目新しいモノを片っ端から取り入れて...
久々の投稿。
誰か特定の方を否定・批判するものではないことを書き添えておきます。
ただの呟きと思ってお読みください。
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みんながインターネットを使い、色々な表現したり、意見を表出できるようになったり、作品を発表できるようになったりして、物事がいろいろな人の手で肉付けされるようになったり、考えをみんなが少しずつ寄せ集めて熟成させていけたりできるようになった。
しかし一方で、それらがコンテンツとして捉えられるようにもなり、いままでプロや一部の人しか提供してこなかったエンターテイメント、表現や作品を、誰もが提供し発表できるようになった。
すると、とてつも無い数のコンテンツになり、いかに自分の発表したものを見てもらえるか?という観点から個々の作品や意見が表出されるようになる。
そしてその観点から表現、表出が為されると、恣意的な表現、行きすぎた演出も残念ながら出てくることになる。
また純粋に自分の意見を表現したり、書き留めておくという理念から始めた人も、その波に飲まれて、いかにフォロワー数を多くし、ビューの数を増やすか、それらが多い方が良しという全体的な流れにのまれて、続けることを躊躇ったり、表現することに疲れてしまったりするようにもなっている。
作品や意見が、ある意味消費されるコンテンツ化されてしまっていて、沢山接触した人、露出した人の方が親近感を覚えられやすいから、どんどんとその「消費されるコンテンツ化」された意見や作品を毎日幾つも幾つもあげるようになる。そういう圧、当たり前の雰囲気、それがデフォルトだと言わんばかりの空気になる。
それがどうも納得いかない。
別に、接触が多かったから人が親近感を覚えてくれて、自分の意見や作品を見にしてくれるという効果がなくてもいい、純粋に自由に、世界の色々な事柄の小さな小さなカケラを集めるひとりの人間としての営みであったらいいと思っている。
手軽に目の前に欲しい情報やモノをよびよせられるようになってしまった。あまりにも当たり前すぎて、一つ一つの重みがなくなってきた。
我々はそろそろ消費ばかりをすることをやめた方がいいと思う。
一つ一つ個人から発出された作品や意見の重みを感じながら、じっくり味わう。反復する。
新しいもので目を惹こうとしたり、物を沢山こなすことを良しとするのはやめにしたい。
たくさん表現していなくても、一生懸命丁寧に作った作品や、温めてきて形にした表現を、そっとゆっくりと放つ。またそれらを右から左へとベルトコンベア方式にさらりと目を通して、さらりと触れて、記憶の彼方に追いやってしまうのではなくて、手に取って一つ一つ眺める。
なんでもオンラインで迅速に、効率よく沢山のものを得ようとするのではなくて、そこはまどろっこしく、非効率的に、回り道をしながら、大切に扱っていくべきものなのではないだろうか。
意見や表現は消費財ではないから。
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やっぱり常々心の何処かでは思ってきていたようで、書いている文章の端々にも表れている気がする。
よかったらこちらの記事も見ていただけると、今日のnoteと繋がるかなと。