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チューダー朝の歴史のカメラマン*画家ハンス・ホルバイン・ヤンガー

忘れないうちに・・・と思い立ち、下の記事に書いた『大使たち』の絵の作者について書いておきます。



『大使たち』ハンス・ホルバイン・ヤンガー 1533年作

ハンス・ホルバインについて

作者のハンス・ホルバイン・ヤンガー(Hans Holbein (der Jüngere), 1497年/1498年 - 1543年)は、後期ゴシック期のドイツ人画家です。


父で同名のハンス・ボルバインは、ゴシック・スタイルの宗教画を得意とし、美術史上に名を残している画家でした。
若くして亡くなった兄、アンブロジウスも画家で、兄弟は父から絵のレッスンだけなく、金細工師、宝石職人、版画家 の技術も学んだそうです。


父のハンス・ホルバインが描いた聖ポール大聖堂の祭壇画三連祭壇画
上の絵に紛れ込ませたハンス・ホルバイン親子


絵を書く人は知っていると思う「ホルベイン色鉛筆」って、ホルバインの名前から取ったのかな。

16世紀のイングランド貴族の肖像画のほとんどが、ハンス・ホルバイン・ヤンガーによるものです。ホルバインは、大小合わせ150枚の肖像画を描いたそうで、私が知っている貴族の絵もホルバインが描いたものでした。
歴史家は彼を「チューダー朝の歴史のカメラマン」と呼んでいます。


画家としての出発(1515年~)

ホルバインは、南ドイツのアウクスブルクで生まれ、若い頃はこの時代の画家の常として修業と遍歴の旅を経て、1515年頃にスイスのバーゼルに落ち着きました。

バーゼルでは、木版画や金属版画、肖像画を描いたほか、教会のステンドグラスのデザイン画を描き、画家組合(聖ルカ組合)に参加して1519年ごろにバーゼルの市民権を取得し、結婚もしました。

聖書の『ルカによる福音書』の筆者ルカが最初のイコン画家であったとされているため、中世の画家たちは聖ルカを象徴として用いました。

ギルドのルールは、ドイツの他の職業のギルドと同様に、最初の見習い期間は少なくとも3年、多くの場合は5年でした。
通常、見習いは「ワンダヤーレ(ジャーニーマン)」(給料が日当払い)として働き、別の土地に移動してさまざまなワークショップの経験を積むことも求められます。Journeyman years
必要な年数の半分を経過すると、マスタークラフトマンになる権利を得るためにギルドに登録します。

ジャーニーマンは旅に出ている間、浮浪者や逃亡者と間違われないように、未婚で子供がおらず、借金がないことが条件にあり、それとわかる特定のユニフォーム(Kluft)を着用し、また特定の握手など、ドイツでは伝統的にお互いを識別するために使用する秘密のサインがあったそうです。


伝統的な職人の衣装

アルブレヒト・デューラー(1471年5月21日 - 1528年4月6日)も、ホルバインと同時代のマスタークラフトマンでした。


***当時のホルバインが描いた肖像画***

バーゼル市長ヤコブ・マイヤー・ツム・ハーゼンとドロテア・カンネンギーサー


ボニファシウス・アメルバッハの肖像画(1519年)


ホルバインの妻は、彼より数歳年上の未亡人でフランツと言う名の連れ子がいたそうです。ホルバインと彼女との間には、カタリーナとフィリップが生まれました。

バーゼル市庁舎には、この時代にホルバインが手掛けた一連の絵画が保存されています。


第1章:ドイツの宗教改革とロンドン移住

1524年から1525年にかけてドイツ各地で起きた民衆反乱が最高潮に達した後、オーストリアとスイスでも暴動が起き、スイスのバーゼルにも深刻な影響が出ました。

ドイツの反乱は、ペストの流行の後に起きた不況による生活苦と、急進的なプロテスタント宗教改革を介して農民が自由を求めるようになり起きたものでした。
フランス革命以前のヨーロッパで最大の民衆蜂起だったそうです。

ドイツにおける宗教改革の指導者であったマルティン・ルターは、社会制度に対して保守的なため、鎮圧の側に回りました。
このためこの地方の農民からルター派は支持を失い、以後カトリックが主流となる。

バーゼルでは暴動と報道機関の厳しい検閲により、芸術活動も規制されるようになりました。また、宗教改革により、宗教画の依頼も減少したため、ホルバインの収入も減っていました。


**当時のホルバインが描いた絵**

ホルバインによる『死の舞踏』6.5 x 4.8 cm


「ゾロトゥルンの聖母」(1522年)


エラスムスとトマス・モア

1526年、仕事を求めていたホルバインは、ネーデルランドの人文学者エラスムスの紹介でアントワープの印刷業者ピーター・ギリスのもとへ行き、ギリスの推薦で単身ロンドンに渡りました。


『1523年のエラスムス』 (ハンス・ホルバイン画)

エラスムスは(1469年(1466年?)- 1536年)は、宗教改革の時代の重要人物のひとりでイギリスの資料にも良く出て来るのですが、私の印象ではカトリック信者なのか反カトリックなのかわからない位置にいる人でした。

Wikipediaには、
エラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に身を投じることはなかったと書かれています。


エラスムスとルターの関係性も複雑です。
当初はルターがエラスムスを尊敬していたということで、エラスムスはルターに好意的でしたが・・・ルターの活発な活動により二人の思想の違いが明らかになっていき(エラスムスは教会の分裂を望んでいなかった)、結果的にルターの支持派・反対派双方から疎まれることになりました。


エラスムス像(日本の重要文化財)

1600年、今の大分県臼杵市に漂着したオランダ船リーフデ号の旧名はエラスムス号であった。同船は、徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子)が乗っていたことで有名である。同船の船尾には、エラスムスの木像が付けられていた。


ホルバインは、エラスムスとピーター・ギリスの共通の友人であった弁護士トマス・モア(政治・社会を風刺した『ユートピア』の著者)を紹介されてロンドンに渡りました。

トマス・モアは、エラスムスが初めてロンドンを訪問した1499年にまだ法学生だった若いモアと出会い、すぐに意気投合した旧知の友人でした。


『 サー・トマス・モアの肖像』(ハンス・ホルバイン画、1527年)
忠誠心と高い地位のしるしであるチューダーローズのエッセスカラー(首輪)


モアは、1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務め、1529年に大法官に出世しました。
そういうモアの人生が上昇している頃にホルバインはロンドンに行ったわけで、モアを通じて貴族たちに知られ、肖像画を描く仕事を得たようです。

モアは、エラスムスに「彼(ホルバイン)は素晴らしい芸術家です」と手紙を送っています。

ところが、ヘンリー8世が最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚問題によりローマ教皇クレメンス7世と対立し、王の離婚に反対したカトリックのトマス・モアは失脚し、1535年には反逆罪で処刑されてしまいました。

エラスムスはモアの訃報を聞き、ヘンリー8世がまだ王子だった頃にモアとヘンリー王子と語り合った日を思い出し、悲しみに暮れたそうです。

トマス・モアの『ユートピア』は、エラスムスの『痴愚神礼讃』やアメリゴ・ヴェスプッチの旅行記『新世界』に触発されて書かれました。

**当時のホルバインが描いた肖像画**

天文学者ニコラス・クラッツァーの肖像(1528年)


カンタベリー大主教ウィリアム・ウォーラム(1527年)
フランシス・ラヴェル卿の妻、アン・ラヴェルと思われる女性の肖像画。


帰国、そして再びロンドンへ

ホルバインは、ヘンリー8世とローマ教皇が対立していた時代は、バーゼルに帰国していました(1528年ー1532年)。

ホルバインは、バーゼルのギルドに属したまま2年間の休職という形でロンドンに移ったため、市民権を保持するための帰国でした。
でも、家を買って4年間もバーゼルに留まったのは、ロンドンに戻るつもりがなかったのかも知れませんね。

当時のホルバインは、プロテスタントではありませんでしたが(と言って敬虔なクリスチャンでもなかったようです)、帰国中はプロテスタントの権威者に請われて肖像画を描いていたとのこと。

しかし、彼は再び家族を置いて、一人でロンドンに移ります。ホルバインを再びロンドンに向かわせたのは、またも宗教改革が原因でした。

1529年4月、バーゼルは正式にプロテスタントを導入し、カトリックのミサを禁止しました。
エラスムスはカトリックの司祭たちとともにオーストリアに亡命し、バーゼルでは聖人の崇拝を否定するツヴィングリ派の暴徒によって、教会の彫像や宗教画のほとんどが破壊されました。

プロテスタントの宗教改革の偶像破壊で、バーゼル市と大聖堂に属する多くの貴重な芸術作品が1528年と1529年に破壊されました。
多数の市民がバーゼルの多くの教会を襲撃し、宗教画や彫像を破壊しました。影響力のある教会改革者フルドリヒ・ツヴィングリは、絵の形で神を崇拝することを偶像崇拝として非難しました。

ホルバインが以前に書いた宗教画やステンドグラスなども破壊されてしまったそうです。
バーゼルですることが無くなってしまったため、ホルバインはロンドンに戻ることにしたのです。


破壊を免れたバーゼル大聖堂のオルガンドアに描かれた絵画。

バーゼル大聖堂のオルガンシャッターのデザイン(1525-26年頃)


**当時、ホルバインが描いた肖像画**

「アーティストの家族の肖像」(1528年頃)

ホルバイン自身の妻子を描いたと言われている、この肖像画はなんだか悲しそうに見えます。

ダルムシュタットのマドンナ(1526年から1530年頃)
商人ゲオルク・ギッツェの肖像(1532年)


ホルバイン自身の手による手記や手紙のやりとりが残っていないため、彼がどういう考えの持ち主だったか不明のままです。

エラスムスは、ある時には彼を賞賛し、別の時には日和見主義者と批判していたそうです。これはきっと、宗教改革の時代において、ホルバインが宗教的な態度を曖昧にしていたせいでしょう。

ホルバインは、エラスムスらカトリック派との繋がりを保ち、彼らのために働きながら、ルターの思想にも賛同し、聖書への復帰と教皇制の打倒を求めていたそうです。
エラスムスが嘆くのもわかりますね。ホルバインは処世術としても、宗教観を曖昧にしていたのでしょう。

ホルバインは冬に生まれたそうです。
私の見立てでは、ホルバインは射手座生まれ。月は乙女座か水瓶座かな。

第2章:イギリスでは宗教改革に関わる

ホルバインが再びロンドンに向かった1532年、トマス・モアはヘンリー8世の説得に失敗し、大法官を辞職しました。

新しい後援者を求めたホルバインは、ヘンリー8世の新しい重臣トマス・クロムウェル (1485年 - 1540年7月28日)に用いられるようになりました。
クロムウェルは、ヘンリー8世の宗教改革における右腕となって活躍していました。


トマス・クロムウェルの肖像画(ハンス・ホルバイン画、1532年 - 1533年)


ヘンリー8世とクロムウェルは修道院解散を進めており、ホルバインはプロパガンダに協力して、ルター派に有利なイメージを与える絵を数々描きました。


類型論を絵画で表す

現在の私たちが、聖書の寓話を元に描かれた絵画を見る時、その描かれた時代の宗教観を知ってて見るのと、知らないで見るのとでは大きな隔たりがあると思います。

「旧約聖書と新約聖書の寓話」は、1541年と1545年にルター聖書の口絵にも使用されたそうです。
中央の木によって二分割された絵の根元には、イザヤ(左)と洗礼者ヨハネ(右)、人間(ホモ)が座っています。
どちらも下に示された聖句(イザヤ7:14とヨハネ1:29)で彼らが予言したように、キリストを救い主として指さしています。

ハンス・ホルバイン - 旧約聖書と新約聖書の寓話(1530年代)


この絵は左が旧約聖書の世界、右は新約聖書の世界で対比させており、聖書の解釈の伝統では、タイプロス=類型論という手法で、「旧約聖書で告げられたことは新約聖書で完成される」(アンティティポス)ことを証言するための方法です。

絵は、それぞれを上から順に縦に見てもいいし、横に見比べてもいいようです。

イザヤがいる旧約聖書の世界では、木の葉は枯れています。
上から下へと見て行くと、モーセがシナイ山の頂上で神から法(LEX)の石板を受け取っている。
アダムとイブは蛇に誘惑され、人間は堕落し、PECCATUM =罪を得ます。
骸骨の上に描かれたMORSは死という意味。
山のふもとではタウ十字に青銅の蛇が巻き付いており、MYSTERIUM IUSTIFICATIONIS=義認の神秘と書かれています。


青銅の蛇
キリスト教徒にとっては癒しと罪を肩代わりしたキリストの象徴(予型)でもある。そして、脱皮することから復活の象徴でもある。
蛇は不死や治癒、罪からの癒しの象徴であり、失楽園の蛇のような原罪の象徴だけとは限らないのである。

アンソニー・ヴァン・ダイク『青銅の蛇』1618年-1620年頃


ヨハネがいる新約聖書の世界では、木々は生命に満ちています。
山の上には聖母マリアが受胎告知(GRATIA)を受けており、麓には羊飼いがいて天使から御子の誕生を聞きます。
右中央では、イエスが神の子羊として導かれ(AGNUS DEI)、崖のふもとには「私たちの義認」(IUSTIFICATIO NOSTRA)として受刑したキリストがいます。
そして最後にイエスが墓から復活した場面では(VICTORIA NOSTRA – 私たちの勝利)と書かれています。


義認は、恵みの教理におけるキリスト教神学の中心的な概念です。(教派により相違がある)

ホルバインの絵は、ルター派の宗教改革の解釈と一致しています。
旧約聖書はそれを罪と罰の時と解釈していますが、新約聖書は救いへの道を示しています。キリストと彼の福音は、旧約聖書では謎として隠され、新約聖書では明らかにされています。

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こちらも同じテーマで描かれています。
ルーカス・クラナッハ・ザ・エルダー:人間の堕落と贖罪

類型論の代表的なものとして、「ヨナが三日間、鯨の腹の中に横たわったように、キリストも三日間墓に横たわった」というのがあります。
この類型論は、旧約聖書を解釈する人気のある方法でした。キリストが旧約聖書の預言者たちが指摘した人物であることを明確にすることを意図し、人々を説得するために用いられました。


当時、ホルバインが描いた絵画として『大使たち』がありますが、この絵については別記事に書きます。


第3章:王のお抱え画家となる

ホルバインの功績がヘンリー8世の目に留まり、1536年に年30ポンドの契約で宮廷画家になることができました。

ホルバインは、絵だけでなく王のジュエリーや衣装、食器、武器(鎧)などのデザインもし、宮廷のファッションデザイナーになりました。
そういえば、彼は父親から彫金や宝石の技術も伝授されていましたね。


ヘンリー8世と同時代のフランス国王フランソワ1世は、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンでした。


クロ・リュセ城のダ・ヴィンチの部屋


フランソワ1世が、ダ・ヴィンチを召し抱えたことにより、ダ・ヴィンチが所持していた彼の代表作『モナリザ』、『聖母子』、『聖アンナと洗礼者聖ヨハネ』は結果的にフランスのものとなったわけです。
国王は頻繁にダ・ヴィンチを訪ね、ロモランタンの都市計画を相談したと言われています。

*****


イングランドは常にフランスに張り合っていたので、ホルバインは「イングランドの宮廷のレオナルド・ダ・ヴィンチ」的な存在になっていたんじゃないかな~と想像しています。

1530年から1698年まで英国王の本邸だったホワイトホール宮殿には、火災で焼失するまでホルバインによる大壁画がありました。
その絵は、ヘンリー8世と3番目の妃ジェーン・シーモア(エドワード6世の生母)の結婚を祝うために1536年頃に描かれたと思われます。

ホルバインがお抱え絵師になった頃に描かれたという事実からしても、ヘンリー8世がホルバインの才能を認めていたことがわかります。

ヘンリー7世とヘンリー8世とその妻を描いたホワイトホールの壁画のスチュアート時代のコピー。1667
煙突のデザイン、1538年から40年頃。


ヘンリー8世と妃たち

ジェーン・シーモア(1536年)


ヘンリー8世と言えば、キャサリン・オブ・アラゴン(メアリー1世の生母)と離婚するために法律を変更したことで知られていますが、相思相愛で再婚したはずのアン・ブーリン(エリザベス1世の生母)を2年後に国王暗殺の容疑、姦通罪で処刑してしまいます。

英語の記事には、ヘンリー8世がアン・ブーリンの又従姉妹で、キャサリン・オブ・アラゴンとアン・ブーリンの侍女を務めていたジェーン・シーモアに心移りしており、ジェーンと結婚するためにアンを陥れたと書かれているものもあります。


この陰謀論は的外れではないと思います。
私もアン・ブーリンは冤罪だと思っています。
アンの父トマス・ブーリンは、1529年にヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの婚姻無効を実現させるべく、皇帝カール5世および教皇クレメンス7世に使節として遣わされていますが、トマスは王と自分の娘を結婚させるため王の身勝手な考えに賛成していました。
父トマスはヘンリー8世の宗教改革を支持したのでプロテスタントと思われていますが、ブーリンも妻のハワード家も本来はカトリックでした。

そもそも、この時代のイギリスまだほとんどカトリックだったんですよね。


ジェーン・シーモアの実家シーモア家は、当時はプロテスタント急進派とみなされていました。アン・ブーリンを排除して、ヘンリー8世とプロテスタント派をより密着させる策略があったのでは?と思います。

トマス・ブーリンは命は奪われなかったものの、宮廷から追放され、失意の晩年を送りました。

ホルバインが描いたアン・ブーリンの肖像画はじめ、アン・ブーリンに関するものはすべて廃棄焼却されたと言われています。

しかし、ジェーン・シーモアは1537年にエドワード6世を出産した後すぐに亡くなりました。

再び、独身者となった王のため、ホルバインは外国にいる妃候補者の肖像画も製作しました。
そのうちの『アン・オブ・クレーヴズの肖像』をヘンリー8世は気に入り、ドイツ人のアン・オブ・クレーヴズと結婚したのですが、実際に会ってみたらヘンリー8世の好みのタイプではなかったらしく、ヘンリー8世は1日目で嫌になり、6か月後には離婚してしまったのでした。


『アン・オブ・クレーヴズの肖像』(ハンス・ホルバイン画



第4章:クロムウェルの失脚とホルバインの不遇

トマス・クロムウェルは、へンリー8世とアン・オブ・クレーヴズの結婚の失敗がきっかけとなり失脚しました。
クロムウェルはプロテスタントのアンとの結婚を王に勧め、アンの美しさを吹聴していたらしいのです。そのため、ヘンリー8世の期待が大きく膨らんで、さらにホルバインの絵でも美しく描かれていたため、ヘンリー8世の失望が大きかったと言われています。

実際のところアンは美しかったが、ドイツ的で地味な女性だったそうです。

1540年6月、クロムウェルは反逆罪で突然逮捕され、ロンドン塔に収監されました。
7月9日にヘンリー8世とアン・オブ・クレーヴズは正式に離婚し、同月28日に5番目の妃キャサリン・ハワード(アン・ブーリンの従妹)と結婚しましたが、その同日にクロムウェルの処刑が行われました。

ヘンリー8世はクロムウェルを処刑する際に、わざと未経験の処刑人に担当させて(一息に首を切断する技術がないため)クロムウェルに苦痛を味合わせたと言われています。
クロムウェルの首はトマス・モア同様、ロンドン橋に架けられました。


王妃をめぐるカトリックとプロテスタントの権力争い

お気づきだと思いますが、キャサリン・ハワード(ハワード家)はカトリックです。
私がずっと書いているボルチモア男爵家とも関係が深いのですが、プロテスタント化を進めていたクロムウェルは、カトリック派によって失脚させられたのでしょう。


キャサリン・ハワード(ハンス・ホルバイン画)


キャサリンは、前王妃アン・オブ・クレーヴズの侍女の一人でした。
ヘンリー8世は年の離れたキャサリンを「私の薔薇」と呼んで可愛がったそうですが、キャサリンもまた1年後に姦通罪で処刑されてしまいました。

キャサリンの処刑は悲しく恐ろしいものだったと以前に読んだことがありますが、現在は削除されているようです。

キャサリンの親族の多くもロンドン塔に拘留され、裁判にかけられました。反逆罪隠蔽の罪で終身刑となり、財産没収を宣告されました。
(詳しくは別の機会に)


キャサリン・ハワードの墓(セント・ピーター・アド・ヴィンクラ教会)


ホルバインの死

クロムウェルが失脚すると、ホルバインも追放処分を受けました。
その頃、再びバーゼルに帰国していますが、またロンドンに戻っています。
彼はロンドンに別の女性との子どもが二人いたそうです。

その後、後援者を得られなかったホルバインには目立った作品がなく、1543年にロンドンで死去しました。(46歳)
ホルバインは亡くなる直前に遺言書を残していたようで、最後を看取った画家仲間が遺言を実行し、遺産を整理してバーゼルとロンドン両方の子どもたちに送ったようです。

ホルバインは学校を設立しなかったので、ホルバインの技術を厳密に受け継いだ者はいなかったとのこと。
バーゼルでは、ホルバインの友人ボニファシウス・アメルバッハとアメルバッハの息子によってホルバインの作品は保護されました。

*****

私が好きな肖像画

サリー伯ヘンリー・ハワードの肖像画(ハンス・ホルバイン画、1542年頃)


ホルバインの芸術はイギリスでも高く評価されていましたが、16世紀後半には忘れられつつあり、17世紀にアランデル伯爵トーマス・ハワード(1585年7月7日 - 1646年10月4日)によって再評価が行われました。

ここでハワード家が出て来るのは、個人的には嬉しいです。トマス・ハワードの人生も波瀾万丈でしたが。

トマス・ハワードは、フランシス・ベーコンと親しかった。
ベーコンは病気治療のために駆け込んだアランデル伯の屋敷で死去している。ベーコンが書き残した最後の手紙もアランデル伯に宛てた「閣下の管理人から丁重な扱いを受けた」ことに感謝を示す手紙であった。

この頃からホルバインは、オランダでも高く評価されるようになり、1780年頃、正統派の巨匠の一人として祀られるようになったそうです。



それにしてもヘンリー8世が、アン・ブーリンと結婚するためにローマ・カトリックを抜けてからのカトリックとプロテスタントの権力争いはおぞましいです。
イギリス王家だけの話じゃなく、親戚のスコットランド王家も巻き込んで、それがガイ・フォークスの火薬陰謀事件にも繋がっていくのですから。


**余談**最後のヘンリー8世王妃キャサリン・パー


ヘンリー8世(ホルバイン画)


その後1543年に、ヘンリー8世(51歳)は最後の妃となるキャサリン・パーと結婚します。
キャサリン・パーは、3番目の妃だったジェーン・シーモアの兄トマスの恋人でした。キャサリンを見初めたヘンリー8世は、トマスを公務で海外に追いやり、その隙にキャサリンに求婚しました。

キャサリンはとても賢く思いやりある、素晴らしい女性だったと私は思っていますが(別件で詳しく調べたことがあります)、妃を二人処刑し、その他にも気に入らない者を次々に処刑した残虐な王となぜ結婚する気になったのか、わかりません。
トマス・シーモアを守るためだったのかなと思います。


(作者不明?)

1547年1月28日ヘンリー8世は55歳で崩御しました。
王は遺言で、キャサリンが引き続き王妃としての格式をもって接遇されること、また年7000ポンドの歳費を生涯にわたって国庫から支給されることなどを定めていたそうですが、キャサリンはエドワード6世が即位すると速やかに宮廷を退出し、5月にはトマス・シーモアと再婚しました。

キャサリンが妊娠している間、トマス・シーモアは同居して面倒を見ていた若きエリザベス1世と親密な関係になり、エリザベス1世は他の親戚に引き取られるというスキャンダラスな事件もありました。

1548年8月30日に誕生した女児はメアリーと名づけられましたが、キャサリンは9月5日に世を去りました(赤ちゃんも1年以内に死亡)。
キャサリンの死は、トマスによる毒殺ではないかとも言われています。

1549年3月、トマス・シーモアはエドワード6世に対する大逆罪で斬首されたました。

キャサリンの最期を看取ったのが、のちに「9日間女王」となるジェーン・グレイ(1537年10月12日? - 1554年2月12日)でした。

私がこだわっている時代なので話は尽きませんが(苦笑)、長くなりましたので今日はこのへんで終わります。
『大使たち』の絵については後日、また書きます。

最後までお読みくださりありがとうございました。ではまた。

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