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100分de名著『ヘーゲル 精神現象学』感想

書籍の結論から言うと、対話による相互承認こそが対立のない社会を構成する絶対知であるとのこと。

当たり前にしていたことを難しく言われたような気がし、イマイチ腑に落ちなかった。


そんなとき、たまたまテレビで黒澤明の映画『生きる』がしており、初鑑賞した。見始めたのは残り50分というところで、通夜のシーンからだった。

映画の内容は、縄張り意識の強い役所の市民課長だった渡辺が、余命いくばくもない中で地域住民の要望で公園を作るというものだ。役所では公園も計画に則って作られるため、渡辺は各部署を説得してまわる。結局できあがった公園は全て上司である助役の手柄となるも、泣きながら焼香する住民を見て気まずくなり退室する。残った各部署の同僚が渡辺の功績と助役への不満をぶちまける。ここでヘーゲルの言葉を借りると「評価する意識」と「行動する意識」に分けられる。

行動する意識は文字通り善なる行動をするが、評価する意識はその行動が真の善かどうかを判断し批判する。この場合公園を作った功績は渡辺のはずなのに、役所(評価する意識)では市会議員の利害の一致で偶然成り立ったと評価される。ここで対立が生まれる。本心ではみな渡辺の功績とわかっているが、役所のボスである助役の言うことには誰も反対できない。ヘーゲルはお互い赦しあうことで相互承認を形成し共通善になると言ってる。だが人間は有限である以上、常に対立し、対話することでしか相互承認できない。

他にも縦割り、縄張り、利害関係などを考慮するとヘーゲルの言葉も単純化されすぎている印象だ。


だが映画で興味深かったのは、公園を要望していた住民たちが泣きながら焼香するシーンだ。それまではさも渡辺の身勝手な行動によるものであるという評価だったのに、泣きながら焼香する住民を見ると言葉が出てこず、みな顔を伏せていた。

その後気まずさから助役は足早に帰宅するが、残った同僚による「対話」のシーンが面白かった。

同僚の中にも渡辺の新公園開発の行為を助役と同じように評価する人もいれば、行動した渡辺こそ一番の功労者だという人もいた。対話する中で評価する人は自分たちは何もしなかったことを、行動した渡辺を称賛する人も、渡辺が各部署に対し勝手に行動していたことを認めあった。そうか、これが相互承認するということか。
この流れはヘーゲルのいう「絶対知」というものかと感じた。

ただヘーゲルは人間は有限であるため、対立のない社会はなく、その都度対話し、相互承認するしかないという。映画も皮肉な終わり方で、通夜では渡辺の功績を認め官僚主義的なやり方を批判していたのに、翌日からは同じように官僚主義的な役所に戻っている。あれだけ官僚主義を批判していたのに…と一人の公務員が憤って席を立つも他の同僚から冷ややかな視線を送られる…

その人は残った公園を上から見下ろしながら終わる。

有限な人間の儚さを感じる終わり方だった。相互承認してもまた元通りなるだけ。対立する意味があるのかと思う。だか公園は残った。


繰り返す対立・対話・相互承認の向こう側に何かが残るのかもしれない。

映画のラストシーンで渡辺が公園のブランコに乗りながら

命短し、恋せよ乙女〜

とゴンドラの唄を口ずさむのが耳に残る。

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