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若きウェルテルの悩み(ゲーテ)読了

先月あたりに読み終えた本。レビューを書こうと思いつつ、ながらく放置していた。じつを言うと、初読ではなく、学生時代に何回か読んでからの再読という形。再読しながら「こんなんだったかあ」とぼんやり思いつつ、初読とはまた違った感じを抱いた。ウェルテルの精神性に近かった悩み深き頃と、社会人になっていろいろブレイクスルーを経験し青春を終えた今では、この小説に対する捉え方が変わっていることに気づく。

青年期はおうおうにして感受性が強い時代。けれども、この作品に登場する主人公ウェルテルは、そのなかでも人一倍感じやすい(「神経過敏」と自覚しているくらい)青年だ。自然の美しさのなかに神の存在を感じ、幼きもの、弱きものへの思いやりを持ち感情移入をしやすい。そんなウェルテルが恋に落ちる。どんなときでも健気に明るくふるまうロッテだ。しかし、この恋はウェルテルを深く悩ませる。ロッテには、すでに婚約者がいた。

ロッテの婚約者は、ウェルテルと真逆の人物。現実的で理性的な紳士、アルベルト。しかし、やや冷淡なところがあり、ウェルテルは物語の後半になるとアルベルトには「感受性に欠陥」がある、と非難している。ウェルテルとロッテが感動するような本の一文に触れても、アルベルトは何も感じない。共鳴しない。だからウェルテルは、「アルベルトはロッテを幸せにできない」と友人との手紙のやりとりのなかで断定する。

作品で明かされている「ウェルテルの悩み」は、ほとんど友人との手紙のやりとりのなかの言葉だ。この小説は「書簡体」という形式をとっている。読んでいくうちに、ウェルテルがほんとうは友人ではなく、読者に向かって悩みを打ち明けている、ように感じられるかもしれない。

前半部分はアルベルトの存在があっても、ウェルテルはロッテの前でひどく気持ちを乱してはいなかった。が、ウェルテルとアルベルトとの会話で、ウェルテルの自死に対する考え、自死を選択した者への肩入れを感じる場面がある。

アルベルトの「自殺は弱さにすぎない」という言い分に、ウェルテルは「弱さが問題なのではない」と反論する。

人間の本性には限界というものがある。喜びにしろ、悲しみにしろ、苦しみにしろ、ある限度までは我慢がなるが、そいつを越えると人間はたちまち破滅してしまう。だからこの場合は強いか弱いかが問題じゃなくて、自分の苦しみの限度を持ちこたえることができるかどうかが問題なのだ。

苦しみの限度を越して自死を選ぶものを「弱さだ」と切り捨てるのは、悪い病気にかかって亡くなる人間を「弱いからだ」と評すのと同じくらい卑怯なことだ、とウェルテルは訴える。

ここらへん、現代社会でも通ずるところがあるな、と思ったり。自死を推奨するわけではないけども、その人の苦悩を知らずに、誰かが非難する権利などあるのだろうか。

さらに別の個所の引用を続けると、ウェルテルはこんなことも書いている。

ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。

苦悩の底についたとき、周りの人が幸せそうに見える。自分よりも多く何かを持っている――家族・友人・恋人・お金・学歴・仕事・肩書etc. だから周囲は自分よりも楽に生きているように思える。

そんなふうに思うけれども、わたしは周りの人を詳細に知らないし、周りの人がほんとうに幸せを感じているかもわからない。名前の知らない「幸せな人」を、不幸であるわたしはつくりあげてしまう。

一気に様相が変わるのは後半から。ウェルテルは手に入れられないもの、受け入れてくれないもの、それらに対する感情に翻弄され、次第に正気を失っていく。ウェルテルが最後に選んだものは、アルベルトの銃だった。

この作品は、自殺擁護にとらえられて非難された、ということをどこかの情報で知った。ネットのレビューを見ても、ウェルテルを好きになれない人も多い。ウェルテルはあまりに感情にウェイトを置きすぎるし、思考が偏っている感も否めない。

けれども、苦悩の渦中にいるさなかに合理的な判断を下せるわけもない。苦しみは苦しい。過ぎていった遠い過去や近い過去のあいだをぐるぐる行き来している。虚心に現在や未来だけを見て生きていく、なんて力は出ない。タイトルの「若きウェルテルの悩み」のとおり、この作品は誰かの助言や手などでは動かしようもない、若き青年ウェルテルの「悩み」を忠実に描き切ったものだと思った。

最後に誰かに非難される社会でも、ウェルテルが自分のなかで大事にしていたことを引用したい。それはウェルテルの才能や若さや知性とかではなかった。

それに公爵はぼくの心よりも、ぼくの理知や才能のほうを高く評価しているんだが、このぼくの心こそはぼくの唯一の誇りなのであって、これこそいっさいの根源、すべての力、すべての幸福、それからすべての悲惨の根源なんだ。ぼくの知っていることなんか、誰にだって知ることのできるものなんだ。ーーぼくの心、こいつはぼくだけが持っているものなのだ。







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