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短編:アニマ


 海辺にいる。
 空は高く、首を90度上向かせてみると抜けるように青い。「天井」が存在しない、広大で、無限の、遥かなる深い宇宙が、このバックに展開されている、と考えると気が遠くなってくる。眩むような空の高さ。雲ひとつない快晴であり、海ではあるがカモメは一羽たりとも飛んでいない。カモメも年中無休で忙しく飛び回っているわけではないのかもしれない、とぼんやり考えたりもする。ただただ聞こえるのは波の打ち寄せる音だけ。不自然なくらいに海はないでおり、風は全く感じることはない。海のほうに目をやると、水平線の彼方に何かが見えると言うわけでは無論ない。波の打ち寄せる砂浜の表面に目をやると、波の引いたのちにじゅわじゅわと海水が染みる音がする。ちっちゃいカニとかいたりしないかな、とかぼんやり考える。
 熱い砂浜に両足を埋め込むような形になる。足を投げ出してぼんやりしていると後ろから肩をトントントントンと叩かれて振り返る。中学時代の担任が立っている。体育教師らしくにまりとした満面の笑顔なのだが、その実俺の同級生らからはだいぶ嫌われていた気がする。生徒を選り好みするのだ。本人は意識しているのかどうかは最後までよくわからなかったが、傍目から見るとそういう傾向がありありと受け取れたし、本人はあまりそのことについて意識していなかった節がある。なにやら爽やかな笑顔をしている。黒いシャツと、丸太のように太い腕を組み、ひょっとして毎朝鏡の前で研磨しているのではないかと思えるほどの白い歯を見せてかつての担任は俺に言う。
「じゃあ俺と泳ぐか。今日は水泳の時間だ」
 そうだったと俺は思う。じゃぶじゃぶと担任は黒いスウェットの白いラインの入った水着でそのダルマのように筋肉質の身体のまま海水をかき分けかき分け、ある程度の深さまでつかるところまでいきこちらを振り返り、お〜いこいよ、と言う。この先生ってこんなフレンドリーだったっけ、と俺はぼんやり考える。あ、はい、いま行きます、と応じて俺は砂浜をダッシュで駆ける。じゃぶじゃぶじょぶじょぶ海の中に分け行っていくのだが、水の抵抗がいつもより大きい気がしてならない。なんか、かなり重しをつけているみたいな。浮力が強いのか? と思う。この海ってひょっとして死海だったりしないだろうか、とかぼんやり考えたりするが、俺はこの海が具体的にどこなのかを全くわからない。
 お〜いこいよ、と声がしたほうを見てみると、何やら首から上だけ海面から出す形になっており、なにやら何かの深みにはまり込んだかのよう。溺れているのか? とか考えたりするのだが、しかし相変わらず何事もないかのような笑顔である。ますますよくわからない。これって助けたりしたほうがいいんだろうか、と思ったりするが、そのころにはすでに目から下が海面に沈んで見えなくなっている。なにか海底に変なのがいるのか? これはヤバい事態なのでは、と俺が内心焦っていると、もうすでに担任は完全に海の中に消えてしまったようでその姿を確認することができない。全身から汗が吹き出た。これは事故だ。たぶんどこかに連絡しないといけないのだが全くどこがいいのか思いつかない。海上保安庁とかかいいんじゃないだろうか。しかし説明の仕方がわからない。
 と、その時にどろりとした、足の裏に感じていた海底の感触に変化が生じた。ごぼごぼごぼごぼ、と海面に夥しい量の泡が立ち始め、足元の感触がむずむずと身動きのようなものをしていたかと思うと、それが激しく大きな力で迫り上がってきたのである。俺の身体は急激に持ち上がりあわあわあわあわああああああああああ!!!!!!!!!! と俺は叫び、転び、のたうちまわりながら海面に真っ逆さまに落っこちていくがそんなのおかまい無しである。何者か、巨大な下にいた「何か」が身を起こしたかのように海底全体が大変容を遂げつつあった。
 投げ出された海からかろうじて這い上がり、ごへごへごへと咳をしながら、全身のじりじりした打ちつけた感触を味わいながら砂浜を亀みたいな姿勢でのろのろと上陸してから振り返ると、見上げるように、おおよそ数十メートルはあろうという巨人が起き上がった形だ。腰ほどまで伸びる長く黒い髪と、そもそもその身体のラインが見るからに丸みを帯びており、それは観察すればするほど若い女性のものとしか思えないことがわかってきたのである。なんで? とは一切俺は思わない。それよりも根源的な恐怖のほうが強かった。踏み潰されたくない。俺は必死にえほえほとえづきながら、身体を奮い立たせ猛烈なダッシュで走り出した。
 こちら側から見て、女はその長い黒髪をゆらめかせ、肩から脇腹、腰にかけての陰影のつき方が、海水から打ち上げられたばかりの鯨のように太陽光を受けてぬらぬらともの凄まじい反射をあげる。意志があるのかどうかは全然わからない。ぼんやりと海の向こう側の太陽の方角へ視線をやっているようなのだが、残念ながらこちらからは角度の問題でその表情は全く窺い知ることができない。俺はしばらく走り、転び、走り、転び、みたいなのを馬鹿みたいに繰り返しながら、至極走りにくいったらありゃしない砂浜をアホみたいに走りまくった。状況のせいもあってか全身の緊張感が半端ではなかった。あまりにも向こう側からの反応がないので俺は不審に思い、ようやく俺は立ち止まって振り返る。巨人は、というか、女は相変わらずおんなじ姿勢のまま、なんとなくその身体を前後にゆっくりと揺らしている。呼吸にしてはずいぶんと動きがあるな、と俺は思う。この巨人も呼吸というのをちゃんとするのか。とか考えながら観察を続けているとその揺らぎがどんどんどんどん大きくなっていき、やかてぷっつりと途中で糸が切れたかのように脱力した彼女はその巨大な身体を支えていたバランスを完全に失い、海面にその身を横倒しにする形でぶっ倒れたのである。量感が半端ではないのでその衝撃はすさまじく、すぐ近くにいたら俺もひとたまりもなかったであろうことは自明のことで、ひどく身震いがしたことは言うまでもない。ブッシャアアアアアア!!!!!!!! とそれこそクジラのようなスケールの水しぶきを上げ、海岸の周囲にとんでもない音量でどっしりとした身体が水越しに地面にたたきつけられる。
 骨の髄まで響くようなそのスケール感をしばらく感じながら、俺はしばらくあっけにとられた状態で眺めていたのだが、やがて自分の身の安全を確認できると、その女の身体が今度はピクリとも動かなくなっていることに気づいたのである。気絶しているのかもしれない。さっき立ち上がった時も半分寝ぼけているみたいな様子ではあったのだが、この調子だと今度は完全に気を失っている可能性がある。俺はおそるおそる女の右の肩甲骨の下あたりに来る。少し触ってみると体温がある。耳を引っ付けてみると心音もある。こりゃすごいな、と俺はここへきてようやく事態の異常さを改めて認識する。くじらのような女の身体は一周するのにもそれなりの時間はかかりそうだ。たぶん身長は三十メートル以上あると思う。俺はほとんど海藻のように広がった黒髪が想像以上に通行の邪魔になったので、ぐるりとかなりの遠回りをして女の正面のほうまで泳いでいった。女の身体は大きく横倒しになっているので、こうやって観察しているとちょっとした小島のようである。女の髪は長いのでかなり時間がかかってしまったが、ようやく女の表情を視認できるポイントまで近づくことができた。濡れた髪でその表情は少し視認しにくいが、まっすぐとした鼻筋と水死体のように動かない表情。ルージュを縫っているわけでもないだろうに唇は桃色であり、これ半分改定に水没しているから海水飲んじゃってるんじゃないかなあ、なって思って近づくとぱかっと口が大きく開いた。凄まじい力で水が動き、五秒ぐらいで激しい濁流が発生する。生暖かい息がぶわっと顔面いっぱいにかかったかと思ったら状況の変化に俺は全く追いつかない。ごぼごぼどしゃどしゃどしゃと水がものすごい勢いで女の口の中に呑まれていくため、俺は全く抗いようがなく水に押し流されておわおわあわあわ待ってくれちょっとあああああああああああああ!!!!!!!!!!!! と叫ぶ頃には完全に女に丸呑みにされ、食道をぐりんぐりんになりながら体内に落っこちていく。まさかこの女に意識があるとはこれっぽっちも予想をしていなかった。しばらく海水とかにもみくちゃにされながら流されていくと胃袋についたようである程度の広さにある空間に出た。しかし真っ暗である。周囲には何にも見えないし、これでは呼吸ができなくなるのも時間の問題である。俺は壁を全力で殴りつけるがびくともしない、当たり前である。くじらに飲まれた人間で生還したやつって人類史上どれほどいるんだ? と俺はガチで焦ってくる。クマに襲われた時は死んだふりをするとかそんなことをしても意味がないとかそういう話はよく聞くけど、クジラに飲まれた時の対処法とかこれまでに生きてて一度も聞いたことがない。正確にいうとくじらというかくじらみたきなサイズの女なのだがそんなことはこの際どうでもいい。くそがまじで舐めるなよクソアマ、ひとをおやつみたいに気軽に食いやがってと毒づきながら俺は全く見えない中を必死で何かないか手元を探っているとなにか身に覚えのある感触が。? と思いそこらへんをもっとよく触ってみると人間の頭部、さらに言えば人間の肉体の感触があり、俺以外にも人間がいるらしいことに気づくのに俺はしばらくの時間を要してしまった。
「んんんんんん!!!!!! ちょっと、そんな、叩いたり引っ張りたりしないでくださいよ」
 どうやら意識もあるらしい。聞くからに少女のものとしか思えない声は落ち着いてください、と暗闇の中から俺に語りかけてくる。?????????? と完全に状況に追いつけなって頭がオーバーヒートしている状態の俺に対して女は、これでいいですか? といい、パッと光が点灯する。それでようやく俺は周囲に目をやることが可能になる。俺は海水の表面を揺蕩っている状態で、少女はなんと水面から数センチ宙に浮いている。手にカンデラのようなものがあり、それで周囲を照らしている形になる。少女は白い髪、白いまつ毛、白い簡素な布地の服に色素の薄い瞳、そしてその背中からは何やら力強いサイズ感を誇る大きな白い「翼」。これは……と俺はしばらく沈黙する。「天使」というやつか? そんなアホなとむろんのこと思う。少女はばっさばっさと翼をはためかせながら、ぜいはあぜいはあと肩で息をしている。暗闇の中で俺に頭を引っ叩かれたり髪の毛を引っ張られたりしたのでかなり動揺したようである。
「呑まれちゃったことに関してはわたしからも謝ります。あなたのことをここから脱出させることは難しいですが、とりあえずいまは落ち着いてください。死ぬことはありません。それだけいま、お伝えしておきます」
 俺はますます状況が掴めなくなった。当たり前である。これをとりあえず身につけてください、と俺は少女から何かを投げ渡される。なんだなんだと俺がそれを受け取って見てみるとそれは白い簡素な布地の服だ。少女のものと同じでペアルックだということになる。あ、なんか、どうも、ありがとうございます、と俺は言う。困惑しかない。
「それを着れば、酸素とか関係なくこの場に適応できるようになりますよ。人間を超越できます」
 意味がわからなかったがここで断ってもたぶん死ぬだけであるため、俺は大急ぎで着替える。水の中であるため大変やりにくいので少女に身体を支えてもらい手伝ってもらった。完了するとなんだか背中の肩甲骨の下あたりの筋肉がむずむずしてきて、ああ、ちょっと十秒ぐらい痛いですよ、と少女に言われて激痛に変化した。痛い痛い痛い痛い!!!!!! と俺が喚いていると男の子なんだからそんなことで泣かないの、みたいなことを少女がいうのでまじでなんなんだよと思う。注射の針をブッ刺された感覚に近いだろうか? ずばっと何かしらが生えてきた感触がありたぶん翼だろうと思う。試しに動かしてみると三本目と四本目の腕が生えてきたみたいな感じだ。とりあえずかなり頑張って動かしてみると次第に慣れてくる。
「お母さんは、定期的に男性を飲みます」
 少女はそんなことを言う。
「お母さん?」
「この肉体の持ち主のことです」
 少女は付け加える。いや、でも、ともすればきみと同年代くらいの容貌をした若い女だったし、それを「母親」と呼ぶのは無理があるよ、とか思ったが、いやこんな人間を平気で丸飲みする巨人に対して人間の加齢の法則を適応するのは無理のある話しなのかも知れなかった。とりあえずこっちにきてください、と少女は俺の手を引っ張って胃袋の下のほうまで飛んでいく。胃袋というよりは洞窟のようになっており、それは見るからにあの巨大な「女」の肉体に収まり切るとは思えないほどの奥行きがある。洞窟の終わりが見えてきて、その奥には見るからに何か山の稜線のようなものが確認できる。胃袋はいつのまにか「川」へと変化しており、その先はどうやら「滝」になっているようで、ドバドバドシャドシャと水が注がれていることが察せられた。
「いやいや待て待て待て待て」
 俺は少女の腕を引っ張る。
「なんですか?」
「なんですかじゃないよ。なんでいきなりよくわからない場所に連れて行かれなきゃならないんだよ。俺を早く地上に返してくれ」
「あ〜……」
 少女はなんだか申し訳なさそうな表情になる。翼をばっさばっさはためかせている音がうるさくて仕方がないが、顎のところに手をやったり、かと思えば両手を股の前あたりでもじもじさせ始めたりと落ち着きがない。なんだか何か残酷な事実を俺に告げるのを非常にためらっているかのようである。
「その……たぶん、お母さんが許してくれないと思うんです」
 彼女は言う。このセリフだけ取り出すと、なんだか極めて家庭的というか、まるで母親に怒られでもしたごく普通の女子高生か何かに見える。
「お母さんの同意がないと、ここから出られることは基本ありません。死ぬことだけは無論のことありませんし、ごく普通の生活を営むことだって可能です」
 薄々察してはいたが俺はこの女の体内から出られることはないらしい。がっかりすると言うよりは焦燥感で頭の中が支配される。いや、何かあるだろう。絶対に出られないなんてことはいくらなんでもないだろう。そのようなことは俺の頭が理解すること自体を拒絶しており、どこかしらに解決策が必ずあるはずだという確信を手放すことができない。おそらくなのだが手放したら絶望してしまうからそれを必死に避けようとする精神の働きが俺の根底にあり、傍目から見ればかなりおかしなことを俺はしているのかも知れなかったが、次から次へとこのようにわけのわからない事態に放り込まれて狂っていないのは俺のほうなのかこの少女のほうなのかわけがわからなくなってきたのである。いや、あの意味がわからないくらいにデカい女の存在自体がわけがわからないのはその通り。
 なんかないかなんかないかなんかないか、と俺はすぐ傍の「川」から一本の木の枝が流れてきたことを確認し、それを手に取る。それで思い切り壁をブッ刺す。どつん、と鈍い感触がして見事に食い込んだのを目にした彼女はああああああッッッッッッ!!!!!!! と叫び途端に顔面を蒼白にさせる。
「なんてことをするんですか!!!! そんなことをしたらお母さんに、お母さんに、怒られる、ああああああもうとんでもない!!!!! どうしてくれるんですか!!!!!! どうしてくれるんですか!!!!! どうしてくれるんですか!!!!!どうしてくれるんですか!!!!!」
 とんでもない剣幕で少女がブチギレ始めたので今度は俺が何か悪いことをしたかのような気分になる。俺は木の棒を引き続きブッ刺そうと手を動かしかけたがものすごい勢いで少女に腕を引っ掴まれた。その華奢な身体のラインからは意外なことに腕力はあるようで、というよりはこの極めてただならぬ、額に汗して、鳶色の瞳を爛々とさせてガンギマっている反応から察するにおそらく本当に「畏怖」の感情が母親に対してあるのではないだろうか。とか考えたりする。あああああ、あああああもうどうしたら、ああああもう、あああああ……と少女は一人でかなり気が動転している。だから、ドドドドドドドドドドドドドという猛烈な地鳴りが遠くのほうから聞こえるのに気づくのにしばらく時間がかかってしまった。おや、と思い俺は川下のほう、滝が流れているほうに目をやると、何やら黒い靄のようなものが立ち込めており、さらに言えば地震すらも起こっているようだった。がらがらと洞窟の天井からも石ころが落っこちてきて、何か結構まずい状況に立たされているんじゃないかということが俺にも理解ができたような気がするのである。
「はじまっちゃった」
 少女はぼそりという。はじまっちゃった、ともう一度言う。
「……始まったって何が?」
「お母さん、すごく怒ってると思います」
 丸裸で海から出てきて、しばらく突っ立ってたと思ったらぶっ倒れただけのところしか俺は「お母さん」について知らないので、あれが「怒っている」ところに想像が及ばない。そもそもあれと「意思の疎通」とかとれるのか? とか、そもそも「しゃべる」ことがあるのか? とか疑問は尽きないが、俺はとりあえずこの場から脱出しなきゃならないと思う。手元の木の棒をもう一度手に取ろうとするが、少女に腕をまたがっちりホールドされる。
「もうこれ以上お母さんの肉体を傷つけるのをやめてください」
「いや、でも、早く脱出しないといけないし」
「お母さんを傷つけないで」
 俺はその迫力に気おされる。有無を言わせぬ響きがそこにはあった。
「お母さんを傷つけるのをやめて。それに、その棒切れで壁をどすどすやったところで外に出られるわけではありませんよ?」
「俺にもよくわからないんだけども」
 俺は彼女の両手をとる。少女は一瞬だけ表情が緩むのを俺は見逃さない。
「この木の枝が何か特別なものだとも思わないし、この壁に穴をあけられるという確証もない。だけどね、この木の枝を手にして、壁にぶっ刺したときの感触が「確信」へと変わったんだよ」
 俺はここで初めて、これまでに手にしていた木の棒が一振りの剣に姿を変えていることに気づいたのである。おそらくなのだが、壁に刺したことで何らかの(神聖な?)効果が及ぼされたのだろう。もはやここでは何が起ころうが何も不思議なことはない。
「なにわけのわからないことを言ってるんですか」
 少女は言うが、俺の手にしている剣を見て何か表情が変わったのを俺は捉える。それまでの調子とは打って変わって、途端に黙りこくる。何かを考えこんでいる様子にも見えるが、その内容に関しては具体的なことはわからない。以前にもこういったことがあったりしたのだろうと俺はなんとなく察しをつける。
「心当たりある? 木の棒が剣にいつの間にか変形してるんだけど。きみのお母さんと何か関係ある?」
「……わかりません」
 少女はそんなことを言う。
「きみのお母さんの身体には何か特別な力が宿ってるはずだよな」
 少女は黙っている。
「俺が刺した木の棒が変形したのだって何かしらの理由があるはずだよな。それも剣の形になったんだから、これを「刺す」以外の用途に使うということが思いつかない。銃が手元にあるんだったらぶっ放さなきゃダメなんだよ」
 俺は少女の腕を振り払い剣をまた突き立てようとするが、また腕をホールドされる。しかし、気のせいか、とうか、明らかにさっきと比べてその力が弱くなってきているのがわかる。
「さっさと離しなよ。どう考えてもこの場にとどまり続けてたら危ないからさっさと済ませたい」
「だから、お母さんを刺すことなんて、これ以上看過できるわけないって、言ってるじゃないですか」
「でもきみのお母さん一言もしゃべったりしないよ」
 川下のほうに目をやると黒煙がもうもうと立ち込めておりもはやなんにも視認することができない。洞窟もこのままいけば生き埋めになること必至である。俺と少女はこのような危なっかしい環境下でもつれ合ってるんだか絡み合ってるんだかよくわからない状態のまんまである。傍目から見ればバカ丸出しであることはおそらくそうだろう。普通、こんなところで押し問答なんかをやったりなんてしないのだが、おそらく彼女はそんなことは念頭にみじんもない。すでになにかが「はじまって」しまったあとのようだし、おそらく彼女も何らかの引き返せない境地までやってきてしまった自覚があるのだろうと思う。
「というか思うんだけどさ」
 俺は彼女の身体をゆっくりと俺の身から引き離して言う。彼女は特に抵抗するようなこともなく、おとなしく引き下がる、というかなんか抵抗する気力自体ないのかもしれなかった。
「きみって、きみのお母さんと本当に瓜二つみたいな容貌をしているよね。髪の毛やまつげの色以外、全部同じ。そりゃまあもちろん綺麗だとは思うけど、きみ自身はそれについてどう思っているのかな?」
 少女はずっとだまりこくったままだったし、これ以上のやりとりは意味がないだろうと判断する。剣を刺す作業の邪魔にさえならなければそれでよかった。まあ別になんでもいいけどさ、と俺は剣をがつがつと突き立て続けていると突然ダムが決壊したかのように水がどばりと入ってきた。まともに水をくらって少し跳ね飛ばされたりするが、まあ問題はない。このままいくと案外もう少しで完全に外に出ることができるようになりそうな気がする。と思ったらそこから壁全体に亀裂が走り、あっちゅまに壁全体が粉々に砕け散って水没した。あっけないと俺も思う。普通だったら俺も、少女も、巻き込まれたらひとたまりもなく水圧で圧死しそうな大惨事だったわけだが、そこはなんの因果かは知らないが俺はごくごく普通に浜辺まで泳ぎ着き生還することができた。脇腹に少女の身体を抱え、中学のころ水泳部でしごかれたおかげもあり、マグロのような死に物狂いで泳いだのである。担任は水泳部の顧問ではなかったが学生時代に水泳部で、それで俺は彼にかなり気に入られていたような節がある。
 流石の俺も疲れたのだが、隣の少女に目をやると完全に気絶しており、おい! 大丈夫かよ! と頬をぱしぱしぱしぱし叩いてみても全く反応がない。これは、もしかして、と思い息をしているのかどうか確認してみるがなんと呼吸が止まっている。というかそもそも「翼」がいつの間にか消え失せており、もはや水浸しのなってピクリとも動かなくなっている少女は髪の色も「黒」に戻っている。こうなると彼女はただの人であることは間違いなかったし、そしてただの人であるからにはおぼれ死んだとしても何ら不可思議なことではないはずなのである。俺は人工呼吸を開始するのだが、どれだけ必死こいてやったところで一向に目を覚ます気配がない。なんだかとてつもなく大きな浮き輪を顔面真っ赤にしながら膨らませているみたいな感じである。肺活量にだけは自信があったのだが、それと人工呼吸とでは直接関係がないようである。ドラえもんの歌のリズム、ドラえもんの歌のリズム、とぶつぶつ口の中で唱えながら心臓マッサージとかを一通り試し、ようやくだが、かすかに少女は呼吸を始めるのを確認できる。かすかだがすぴー、すぴーと小学生みたいにのんきな寝息を書いているように聞こえてしまい、俺は自分でも現状とのアンバランスに思える発想に自分で面食らう。
「なんとかなったみたいだな」
 声をかけられて顔を上げると目の前に担任が立っている。丸太のような腕を組み、毎朝研磨しているのではないかと思えるような白い歯を見せて笑っているが、なんでそんな俺のメンターみたいなポジションを取っているのか普通に疑問ではある。担任はもう少し中学時代は機嫌が悪くてキレ散らかしたりして、全般的に神経質で湯沸かし器みたいなイメージがあったのだが、この場にいる担任に関してはその面影を全く感じさせない爽やかなスポーツマンのイデアのようだった。
「それでその女の子が目を覚ますのも時間の問題だよ」
「先生ってどこまでご存知だったんですか?」
「なんの話?」
「全部。あの海の中に巨大な女がいたことも、そのなかに白い女の子がいたことも。全部、です」
「そんなこと聞くのは野暮だからやめときな」
 担任はすん、と鼻を啜ってからどうということはないといったふうにそんなことを言う。というか、担任っていま、どこで、何やってるんだっけ? と根本的なところで俺はかなり疑問が引っかかっている。当時の同級生らで連絡をとっているやつはいない。そもそも目の前の男の実在そのものがだいぶ不審なもののように思えてならなくなってきた。
「そんなことよりその女の子、そのままそこにほったらかしてたら風邪ひいちゃうぜ。ちゃんと毛布とかかけなきゃダメだからな」
 いやでも、毛布とかそんな気の利いたもの近くにないし……とか思ってると、じゃあ俺は行くから、と担任はまたじゃぶじゃぶじょぶじょぶと海の中をかき分けて入っていった。
「……竜宮城にでも帰るんですかぁ!?」
 と、俺が大声で呼びかけると、担任は片手をあげたように見えたのだが、その時点でだいぶ沖合のほうにいてしまっていたのでわからない。
 俺は少女と二人で浜辺に取り残される。少女の顔を覗き込んでみるとすやすやと瞼を閉じ、無垢な表情で寝入っている。こういう場合起こしたりしちゃだめだよな、なんて考えてみる。というかそうだ毛布、代わりに砂で埋めるとかしたほうがいいのか……? それだとなんか絵面が呑気すぎる、と唐突に彼女は目を覚ます。
「ようやく目を覚ましたみたいだな」
 俺は言う。少女はしばらくぱち、ぱち、ぱち、ぱちと瞬きを繰り返し「真顔」だ。十秒くらいフリーズしてから、むくりとおもむろに起き上がる。なんだか極めて機械的な動きだった。少女はしばらく、海の向こう側、あの消え失せてしまった「お母さん」のあった地点のほうに視線を投げている、のだと思う。いや、しかし、この様子から察するに、そういうことはあまり意識しているようには思えず、起きたら目の前に海が広がっていたから、ただ海を眺めているだけ、という感じなのかもしれない。海は兎にも角にもスケールが圧倒的なのだ。誰もが海を初めて目にした時、たいがい同じような反応をするのではないだろうか、なんていうふうにぼんやり考える。しばらく声をかけずにいたほうがいいかもしれない、と俺は思う。
「ちょっといいですか?」
 と、意外にも少女のほうから口火を切った。
「……うん?」
「向こうです」
 少女は指さす。
「見えますか?」
 言われてみて俺も海の方に目をやる。なにやら一部だけ黒い、不定形の何かがそこにある。一部だけ海水の色が変化しているだけか? と思ったのだが、何やら徐々にその領域を拡大させており、単純に何か「魚の大群」かなにかがそこにいるかのように見えなくもない。なんだあれは、担任が海の中でお魚さんたちと遊んでいるのか?
「魚じゃないのか?」
「違います」
 少女は断言する。この様子だと何かをすでに了解しているふうに見える。
「あれは、お母さんです」
「……え」
 冷や汗が流れた。俺の直感的な行動のおかげで、「お母さん」は粉砕できたはずだと考えていたのだが、少女を見る限りではそんなこともないらしい。
「いや、きみのお母さんはもう消えちゃったよ。きみがお母さんのことを大切に思っていることはよくわかるけど、あの様子だと俺の行動にも一定の説得力を感じてくれていたのも確かなはずだろ?」
「それはそうです。むしろ貴方には感謝しています」
「そりゃ……どうも」
「ですけど、お母さんの身体の構造として、一度破壊しても個々の部分からまた新たに再生するという性質があります」
 初耳である。俺は海のほうへともう一度目をやるが、魚の大群はさらに大きく、というかもう浜辺のすぐ近くまで濁流のように渦を巻きながら押し寄せてくるのが見える。担任はどうなったのだろう、と頭の片隅をちらついたが、もはやそんな心配をしている余力は俺たちに残されていそうにない。俺は少女の手首をとる。
「なんかわからんけど、逃げたほうが良さそうなのは確かそうだよな」
「そうですね。ありがとうございます」
 とりあえず二人でまた浜辺をダッシュする。なんだかずっと昔から、生まれてから走ってばかりな気がする。後ろからぶしゃあああああんとものすごい水飛沫の音がして全身の鳥肌が立って仕方がない。確実に逃げられるかどうかという懸念はもはや頭に浮かばないというか、もはやほとんど死にたくない死にたくない死にたくないということで、頭の中がいっぱいに埋め尽くされている。
 全力で走る筋肉の緊張した足の感覚だけになったような気がする。視界の一面が真っ暗になったような気がする。なんかもう何もわからなくなってきた……もう、もう、なんのために逃げているのかも、どこから逃げているのかも、何から逃げているのかも、もはや一つもわからなくなってきた気がするが、しかしそれは流石に気がするだけであり彼女の手首の感覚だけは確かに感じる。
 信じなよ、と担任の声が聞こえてくる。助かることを信じなよ、と彼は繰り返す。確かにそうかもな、と俺は思い、強烈に肺の中に息を取り込んでふくらはぎと、大腿部と、腰と背中と横隔膜へ酸素を送り込むことを意識する。







 
 
 





 

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