ASMR映画考④《結・ハーメルンの笛吹男》
ASMR動画に関して、私が一等感銘を受けるのは、それらが「観たり聴いたりするため」にあるのではなく、その延長としての「眠りのため」にこそ設計されているという事実だ。
ASMR的文脈に基づいた映像または音声の目指すところは、 視聴者が中途で脱落する(意識を失う)ことであり、物語の内に何らかの感動体験や人生教訓を得ることではなく、カタルシスを得ることでもない。
こういった表現は、タルコフスキーが先験的であったにせよ、19世紀にリュミ エール兄弟がシネマトグラフを開発して以来、時間芸術として貪婪な発展を遂げてきた映像メディアが、インターネットの普及とテクノロジーの恩恵によって、時間的制約を逃れる段になって初めて獲得されることになった、ある種の豊かさの証ではないか。
ASMR動画は既に市民権を得ている。
では、ASMR映画は?
確かに、アンディ・ウォーホルの『眠り』(1963)やビョルンスティエルネ・ロイター・クリスティアンセンらの『モダンタイムス・フォーエヴァー』(2011)、アンダース・ウェバーグの『アンビアンス』(2020)等は非常に長いし、 途中で寝ても誰にも怒られなそうだ。
しかし、監督が観客を眠らせるためにそれを作り上げ、また観客が眠る目的で映画館に向かうのでないならば、それはASMR映画とは呼べない。
『アンビアンス』に関していえば、上映後フィルムが破棄されるという一回性を考慮したとしても、720時間(30日)に亘る上映時間を映画館で間断なく見続けるのは 不可能だし、精神衛生上良いとも思えない。タイトルの意(Ambiancé=雰囲気)を汲み取り、環境として味わうべき映画なのだろう。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は真面目に読もうとしたら、辞書を片手に読まねばならないが、『アンビアンス』もまた、全編を見晴るかすためには、長大なアーカイブが必要になる。言葉を替えれば、「観ること」そのものへの問いかけがあるともいえる。更に、そこに幸福な睡眠が約束されていたとしたら、これはもう完全なASMR映画である。
通常の価格設定では難しいかもしれないが、ASMR関連動画が隆盛を極めている昨今ならば、ASMR映画を劇場公開しても、それなりに集客できる気がするが、どうだろう。
勿論お金をとるとなったら、全編バイノーラル録音は当たり前として、カタルシスの代わりに複数のトリガーを設定しておく必要はあるだろうし、「Sounds like Tarkovsky」に象徴されるタルコフスキー流の催淫効果を期待されもするだろう。その道もまた生半ではない筈だ。
しかし、ASMR映画を目すのならば、集客システムに関しても、大真面目に取り組むよりか、ウツラウツラ臨んだほうがより良い効果が生まれそうな気もする。
たとえば、少し古いが『PUBG』というバトルロイヤルゲームのルールを導入するというのはどうだろう。
『PUBG』は、最大100人のプレイヤーが、ランダムに配置された武器やアイテムを頼りに、最後の1人(1チーム)になるまで殺しあうという熾烈なゲームで、若年層を中心に人気を博していた。
私は別段好戦的な人間ではないし、時間を割いてまでプレイしたいとはまったく思わないが、こういったゲームと同工のものが今も昔も市場を賑わしているということには、興味・関心がある。
ASMR映画に託けていうならば、『PUBG』流に予め観客を100人に限定し、最後まで起きていられた者を、その上映回の優勝者として表彰するというような鑑賞ルールを設ける感じだろうか。
眠れた者に不満はなかろうし、逆説的だが、上映毎に最低一人は映画を観直することになるので、作家にも上映し甲斐がある。
勿論会場ではカメラを回すべきだ。
なんとなれば、その最後の一人は、更によく眠れるASMR映画を作ろうと目論む未来のASML監督である可能性が高いだろうから。
彼が将来上映する映画は、たとえば次のようなものになるだろう。
130人限定のハーメルン伝説に根ざした子供向けASMR映画。
しかし、あまりにもよく眠れるため、誰もが結末をしらないという曰くつきの映画。
インターミッションにハリウッドの新作映画の予告を流すと、観客は瞬間的に目覚めるが、映画が始まるとやはり寝てしまう。
誰もが暗室でウツラウツラと微睡む中で、盲目と聾唖の子供二人だけが例外的に起き続けている……
〈了〉
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