だれも女神をとめられない
なるせ美術座「運命の女神が咲く」にむけて、読んでいた、モナ・ショレ「魔女」
現代魔女が、あらゆる支配を逃れたポジティブなパワーを象徴するものとして「魔女」を名乗るという流れは本書からのようです。無意識に女性に植え付けられている弊害を、リズミカルに情熱的に書き出していて読みやすかった。
この本の第四章に、「自然の死」が出てきます。これはC・マーチャント著書のタイトルで、安田は東京家政大学の浦田(東方)沙由理先生にお薦めされて、読みはじめていましたが、全部読みました。
グノーシス派はイヴに知識の果実をためすようにすすめた蛇を崇拝し、みずからの尾にかみついてとぐろをまく蛇によって、対立する善悪の統一と宇宙の変転の限りない循環を象徴させているそうです。
なんとか蛇をタロットに入れたいなと思ってタロットの図像に入れました。
両性具有の「女神」は、12日の講演でも話題になりました。
以下のYouTubeで部分的に見れます。
塔は災害や破壊を表すカード。魔女の排除は、産婆の排除でもありました。産婆は、出産を助けるだけではなく、女性が望まぬ妊娠の場合の堕胎も担っていたので、政策上人口を増やしたい支配者男性にとって、知識がある邪魔な存在になるわけです。このカードは、生殖を管理されること、それに伴う害を表しています。
2020年の「だれもあのこをとめられない」展は、GMナタネが運搬途中でこぼれて、自生し、その花粉が在来種と交配するという調査から、花粉やダニ、それを拡散するポリネーターをテーマにしました。その時はフェミニズムに対する知識がなかったのですが、映画「エデンの東」で、何かと聖書を持ち出す父(神)の愛を得られずに苦しむ主人公の姿(家父長制からこぼれ落ちる者)や、種子で繁殖する植物の生殖器官である花粉の拡散に、何となく関連を感じていました。
生殖による増殖を、その主体である女性(雌)ではなく、管理したい他者が、コントロールできるのだろうか?
この展示は、国立環境研究所の五箇公一氏と2人展でしたが、最初の打ち合わせで「『Un controlled』=『制御不能』は、外来種駆除でも重要なテーマ。菜の花の花粉については、研究所で追跡しているチームがある」と賛同され開催しました。
好きな人と共に生活を築き、望む時期に、希望する人数の子どもを育てて暮らしたい、あるいは、子どものいない生活を送りたい、あるいは、1人で楽しく生涯をすごしたい、というのは両性の合意ですが、とくに生死をかけて妊娠出産にのぞむ女性の意志が重要と考えます。
「意志や欲望をもつ女性」が、続く2021年の「悪夢が咲く」展のテーマでした。
コロナになり、毎晩40年代赤狩りの頃の映画を見て、そのワンシーンを描きました。映画キーラーゴのローレンバコールは、1949年19人の映画人が「レッドスター」という飛行機に乗って赤狩りの抗議に行った時のメンバーの1人です。
この話は、和光大学名誉教授津野海太郎氏の「ミュージカルと赤狩り」p.243に出てきます。ちなみに、ローマの休日のワイラー監督もレッドスターに乗っています。
津野氏著書では、エデンの東のエリア・カザン監督は、密告者としてジェローム・ロビンスと共に出てきます。映画「トランボ」を見ると、当時の顛末がよくわかります。また、山本おさむ氏の漫画が読みやすくわかりやすいです。
マーチャントの「自然の死」第七章「自然を支配するー科学技術と家父長制」にも自然=女性を支配すべき存在とした近代科学の父、フランシス・ベーコンについての記述が出てきます。欲望がない女性=母=自然の恵み、(性的にも)欲望がある女性=魔女=自然の災害と分離し、支配すべき存在として魔女狩りを行い、支配を広げていったというように書かれています。
しかし、実際妊娠出産した生身の女性に、そんな分類はないのでは?と感じます。個人的に知っている現実の母にも、さまざまな色で光り輝く欲望があり、欲望があること自体は必然です。そして、その時々の欲望を主張しなければ、場合によっては自分も家族も、地球も、そこに暮らす男性にもさまざまな害が及ぶわけです。
モナ・ショレは、魔女=意志や欲望を主張する年配の女性だと述べています。
常々、安田は、「男性になりたいわけではないのだよなぁ」と、思ってきました。社会の基準の身体は「創建な男性」で、そこで基準以上の仕事をしないと、社会的に評価されないという仕組み自体に疑問があります。朝早くから深夜までの長時間労働が、常に他者と業績を比べられつつ強いられる辛さは、男女とも変わらないのではないでしょうか?そしてそれは、家庭に無償ケアする主婦がいるモデルでもあります。社会基準の身体は、50代の子どもがいる女性にしたら良いのでは?という訳で、2022年の「黄色い魔女が咲く」展では、等身大の自分自身の影を写した作品を展示しました。
また、これは、モナ・ショレで繰り返し語られる、女性の望まれる身体=若い身体、ではなく自ら望む身体の提示です。草は、自宅の庭に自生する雑草で、押し花にして同じ画面に入れました。
この作品や、フェミニズムについての私感のやり取りで、「運命の女神が咲く」2023年3月12日講演演者の大学教員、横山道史さんがメールで以下のように教えてくれました。
フェミニスト魔女であるあいりすさんがTwitterで呟いて教えてくれましたが、ジェンダー平等一位の鳥取県では、徹夜や長時間労働をなくす方向への取り組みが成功しているようです。
「運命の女神が咲く」展では、この黄色い魔女作品が男性に人気でしたが、安田の説明を聞いて、「昨日、おそくまで残業してたんですよね‥。」という感じで共感してもらえたので、男性も現状に苦痛を感じていますよね。
もう一つ、「世界を織りなおすーエコフェミニズムの開花」という本も、浦田(東方)沙由理さんに貸していただいて読んだのですが、エコフェミニストで魔女のスター・ホークさんが「権力・権威・神秘ーエコフェミニズムと地球にもとづく霊性」で以下のように寄稿しています。
安田が出会ったエコフェミ研究者・実践者には、自然ー文化の二元論を唱える人は存在しませんでした。
青木やよひも「フェミニズムとエコロジー」だけを読んだのですが、どちらかというと性を暗闇に追いやった顛末と、ケアを補弼に位置付けて女性のみの領域にしたことが印象的でした。
「自然の死」とはコントロールしたい男性が『自然=女性』とし、『荒々しく時に災害をもたらす自然=意志や欲望をもつ魔女』として分離し、貶め、力を弱めたことへの嘆きでもあります。
浦田(東方)沙由理さんからは、『生命力へのまなざしと身体の理解に端を発する思想運動』と定義してもらいました。石けん運動は、滋賀県民の7割が賛同して条例ができたので、当時30代の母たちから発生したけれど女性だけの運動ではありません。構造そのものへの懐疑と、具体的なオルタナティブアクションです。エコフェミは、男性も女性も自分自身に内在する制御不能な「女神」を感じることで、自らの力を取り戻すアクションなのです。