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阪神・淡路大震災から30年

今年もこの日がめぐってきた。
1月17日、阪神・淡路大震災が発生した日。

30年前のあの日。

進学で実家を離れていたわたしは、朝からテレビの前で茫然としていた。信じられない光景、信じたくない光景が映し出されている。
実家も親戚宅も電話は通じない。
学校にも行かず、ただただテレビを見ているしかなかった。
被害の大きさが分かってくるにつれ、見慣れた光景が全く違うものになってゆくのを認めざるを得なかった。

14時を過ぎた頃。
震える母の声で、「おばあちゃんが助からなかった…」という連絡が入った。

夜、修学旅行で家を離れていた妹から電話がかかってきて、祖母の訃報を伝えたのはわたしだった。

実家は大した被害はなかったが、父が生まれ育ち、祖父母と叔母が暮らしていた神戸市長田区の家は、両親が車で駆けつけてみると瓦礫と化していた。
それでも、中で3人は生きていて声が聞こえていたそうだ。

通りがかった人たちの協力を得て叔母を助けてもらい、祖父を助けてもらい、次は祖母という時に…瓦礫に火がついてしまった。
他人を巻き込むわけにはいかないと、父は声を絞り出した。

「離れてください!」

それからすぐに家は炎に包まれた。
4人は、ただ祖母と家が燃えてゆくのを見届けるしかなかった。

マンションの横、赤い点が燃えてしまった祖父母宅

翌日見つかった祖母は、ティッシュペーパーの箱に半分くらいの量の骨の欠片になるまで焼けてしまっていた。

それから父の日課は朝5時に起きて、仏壇をきれいにし、供え物をし、お経をあげてから出勤するところから始まった。
15回めの1.17のつどいから参加し始め、翌年以降は泊まりがけでボランティアとして朝の4時に東遊園地へ行くようになった。
竹の灯籠一本一本にろうそくを浮かべ、火を灯してゆく。その時が、亡き祖母といちばん近づける感じがすると語っていた。
わたしも20回めのつどいからは父と同行し、ボランティアをさせていただいた。

7年前、1月17日から18日に日付が変わる直前に父は亡くなった。わたしたち家族は、祖母が迎えにきたのだと思った。

今は1.17のつどいには行かず、「その時」を家で迎えている。

今日も地震発生の時間より早起きしてテレビをつける。黙祷の時間が近づいてくる。
テレビに映る会場に流れる時報が5時46分を告げた。

「黙祷」

様々な場所で、様々なかたちで祈りを捧げる人たちの胸に去来するものは人それぞれ…

時間が解決してくれることがある。
時間が経っても解決しないことがある。

がんばれない時は、がんばらなくていい。
前を向けないときは、前を向かなくていい。
大切なのはあなたのペース。
できる時が来たら、繋いでいきましょう。
繋がっていきましょう。

全国で続発する災害の犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。

被災された方々が少しでも早く心穏やかに生活できる日が来ることを願っています。

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