病気はその人の不名誉な点なのか?
※本日の記事は個人的な見解によるものです。この内容を読んで気分を悪くされたり、あるいは絶対間違っていると思われるかもしれませんが、この記事の内容を絶対的なものとして強制するつもりはないということを先にお断りしておきます。
「風邪をひきやすい子もいるけど、◯◯ちゃんは風邪をあまりひかなくて丈夫ですごい!」
「あの人は何も身体のことを気遣わなかったから大病を患ったのね。」
こんなセリフ、よく耳にしないだろうか?
あるいは言ってないだろうか?
このように急性病、慢性病に関わらず、病気の発症に善悪をつけたり、その人の人生や生活態度の評価と直接結びつけたりすることを多々見掛ける。
何ならばちょっと“卑下”するような向きもある。
病気は悪。
そういう固定観念があるからこそ生まれる捉え方だ。
その言い方としては、
「テストで何と赤点取ったんだってよ、アイツ!」
みたいな感覚と似ている。
勉強全然してないんだから、自業自得だよな!的な。
誤解を恐れずに言うならば、それはまるで「人生の汚点」みたいな言い方である。
…
例えば、インフルエンザにかかる。
高熱で苦しむ。
罹った本人は「なんで自分なんかが感染しちゃったんだ...」と思い、
周りは「ほら、やっぱり、◯◯してなかったから(or ◯◯したから)かかったのよ。」と決め込む。
それはたしかに、罹った本人がこのところ身体を酷使していたからかもしれない。激しいストレスに身を晒していたからかもしれない。だから抵抗力が落ちていたからかもしれない。
でも実際のところは、「身体の防御機能を破り、ウイルスが人の身体に感染してしまった」という事実だけで、そこに良い悪いと判断すべきポイントはないはずだ。
いろんな要素が絡んでいて、それらがどう発症に関わっているのかも、実際我々には分からない。
百歩譲って、「もしかしたら最近は夜寝るのも遅くて仕事も大変だったから、身体が酷く疲れていて、感染しやすかったのかもしれないから、きちんと休息を取るようにしよう。」と思うだけならば良いと思う。
でもA=Bのように原因と結果がクリアにわかるわけではないのだから、病気にかかることを責められるべきではないと思うのだ。
…
病気になるというのはほんとうに辛いものだ。
いや、こんなふうに「つらい」の三文字で簡単に言い切れるほど、単純な言葉だけでは言い表せないのかもしれない。これは体験したことがないと分からない部分はあると思う。(体験してる人が凄くて体験してない人はダメ、とか、体験してない人には病気に罹った人の気持ちなんてわかんないんだよ!と排除するつもりは毛頭ない。)
私も辛い病気の経験があり、入院も手術もした。一言で片付けるのが憚られるほど、ほんとうに辛かった。
でも、だからといって私が罹ったのとは違う、他の病気に罹ったことがある方の辛さや苦しさをマルッと理解できるとはこれっぽっちも思っていない。その辛さ、大変さのごく僅か何割かを想像することができるというだけだと思っている。
急性病である感染症に罹るのだけだって、体力と気力と両方が奪われて落ち込む。気持ちまでもがとことん沈む。体力が奪われるだけならなんとか気力だけでも自分を奮い立たせることができるけれど、もれなく気持ちも落ちてゆく。身体とこころは一心同体だからだ。
ましてや、慢性的な病気、つまりは一生付き合っていかねばならない病気に罹った場合は尚更である。
なんで自分だけがこんなことに?
なんで自分だけが辛い思いをしなければならないのか?
私が何か悪いことでもしたというのか?
受け入れられずこんなことを自問自答してしまう。
こんな目に会わねばならない理由を探してしまう。
科学が進歩した現代においても、本当の意味での病気の原因というのはまだ解明されていない。
たぶんおそらくそれは神のみぞ知る領域であり、我々人間はどれだけ最先端の科学技術を使い、研究を重ね原因を解明したとしても、全容は明らかにできないであろう。
ただ一つ、確かなことがある。
それは病気は自分の身体で起きているということ。
自分の身体が発している症状、つまりはメッセージであるということ。
だから、忌み嫌うものではあってはならないと思うのだ。
だって自分の身体が起こしていることだから。
言葉を持たない身体がなんとか異常事態を自分に必死に伝えようとしているのだ。
…
これが世界の法則だ、みたいに偉そうに語るつもりはない。
ただ、私が自分の人生経験から勝手に思っているだけのことだ。
病気は闘うものではないのではないか。
病気は自分の一部なのだ。
自分が身体を通じて何かを訴えたい状態なのだ。
それを避けるとか、叩くとか、止めるとか、縁切りをするというのは自分を排除しようとすることと同じではないだろうか。
病気であることを認めることは辛い。
だから病気と自分とをきっちりと切り離したい。
私だってそう思う。
でもその症状を発しているのは自分なのだ。
だから、そうなのね、とまずは向き合って聞いてみてはどうだろうか。
そして病気であるということは大変受け入れがたい状態であるけれど、敵ではないのだから、受け入れられるよう、とことん自分と向き合ってみる。
ここで、受け入れる、と書いたが、受け止める、ではない。受け止めると受け入れるは違うと思っている。
自分の前や外で「止めている」か「中に招き入れている」か 。
止めていたら、それは自分とは違う!と排除していることになりはしないか。
私の中の結論はこうだ。
病気は不名誉なことでもなんでもない。
ただ身体が今の状況を知らせたくて発しているシグナルに過ぎないのだ。
だからまずはそれを受け入れていけるようにそこにしっかり向き合う。
決して闘わない。
排除しない。
病気である自分を卑下しない。ダメと思わない。
…
でも例えば自分が不治の病で余命幾ばくか、という状況になったらどうなんだろうか。
やっぱり病気のことを、そして自分自身を忌み嫌ってしまうのではないか。
そこに自信はまだない。
A=Bのように、これぞ病気と向き合う鉄則だ!なんて声高に主張するつもりもない。
ただ、自分自身の今までの経験から、今はそう思っている、ということだ。
病気になったからダメな自分じゃない。
病気になった人は病気が人生の汚点になるわけではない。
病気になった自分がダメなのではなく、たぶん、自分と向き合いなさいよ、ほらこんな症状を身体は発しているでしょ?というメッセージなのだと思っている。
もちろん、病気は罹らないに越したことはない。だって、自分も身近な周りの人も気持ちが沈み、体力も奪われるのだから。
けれど罹ったからといって、必要以上に自分を責め立てる必要はないんじゃないか。
責めないで、まずは「受け止め」て、止めるだけではなくその症状=身体からの声を「受け入れ」られたら、違う流れになるのではないか。
今病気に罹って心を痛めている全ての方へのエールと、私自身へのメッセージも込めてそんなことを思っている今日この頃である。
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