「フランシーヌの場合」*命にかえて抗議した若者たち②
私が子どもの頃、『フランシーヌの場合』という曲がヒットしていました。(1969年6月15日発売)
フランシーヌは、パリ市内の路上で焼身自殺した女性の名前でした。
なぜフランシーヌが自殺したのか、理由までは知らなかったのですが、悲しい歌詞なのに今でもよく覚えています。
「ほんとのことを言ったら、おりこうになれない」という歌詞が、子どもながらに身につまされていました。
当時、コマーシャルフイルムの制作に携わりCMソングの作曲家でもあった郷伍郎氏が、新聞の小さな記事に触発されて『フランシーヌの場合』を作詞作曲したそうです。
曲の途中で唐突に男性の声(フランス語)が入るので、びっくりなさいませんように。
私は思わずキョロキョロ見回しちゃいました(苦笑)
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「フランシーヌの場合」の時代背景
この事件は世界中に配信されたと思われますが、日本以外では注目されなかったのか、フランス語の記事も英語の記事も見つけられず。
wikiにも情報がなく、残念ながらフランシーヌさんがどんな人だったのか追跡できませんでした。
でも、『フランシーヌの場合』のヒットで、多くの日本人の心に刻まれたと思います。
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フランス・五月革命
調べてみると、当時フランスでは前年に五月革命(Mai 68)が起きていました。この革命は、最初は学生運動から始まったそうです。
フランス全土で、デモ、ゼネスト、大学や工場の占拠など7週間にわたる市民運動が起こり、警察との市街戦も起きたそうです。経済も停止しました。
シャルル・ド・ゴール大統領が密かに西ドイツに逃亡したそうですから、かなり大規模な市民運動だったようです。
さすがフランス革命の国。熱いですね。
最初に抗議活動が起きたのは、パリ郊外にあるパリ大学のナンテールキャンパス(現パリナンテール大学)だったそうです。
1968年3月に新左翼学生による占拠事件が発生し、学生と当局との間で何か月も衝突が続いた後、行政は1968年5月2日に大学を閉鎖しました。
翌5月3日、パリ大学ソルボンヌ校(現ソルボンヌ大学)の学生たちは、ナンテール校の閉鎖と学生数名の追放の危機に抗議する集会を開きました。
5月6日には、現在もフランス最大の学生組合であるフランス全国学生組合(UNEF)と大学教員組合がソルボンヌ大学への警察の侵入に抗議するデモ行進を呼びかけました。
2万人以上の学生、教師、支持者と警察がカルチェラタンで衝突し、警察は催涙ガスで応戦し、数百人の学生が逮捕されたそうです。
5月10日、学生たちは車や木材、道路の石畳をはがしたコンクリート片を使ってラテン地区の通りを封鎖し、ゲイ=リュサック通りを中心に機動隊との間でストリートファイトが繰り広げられたそうです。(バリケードの夜Nuit des barricades )
警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台の車が燃やされたとのこと。
このときの警察の強硬な反応により、学生と一般市民は団結を強め、13日には100万人以上の労働者がストライキに突入。
5月22日には800万人以上の人々がストライキを行なったそうです。
何度も言いますが、熱い国ですね、フランス。
デモに参加した学生は、1968年時点には60万5,000人だったそうです。
wikiによると、デモ隊には新左翼と左翼が混在しており、実際に五月革命を主導していたのは「反スターリニズム」的、「反ソヴィエト連邦」的な新左翼グループだったとのこと。
現在はEU(欧州議会)の議員であるダニエル・コーン=ベンディット(Daniel Cohn-Bendit、1945年4月4日 - )は、フランス生まれのユダヤ系ドイツ人。当時、ナンテール大学の学生で、五月革命の指導者の一人と言われています。
やはり彼らの最初のデモは、ベトナム戦争に反対するデモだったそうです。
五月革命は、フランスの政治、社会、文化の風潮を大きく変えたと言われています。フランシーヌ・ルコントさんも、その激動の中で青春時代を過ごしていたのですね。
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焼身自殺の連鎖
wikiを見ていて、フランシーヌ・ルコントさんの焼身自殺と同じ年の1969年1月16日に、チェコスロヴァキアの大学生ヤン・パラハという若い男性が、プラハの春の終結に対する政治的抗議で焼身自殺していたことを知りました。
プラハの春
1948年の共産党によるクーデター(2月事件)で共産党政権が成立して、一党支配によるチェコスロヴァキア社会主義共和国となっていましたが、アメリカとソ連の対立(冷戦)が深まり、国際環境の変化はチェコスロヴァキアの国内政治にも影響を及ぼし、非共産系の政党と共産党政権の亀裂が深まっていました。
1968年1月、アレクサンデル・ドゥプチェクは党第一書記に選出され、ドゥプチェクは検閲廃止などの自由化に着手し、1968年4月に路線の転換と民主主義改革を宣言。一気に「プラハの春」と言われた改革が始まりました。
ところが、活発な言論活動による共産党への批判が高まるチェコスロヴァキアの状況は、ソ連(ブレジネフ書記長)やポーランドにとっては極めて危険なものに映ったため、ソ連や東ヨーロッパ諸国はドゥプチェクに対して自由化への歯止めと共産党による強権支配の復活を要求しました。
しかし、ドゥプチェクが応じなかったため、8月20日深夜にソ連軍を中心にポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリアの各国軍がワルシャワ条約機構 (WTO)軍としてチェコスロヴァキアに侵攻し、全土を占領してドゥプチェク達の党・政府の指導部を拘束しました。
WTOの侵攻では、72人のチェコ人とスロヴァキア人が死亡、266人が重傷を負ったそうです。
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ヤン・パラハさんの焼身自殺は、侵攻後の混乱の中で起きたのですね。
パラハさんは焼身自殺から3日後に亡くなりましたが、治療に当たった医師によると、パラハさんはソ連の占領に抗議するために自殺したのではなく、占領によって引き起こされたチェコスロヴァキア市民の「士気低下」に抗議して自殺したのだとか。
パラハさんは自殺前に何人かの公人に手紙を送っており、検閲の廃止とソ連占領軍の機関紙の配布停止を要求、チェコ人とスロヴァキア人が彼の要求を支持してゼネストを行うよう呼びかける内容だったそうです。
パラハさんの自殺の前年、1968年9月12日にポーランドの元レジスタンスメンバーだったリシャールド・シヴィエツ氏が、チェコスロヴァキア侵攻に抗議して焼身自殺しており、1968年11月6日にはウクライナの民族主義者ウクライナ反乱軍に加入していたワシル・マクフ氏も焼身自殺していました。
パラハさんは3人目でしたが、不幸な連鎖は続き、パラハさんの葬儀から1か月後(2月25日)に別の学生ヤン・ザイクさんが同じ場所で焼身自殺しました。
2018年に制作された映画『ヤン・パラハ』は、焼身自殺するまでのパラハさんの人生を記録しているそうです。
しかし、焼身自殺の連鎖は終わらず、同年4月にはチェコスロヴァキアのイフラヴァという町でエヴジェン・プロチェクさん、他の学生も焼身自殺しました。
wikiには、他にハンガリーでも1969年1月と1970年2月に焼身自殺をした若者がいたと書かれていました。
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言論の自由が奪われた状態で
政治的抗議のために焼身自殺をした人物で世界的に有名なのは、ひとつ前の記事にも書いた、1963年6月にベトナム・サイゴンのアメリカ大使館(カンボジア大使館と書いてある記事もあった)前で焼身自殺をした僧侶ティック・クアン・ドックです。
私は小さな子供だったのでまったく知りませんでしたが、当時の南ベトナム政権の仏教徒に対する抑圧を、世界に知らしめるべく事前にマスコミに告知して行われたそうです。
燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、絶命するまでその姿を崩さなかった衝撃的な姿は世界中に放映され、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな影響を与えました。
激しい炎の中で最後まで姿勢を崩さなかったのは、どれほど強い決心なのでしょう。
焼身自殺(Self-immolation)は、政治的な抗議として、言論の自由が奪われた状態の下で行われることが多いそうです。
未来の私たちに言論の自由は残されているのだろうか・・・Xでさえシャドウバンされている身としては考えてしまいます。
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1969年は特殊な年?!
1969年は春分(3月20日)の2日前の18日に金環日食が起きていました。
活動宮(牡羊座、蟹座、天秤座、山羊座)の0度をアリエスポイントと呼びますが、これが結構、重要なんです。
1969年3月18日の日食図を見ると、ノード軸が牡羊座と天秤座の0度、リリスは蟹座0度にあります。
そして2日後3月20日が春分で、アリエスポイントで太陽とノードがぴったり重なっていました。
wikiを見ると、日食の日、アメリカがカンボジアに朝食作戦を開始し、カンボジアを空爆していました。アメリカ大統領はニクソンでした。
1969年7月20日は「人類が初めて月面を歩いた日」ですが、その真偽は別として、その日は天秤座0度(アリエスポイント)で木星と天王星がコンジャンクションしていました。
木星と天王星のサイクルは約14年。今年4月21日に牡牛座でコンジャンクションになりますが21度の場所です。
1969年のようなアリエスポイント(0度)でのコンジャンクションは貴重です。
フランシーヌさんが自殺した1969年3月30日の星の配置を見ると、水星が牡羊座に入ったばかりで、牡羊座に天体がぎゅうっと詰まっています。
牡羊座に天体が集まると、牡羊座が本来持つ闘争心が強められます。
冷戦と代理戦争
第二次世界大戦後、世界は西側諸国(アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営)に分かれて対立し、冷戦と呼ばれた「戦火を交えない戦争」(武力で直接衝突はしないと言う意味)状態でした。
とはいえ、それは表向きのことで、両国が介入した代理戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連・アフガン戦争)が多数勃発していました。
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ベトナム戦争
ベトナム戦争の始まりは諸説あるそうですが、1975年4月30日に終結しました。「ベトコン」(「ベトナムの共産主義者」の意)という言葉をテレビでよく聞いたのを今も覚えています。
1981年2月25日に枯葉剤が原因で生まれたと言われる結合双生児のベトちゃんドクちゃんのことは、よくテレビで放送されました。
1988年、兄のベトちゃんが急性脳症となったため二人は分離手術を受けましたが、2007年10月ベトちゃんは腎不全と肺炎の併発により26歳で死去。
ドクちゃんのほうは、その後たびたび日本を訪れているそうです。
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ビアフラ戦争
1967年から1970年にかけて起きたビアフラ戦争(Nigerian Civil War)は、もともとはナイジェリアの旧東部州のイボ人が、ビアフラ共和国として分離独立を行った事で勃発した独立戦争でした。
そこに両国が介入し、イギリスやソビエト連邦などがナイジェリア政府側を支援し、フランスや中国などが独立運動側を支援し支えた事で、戦争は長期化しました。
私はまだ子供だったので、覚えているのはビアフラの子どもたちの姿だけですが、子ども心になんて悲惨なんだろうと思っていました。
飢餓による栄養失調から来る病気や餓死、または虐殺により、少なくとも150万人以上が死亡したそうです。
フランシーヌ・ルコントさんもビアフラの惨状に心を痛めていたそうです。
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日本のジャンヌダルクと呼ばれた女学生
日本語の某記事によると、「フランシーヌの場合」の発売日が6月15日になったのは理由があったそうです。
1960年の安保闘争(60年安保)で機動隊とデモ隊が衝突し、デモに参加していた東京大学の樺(かんば)美智子さんが圧死したのが、1960年6月15日でした。樺さんの命日に発売日を合わせたとのことでした。
この事件の背景には、戦後に締結されたサンフランシスコ平和条約(1951年9月8日)と同時に結ばれた日米安全保障条約の改定があります。
1951年当時の日本は、吉田茂内閣でした。
条約には、
・日本はGHQが解体されてもアメリカ軍が日本に駐留することを認める
・ 日本はアメリカが認めない第三国へ基地提供を禁止する
などが含まれ、さらにアメリカが日本を必ず助けるとは決められていませんでした。
1957年に岸信介内閣が始まり、1958年ごろから改定の交渉が行われ、1960年1月19日に新条約が調印されました。
新安保条約は、
・内乱に関する条項の削除
・日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)
・在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
など、アメリカ軍に基地を提供する為だった旧条約から、日米がより平等になるように改正するものでした。
ところが、反アメリカ派であった日本社会党と日本共産党がこの改定に猛反発し、国会は紛糾しました。日本における条約締結や改定にはその後に国会での承認を受けなければ成立しません。
締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米兵犯罪免責特権への批判により、反対運動が高まっていたそうです。
学生たち中心の組織であった共産主義同盟や全日本学生自治会連合(全学連)も反対デモを行い、60年安保闘争へと発展しました。
しかし、なんとかして可決させたい岸内閣は、反対する社会党と共産党を国会から排除して、新安保条約を衆議院で可決してしまったのでした。
全国各地で反対デモが起きるようになり、ついに30万人以上のデモ隊が国会議事堂を取り囲む事態になったそうです。
そんな中で起きたのが樺美智子さん(22歳)の圧死事件でした。
樺さんの死亡報告を聞いた学生の一部が暴徒化し、負傷した学生約400人、逮捕者は約200人、警察官の負傷は約300人に上ったそうです。
死者まで出した大規模デモにも関わらず、19日午前0時をもって安保条約は自然承認され、6月23日に成立しました。
事態を収拾できなかった責任を受けて、7月15日に岸信介内閣は総辞職。
60年安保闘争もいちおう終わりました。→70年安保闘争へ。
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学生運動
1960年代末に世界の至るところで起きた学生運動をスチューデント・パワーと言うそうですが、中国の文化大革命、フランス五月革命での学生運動を皮切りに、アメリカでは映画「いちご白書」で有名なコロンビア大学闘争、日本でも反戦運動や全共闘運動が起きました。(東大安田講堂事件)など。
世界的に共通した学生運動のスローガンには、やはりアメリカのベトナム戦争に対する批判があったとのこと。
日本は70年安保闘争も加わります。
70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層の支持を得ましたが、60年安保に比べ学生運動の色合いが濃くなっていきました。
学生運動から過激派グループが生まれ、1970年に赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍による1972年あさま山荘事件、日本赤軍による1972年テルアビブ空港乱射事件が起き、テロ組織化していきました。
「あさま山荘立てこもり事件」はテレビで中継していたので覚えています。
以前、50年間逃亡していた指名手配犯・桐島聡について書きましたが、彼はちょうどその時代の人です。
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カイロンリターンとペインボディ
再び1969年のホロスコープを見ると、カイロンが現在と同じ牡羊座に入っています。カイロンの周期は約50年なので、現在はカイロンリターンです。
牡羊座のカイロンは、自尊心や人間の尊厳に結びついていると思います。
牡羊座のカイロンを代表する人として私が思い出すのは、1968年4月4日に暗殺されたキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)です。キング牧師は、人種差別と闘ったとして有名ですね。
暗殺された日は、牡羊座で太陽と土星がコンジャンクション。カイロンも牡羊座0度(アリエスポイント)で牡羊座に入ったばかりでした。
また南アフリカでのアパルトヘイトに対する非難が、世界中で高まったのも牡羊座カイロンの時代でした。
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1969年6月24日に立命館大3回生の高野悦子さん(20歳)も学生運動に関わる最中に、鉄道に飛び込み命を絶ちました。
自殺の理由は明かされていないようですが、「私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい」と日頃、語っておられたそうです。
高野さんがベトナム戦争やビアフラ戦争についてどのように思っていたのか知る由もありませんが、子どもだった私でさえショックを受けていたのですから、多感な青年たちはもっと大きな衝撃を受けていたことでしょう。
カイロンは、その時代の空気感と、それを共有する人々の心の傷=ペインボディを象徴していると思います。
そしてカイロンは、その心の傷に負荷をかけて癒す作用があります。
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今、カイロンが牡羊座に戻ってきて、私たちは50年前を追体験しているような感じです。
私が好きな「追憶」という映画は、ちょうど反戦運動が盛んだった時代の映画ですが、あの頃、血みどろな学生運動に没頭した若者たちは年老いてしまい、反戦運動も日本ではなかなか聞かれません。
もちろん、反戦運動などない平和が一番良いですが、世界は50年前、それよりも前の戦前のムードに近づいているのかもしれません。
いや、近づけようとしている人たちがいるんでしょうね。
毎日、兵士ではないガザの一般人が爆撃で傷を負い、四肢の切断を余儀なくされています。今日もイスラエル兵士に狙撃されて、11歳の男の子が亡くなりました。餓死者も日に日に増えています。
これは戦争ではなく、虐殺です。ジェノサイドです。
50年前と違ってライブ中継を観ているスピード感で情報は伝達されている現在、「ガザで何が起きているか知らなかった」という言い訳はできません。
それなのに誰も虐殺を止めさせることができない。
ジェノサイドを許してはいけない。ジェノサイドを容認すれば、私たち日本人も再びジェノサイドされる側になると思います。
東京大空襲、広島・長崎への原爆投下のように。
50年後、カイロンが再び牡羊座に戻ってきたとき、そのカルマが次世代に及ばないことを心から祈ります。
長い記事を最後までお読みくださりありがとうございました。