国語について書くなどしてみたい
みなさん、おつかれさまです。くろみどり先生です。
いよいよ暑くなってきましたね。
私はとんでもなく暑がりなので、なんかもうすでに溶けそうになっています。
今からこんなんで大丈夫かなー。まだ6月よ。
ようし、アイス食べよう。
えっと、今月もなんとか投稿することができました。これで3か月連続投稿です。
これまでふたつ記事を書きましたが、ありがたいことにたくさんの方が読んでくださったみたいです。本当に嬉しいです。
そればかりかスキやフォロー、コメントまでしてくださる方もいらっしゃいました。
今月投稿できたのも、そんなみなさんのおかげです。
こんな私の記事を読んでくださって、ありがとうございます。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
さてさて、今回は国語という教科について書いてみたいと思います。
先に申し上げておきますと、この記事は学習指導要領等に基づくような学術的に根拠のあるものではありません。
私はまだ経験も知識も浅い、ぺーぺーの若造です。
そんな私が普段国語を教える上で心がけていることというか、心構えというか、そんな感じのものを備忘録的に書いてまとめたものです。
諸先輩方や友人たちからの受け売りの部分も多いです。
あと、大変な長文です。若干のネタバレもあります。
大変恐縮なのですが、みなさんにはそれを念頭に置いていただき、ゆるゆると読んでいただければ、と思います。
まずは、国語という教科の魅力について。
よく、生徒に訊かれます。
「日本語で会話して生活できているのに、なぜわざわざ国語を勉強しなきゃいけないんですか?」
みなさんの中にも、同じような疑問をもった方がいらっしゃるかもしれませんね。
その答えとして、私は、「他者の人生・意見に触れられるから」「たくさんの言葉に出会えるから」だと思っています。
それ読書でいいじゃん!って思われた方、もう少々お待ちを。
国語の教科書を読むと、その文章から、登場人物の生き様や筆者からのメッセージなどを読み取ることができます。
この登場人物や筆者が「他者」です。
前回の読書の記事でも書きましたが、文章を読むことで、自分と遠いところにいる人(境遇や価値観が違う人)のことを理解・想像できるようになる、と考えています。
諸説ありますが、教科書に載っている作品って、厳選された、よくできているものが多いと思います。
そして、普段あまり読書をしないという生徒であっても、そのような作品に触れる機会が与えられるということでもあります。
文学的文章でいうと、例えばみなさんご存じ太宰治の『走れメロス』は、多様な読みができる作品です。
「友情のため命をかけて困難に立ち向かう物語」と読む生徒がいれば、「正義に酔って独り善がりに暴走する物語」と読む生徒もいるでしょう。
説明的文章なら、筆者の意見を読み取ることで、新しい知見を得る生徒がいれば、筆者と反対の意見をもつ生徒もいるわけです。
分野は多岐に渡りますが、自分がこれまでの日常生活で全く触れてこなかった情報に触れ、刺激を受けることもあるはず。
加えて、読むだけなら読書と同じですが、国語の授業では、自分なりに感想・意見を言葉にして、クラスメイトという「他者」と共有する活動をします。
その際に、伝える相手のことを想像して意識的に言葉を選び、わかりやすく説明しようとがんばる。
聞く方は聞く方で、相手が何を伝えたいのかを想像し、必要に応じて質問をしながら理解しようとがんばる。
これらの活動もできるという点が、まさに国語ならではの魅力といえるでしょう。
そして、紙面で同じことを行う代表例が、読書感想文です。
苦手だわーという方もいらっしゃると思いますが、こういう作業って、大人になっても仕事や趣味の世界で多くの方がやっていることだと思うんです。
おそらく、いろんな業界・業種において、例えば書類やメールなどで長文を読む/書くという業務は、士郎正宗さんの『攻殻機動隊』みたいな世界にならない限り無くならないでしょう。
(脱線しますが、なぜかある時代より前の作家・偉人に「さん」をつけると逆に失礼な感じがするんですが、私だけでしょうか…「太宰治さん」とか…)
他者のことを想像し、他者にとってわかりやすい文章を書く力は、絶対に必要なのです。
人間って他者のことを想像できなくなったとき、何か悪いものに流されちゃったりしますからね。
私も精進しなきゃです。
ということで、感想や意見を文章にして共有する行為は、優しさを鍛える行為でもあるわけです。
文章、それを読むこと、伝え合うことには、必ず他者がいる。
その他者に触れられることが、国語の魅力のひとつだと思います。
さて、角度を変えて、言語的な観点で言えば、「よくわからんけどこの表現、しっとりしてて好き」とか、「この言い回し、大人っぽくてかっこいい」とか、言葉たちとの出会いも多いです。
人生の格言に出会えた!なんて人もきっといらっしゃるでしょう。
言葉ひとつで考え方、もっといえば人生が変わることってありますからね。
この「言葉たちとの出会い」が増えるところも、国語の魅力だと思うんです。
私は、夏目漱石の『こころ』が読むのも語るのも大好きなんですが、そうなったきっかけは高校の授業でした。
高校生時代、授業で『こころ』を読んだときのことです。
文章全体に横たわる「死の匂い」が大好きになり、全文読みたいと思いたって本屋さんに向かった記憶があります。
もしその時、連載当時の時事まで詳しく勉強していれば、さらに深い読みができたはずなのですが…まあそれは置いておいて。
とりあえず過去の私はその「死の匂いがする言葉たち」にひたるだけで十分でした。
本当にいい出会いだったと思います。
話を戻しまして、私は、人間の思考と言語とは強い結びつきがあると考えています。
昔読んだジョージ・オーウェルの『1984年』では、超ざっくりいうと、独裁者が国民の思考を縛るために、政府にとって都合の悪い単語を制限してしまいます。
思考を深めるためには語彙を増やさなければならない、と読後に感じました。
極端な話、「美しい」という単語しか知らない人と、「清らか」「麗らか」「艶やか」「雅やか」「煌びやか」といった単語を知っている人とでは、何かものを見たときの感じ方さえ違ってくるような気がするのです。
ありきたりな言い方ですが、言葉を多く持っている人は、そのぶん日々の生活に彩りが多いでしょう。
国語の授業では、日々生活しているだけでは出会うことのない言葉たちに出会えるチャンスがあります。
格言とまではいかずとも、日本人として生きる上でお気に入りの日本語を見つけられるかもしれません。
このように、よりたくさんの言葉との出会いを楽しめるというところも、国語の魅力だと思います。
…うーん。散らかしながら偉そうに語ってしまいました。
またも短くまとめきることができず。
なんというか、ブーメランの気配がしてなりませんね。
「他者の人生・意見に触れられる」「たくさんの言葉に出会える」という国語の魅力が、みなさんにちょっとでも伝わっていたら幸いです。
そして今回は現代文と言語の分野に偏ってしまったので、いつか古文・漢文のことについても自分の思いをまとめてみたいと思っています。
最後に、繰り返しになりますが、いつも読んでくださっているみなさん、本当にありがとうございます。
ではでは、今月はこの辺で失礼します。ありがとうございました。
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