意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス) 単行本 – 2012/4/6
人と向き合う仕事をしていると、なんとも説明しがたい行動を目撃することがしばしばあります。これは他人事としての話ではなく、自分自身についても、理にかなわない判断や行動を起こして自ら当惑することも含んでいます。ダイエットしたいと強く思っているのになぜ我慢できずに夜中にポテトチップスを食べちゃうの? といった軽めの例から、戦争とかで殺し合った先にどんなポジティブな未来があるの? といったバカ過ぎて息の詰まる例まで。人間だもの~と流して生きていくしかないこともあるし、たいていはそんなことを突き詰めて考える必要はないかもしれません。でも、敢えてそこへ突っ込んでいった先に、重大な秘密が隠されているような気がしています。
本書は、人間の意識について扱っています。私たちが「自分」だと思っている「私」って、人間の個体としての私にどれだけ影響力を持っているの? というテーマについて深く考えるための示唆を与えてくれます。一般には、「意識のある私」が自分の身体を司っていると考えます。のどが渇いたので目の前にある水の入ったグラスを手に取って口へ持っていく。これは私の意思決定です。昼ごはんをラーメンにするかカレーライスにするかを決めるのも私です。だから、私の手も足も、脳も心臓も、すべて私のものだし、私の命令によって動いてくれる。つまり、私は私の身体の主人であると思っています。
朝起きて、昼間のさまざま活動では、仕事に集中したり、人と会話を楽しんだり、好物を選んで食べたり、新聞のニュースに憤ったり、その他いろいろ…。そして一日を終えて就寝。今日も私は、「私の」頭と身体を使い、都度出くわす状況に対して自らの意思によって判断し、動き、対応しました。この「私の」自意識のおかげで、今日という一日を無事に暮らすことができました…。
「でも、ホントそうか?」
その先を考えるに当たって示唆をくれるのが本書です。ひとつ引用するなら、「私たちは自分自身の中心ではなく、銀河系中の地球や、宇宙のなかの銀河系と同じように、遠いはずれのほうにいて、起こっていることをほとんど知らない」という一文がよさそうです。つまり、私たちの意識は、私という人間としての個体にとっての中心的存在ではないということを言っています。…あれ? どっかで聞き覚えのある話が混ざっている?
連想したのは16世紀のコペルニクス。天動説から地動説へと人の認識が変わっていくのですが、その後「それでも地球は回っている」というガリレオ・ガリレイの言葉はあまりにも有名ですね。「え! 俺たちは主役じゃなかったの?」というのは当時の人たちにとってはあまりにショックであり、そのせいで大勢が火炙りになるほどだったとか。似たような話は19世紀にもあって、それがダーウィンの進化論。地球上で人間は特別な存在じゃなかったという説に、またも人間中心の世界観を打ち砕かれることになります。そして、いよいよ21世紀では、意識を司る「私」が、人間としての一個体である私の中心ではないということが明らかに?!
「えーっ、とうとう俺自身すら、この身体の中心的存在ではなかったのか!」
ということで3度目のショック状態へ時代が突入していきます。またも主役の座から引きずり降ろされるわけですが、よく考えてみると、過去の例から学べば、しっかり事実を受け入れて物事を考え直した先に、次の時代が待っているということがわかります。決して自虐的になる必要はなく、むしろ未来に向けた新たな展望を語り始める幕開けになるのです。
やっぱりちょっとショックだけど「俺たちは主役じゃなかった」ということを認めることで、冒頭で持ち出した理解困難なモヤモヤも、案外説明できちゃうことがいくつも出てくるように思うのです。天動説のままだったら、人類の月面着陸はおそらく不可能だったでしょう。多くの人たちが事実を認めて常識化された頃、ようやく私たちにとってさらに先のステージへ進む展望が拓かれるのではないでしょうか。思い切っていったん自我を脇に置き、みんなで新しい自分たちと向き合う勇気が得られたらよいなと思いました。
(おわり)
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