁画がお出迎え
エントランスを入ると、正面の陶壁画を見てください。
こちらは、萩焼作家の大和保男さんの作品。
山口県指定無形文化財保持者でいらっしゃいます。
萩焼の釉薬の色の濃淡で、こんなに見事な壁画になるのですね!
ホワイエのステンドグラスはロクレール技法?
西側ホワイエには、ステンドグラスがはめ込まれています。
こちらは、ステンドグラス作家の三浦啓子さんの作品です。
日本ステンドグラス作家協会の会長も務められた三浦さんは、2021年にお亡くなりになりました。
三浦さんの作品は、病院や神社仏閣、六本木ヒルズ森タワーや東京国立博物館などに飾られています。
この日は雨でしたが、日差しが差し込んだ時にはもっとキラキラとした光景になるのでしょうね。
まとめ
周南市文化会館には、子どもの幼稚園のお遊戯会や、オーケストラの演奏を聴きに何度か足を運びましたが、帰宅を急いで足早に立ち去っていました。
今回、周辺を意識して眺めるといろいろなものを発見することができましたし、まだ知らないお宝が眠っているように思います。