1303年*フランス国王フィリップ4世とアナーニ事件
前回の記事でフランスのフィリップ4世について書いたので、忘れないうちに昨年から下書きのままだった記事をUPします。
フィリップ4世(在位:1285年 - 1314年)といえば、テンプル騎士団の弾圧したことが有名ですが、ローマ教皇とも対立したことでも有名です。
どちらかというと、私はそっちのほうに注目していました。
ちなみに「フィリップ」という名前は、カペー朝の第4代国王フィリップ1世(在位:1060年 - 1108年)から受け継がれているのですが、当時は異国風の響きを持つ名前だったそうです。
フィリップ1世の母アンヌが、ルーシの王女(リューリク朝のキエフ大公ヤロスラフ1世の娘)だったので、東欧風の名前によって異国の王家の血を引いていることを示したのだそうです。
フランス王家とキエフ・ルーシ王家の婚姻には、フランス側には遠い国から妃を得たことで禁じられていた6親等内の血族結婚を避けられ、東ローマ帝国の影響(ルーシは988年にキリスト教を国教にした)を弱めたかったヤロスラフ1世にはローマ・カトリックのフランス(旧・西フランク)と縁を繋いだというメリットがありました。
フィリップ1世についても下書きのままになっていますが、いつか出します(苦笑)
アナーニ事件
ええ、やっちまったんです(笑)
1303年9月7日、フィリップ4世の政治顧問だったギョーム・ド・ノガレの軍隊が、ローマ南方に位置するアナーニ地方で第193代ローマ教皇ボニファティウス8世を捕らえ、幽閉してしまいました。
アナーニはボニファティウス8世の生まれ故郷であり(アナーニの名門カエターニ家の出身)、彼の屋敷がありました。
教皇は3日間拘束され、地元の人の助けで解放されましたが、その後激しい熱病を発症し1303年10月11日に亡くなりました。
つまり憤死したのです。
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フィリップ4世とボニファティウス8世の対立
フィリップ4世とボニファティウス8世が初めて対立したのは、1296年でした。前回の記事をお読みになった方はピンときたかもかもしれません。
イングランドとのガスコーニュ戦争の開始(1296年)とフランドル侵攻が関係しています。
父フィリップ3世と大叔父のシャルル・ダンジューらが始めたアラゴン十字軍(アラゴン戦争)の大失敗により、フィリップ4世は多額の借金も受け継いでいました。
アラゴン戦争については後述。
テンプル騎士団(12世紀になると国際金融業務を中心に行なっていた)のパリ支部は、1146年には国王ルイ7世の命により正式にフランス王国の国庫の役割を持ち、この体制はフィリップ4世の統治まで続いていました。
第191代ローマ教皇ニコラウス4世(在位1288年 - 1292年)は、1289年にフィリップ4世にフランスの教会の土地から「十分の一税」を徴収する許可を与えています。
「十分の一税」は本来は信者が教会にするものですが、国王が教会の資産から税金を取っても良いと許可したのです。
またニコラウス4世は、父や大叔父が始めたアラゴン戦争の調停に入り1291年に和平が締結されたため、フィリップ4世は望まぬ戦争と余計な戦費から解放されています。
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でも、フィリップ4世がニコラウス4世と親しかったわけではないようです。
むしろ「教皇」ないし「教皇庁」に対して懐疑心が強かった王でした。
というのもニコラウス4世とは別の教皇ですが、アラゴン戦争のきっかけを作ったのが教皇マルティヌス4世(フランス人、本名はシモン・ド・ブリオン)だったからでした。
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しかし、ガスコーニュ戦争とフランドル伯領との戦争は、フランスの財政悪化を加速させました。
この頃には、フィリップ4世はテンプル騎士団ではなく、フィレンツエのフランツェージ家から融資をうけていました。
フランツェージ家はテンプル騎士団の能力をはるかに超える巨額の借款を調達することができたそうです。
有名なメディチ家のほかに中世のフィレンツェには、いくつかの有名な銀行(バルディ家やペルッツィ家)があったといわれていますが、フランツェージ家についてはイタリア語の情報しかなく、画像も見つかりませんでした。
子孫はイタリアンマフィアとして有名なようですが。
AIに聞いてみたら以下の回答でした。
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さて、膨大な戦費を調達するためにフィリップ4世はフランスで初めて国内全土に課税を実施し、キリスト教会にも納税が課せられました。
教皇至上主義を掲げていたボニファティウス8世は、これに反発しました。
キリスト教徒の多いフランスは、ローマ教皇庁においても重要な資金源であったため、教会に課税されることは教皇庁の収入が減ることになります。
ボニファティウス8世は、1296年の教勅で、教皇の許可なしの聖職者課税を認めない態度を示しました。
フィリップ4世は教皇勅書に対抗し、教皇領への金、銀、宝石、馬、武器、食料の輸出を禁止する法律を発布しました。
これらの措置は教皇の主な収入源を遮断する効果がありました。
フィリップ4世はまた、新しい十字軍の資金を集めていた教皇の代理人を追放しました。
ボニファティウス8世は、しぶしぶ「国王が緊急時に聖職者に課税する」ことを譲歩しました。
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このときの対立は、ボニファティウス8世がフィリップ4世の祖父ルイ9世(聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しませんでした。
教会税と聖年祭(ローマ巡礼)
先日、フランスで古い教会が放火されて大変話題になっていましたが、「聖ジョージ&ドラゴンの日に思ったこと」に書いたように、過去4年間でフランスでは1500件以上の教会火災が起きています。
フィリップ4世の時代のフランスにはどれだけの数の教会があったのかわかりませんが、おそらく現在よりも多かったのではないかと思います。
(というのはフランス革命で、多くのカトリック教会が破壊されているからです)
そんなフランスで教会税が徴収されるわけですから、収入減となる教皇庁は必死です。
そこでボニファティウス8世が考えたのは、キリスト教徒をローマに直接呼び込むことでした。
ボニファティウス8世は、1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典(聖年祭)を計画し、ローマ巡礼による死後の天国行きを確約しました。
残念ながら私はローマ巡礼はしたことがないですが、イタリアの教会美術で人気のジョットをはじめ多くの芸術家が集まり、大聖堂などの改修が行われたのは、聖年祭で教皇庁が潤ったからなのでしょう。
ボニファティウス8世は、聖職者の養成のため1303年にはローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立しています。
フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の二度目の対立
1301年、フィリップ4世が再び教会課税を推しすすめようとしました。
ボニファティウス8世は「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣しました。
「ウナム・サンクタム」は、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文でした。さらにボニファティウス8世は、「聴け最愛の子ら」という回勅を発してフィリップ4世に対し教皇の命に従うよう促しました。
フィリップ4世は、ノートルダム大聖堂に聖職者・貴族・市民(といってもブルジョワ)の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会を開き、教皇を批判し、自分はフランスの国益にかなう政策を行っているとして支持を集めました(寄付も集めた)。
これに怒ったボニファティウス8世がフィリップ4世を破門すると、フィリップ4世も「悪徳教皇」を弾劾する公会議を開くよう求めて、両者は決裂しました。
実は、ボニファティウス8世に敵対していたのは、フィリップ4世だけではありませんでした。
ローマ貴族コロンナ家がボニファティウス8世と対立していました。
コロンナ家は、前教皇ケレスティヌス5世(在位:1294年7月5日 - 12月13日)が半年足らずで退位したのは、教会法に違背しているのではないかと退任の合法性に疑問を呈していました。
ぶっちゃけて言えば、ボニファティウス8世の仕組んだ陰謀だと非難していたのです。
そのコロンナ家のボニファティウス8世批判にのっかったのがフィリップ4世だったとも言えます。コロンナ家もフィリップ4世(カペー家)も、前教皇ケレスティヌス5世のほうが都合がよかったのです。
教皇とシチリア対策
半年で退位したケレスティヌス5世は、修道士として有徳で人望も厚い人物でしたが、前教皇ニコラウス4世が1292年に死去したあと、コンクラーヴェ(教皇選挙会議)で後継教皇の選出が出来ず、教皇が空位という事態が2年も続いていたため、教皇空位の混乱を収拾するために一時的に「つなぎの教皇」として選出されました。
そもそもケレスティヌス5世は教皇になる気がなかったので、修道院から退去しようとしたところをナポリ王カルロ2世 に制止され、教皇に就任するよう懇願された経緯から、教皇に就任してもローマには行かずナポリに居住しました。
また、カルロ2世の望む人物を教会の役職に据えるなど、実質的にカルロ2世の傀儡としての存在になっていきました。
しかし、在位数か月にしてケレスティヌス5世は、自ら「教皇の器にあらず」と述べて退位を希望し、教会法に詳しいベネデット・カエターニ枢機卿(のちのボニファティウス8世)に相談しました。
カエターニは教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ケレスティヌスは半年たらずで退位したのでした。
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