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思いがけない喜びの日に。

一度だけでいい。ほめてほしい。一度だけ褒めてくれたら、これまでのすべてが報われて、これからの生活もがんばれる気がするから。だから一度だけ、どうか褒めてください。
二十歳のある日、塾のバイトから帰り、跪いて母に懇願した。教え子たちの未来ばかり開ける春の厳しい寒さに耐えかねていた。一日だけでも殴らないでいてくれたらとか、一日だけでも罵らないでいてくれたらといった具体的な頼みは却下されて久しい。愛されたかったがそれも私の「人を不快にさせる性質」のせいで叶わなかったのもよく知っている。
だったらせめて、嘘でもいい、褒めてくれたら、疲弊し磨耗した精神でも、かりそめの安らぎを獲得できるかも知れない。一抹の希望を込めたお願いだった。
「どうか」
くどい懇願の果て、頬を引っ叩かれた。床に倒れた私の脛を母は車椅子で轢いていく。高らかな笑い声が響く。
「もっと稼げるようになってから言いなさい」
当時の私のアルバイトでは月収20万円がいいところだった。なにせ切り売りできる時間には限りがある。
夜は30分ごとに母の寝返りを打たせ、朝夕は足を2時間マッサージ。服薬も導尿もおむつ替えも、入浴準備も全介助も、認知症で暴れる元気な祖母に殴りつけられながらこなす生活で、社会に差し出せるのは夕刻と夜中の細切れな時間だけだ。
日暮れる頃に3時間。教育にお金をかけてもらっている奇跡のような子どもたちに、教育に一円もかけられなかった私が優しく親切にこくごを教える。塾の子どもたちは皆優しく、賢く、人間のよいところを存分に備えているように見えて私は好きだった。
そんな真剣な眼差しの子たちに僻まないよう努めながら、ごくごく簡単なことを平易に解説し、時間がくればお疲れ様でしたと機械的に退室する。一度家に帰り母のおむつを替え、祖母の濡れたズボンを殴られながら替える。日に何度目かの洗濯機を回し、夜半また3時間外へ出る。大型古書店に次々持ち込まれる不要な本をいらっしゃいませェと叫びながら算定し、ありがとうございましたァと叫びながらヤスリをかけて本棚に並べる。私のように教育にお金をかけられなかった17歳と、勉強の意味がわからないという18歳と、インドに旅行してなにもかも悟ったという26歳の店長と声を張り上げ店を盛り上げる。おつかれっしたァとデカい声で別れ自転車を飛ばして帰宅する。浴槽に湯を張り洗濯物を干し、暴れ叫ぶ母と祖母を順番に風呂に入れる。合間に二人は掴み合いの喧嘩をするから仲裁する。私だけ顔にケガをする。床をなにかの虫が這って行くが、そんなのもうどうでもいいくらい疲れている。思い至る。ああ、母の言うとおりだ。私の日常には、確かに偉業も栄光もない。私は褒められるような利益を生み出すことも一生ない。生涯、時間を切り売りし、体力を介護に捧げて死んで行く。ほめられたいなんて身の丈に合わない願望、どうして抱いてしまったんだろう。
息を潜めるつもりはなかったが、ここにいますと宣言することもないまま時が流れた。
痛みと苦しみと悪意と悪臭とに満ちた生活での心の支えは「書くこと」だった。母に寝返りを打たせてから次にまた寝返りを打たせるまでの30分間、思うことを書き連ねていれば多少気が紛れた。紙の上では何をしても大丈夫だった。幸いなことに、塾のバイトは小学生のちびた鉛筆や使い終わったノートをいくらでも譲り受けることができた。子どもたちの通り過ぎた道に、どこにも逃げられない私の思惟を叩きつける。誰かに見せるかのように真剣に推敲するのは楽しかった。書くことは生きる楽しみだった。
緩やかに母たちと心中するような暮らしは、しかしある日突然終わることとなった。私が、自分には逃げ出すという選択肢があると気づいてしまった瞬間に。
私が介護を放棄したので、一族は私を残して死に絶えた。私は本当の自由を得た。かくも容易に滅びる地獄を丁寧に守り続けてきた自分の愚かさが呪わしかった。
この地平のどこにも私を悪夢に縛りつけた奴らはいない。最高。私はなんでもできる。
でも、と思った。
ほんとうに一度も誰にも、ほめられないままだったなあ。
気づいたらなんだか悲しくなった。ほめられるようなことをしてないのに、ほめられたいと思う自分も情けなかった。生存のためにアドラー心理学を必要以上にマスターしてしまい、「他人の評価に意味はない」と断じているのに、「それでも誰かに一度くらい、ほめてもらおうとしたっていいじゃん」と私の中の幼い子どもが切望する。その声は日増しに肥大していく。
何にも誇れるものはない。書くくらいしかできない。書いたら褒めてくれる人はいるだろうか。ネットサーフィンで、善良な人たちによる善良なエッセイの公募を見つけた。善良な人たちのする公募だから、私の非礼を許してくれるのではと、甘えが出た。もしかしたら、ご応募ありがとうまた来年も書いてねなんて優しい言葉をかけてくれるかも知れない。幼稚な期待でエッセイを書き、お目汚しすみませんと内心謝りながら送信ボタンを押下した。
結果、褒められた。

↑たからものになるものももらった

遠く憧れていた方に、すごく褒められてしまった。
私の知らないところで私の書いたものが褒めてもらえていたという体験、目の前で書いたものの一部を朗読されるという体験は、まるで私の書いたものの話をされているようで(実際そうなんだけど現実味がない)、気恥ずかしく、初めて抱く感情に包まれた。なんだろうこれ、この感情はなんていうんだろう。温かくて喜ばしくて、顔だけ37.8℃くらいの、手放しに誇らしいこの気持ち。
……みにあまるえいよ?
そうだ、みにあまるえいよ。
こんなことでもなければ一生味わうことなどなかったであろう感情。
めちゃくちゃ嬉しい。好きなひとにほめられるってあったかいんだ。やっぱり予想していた通りだった。
拍手を送るために出席したつもりの授賞式は、「『決してほめてくれることのなかった母との苦い思い出話』で雲の上の存在である作家先生に褒められる」というアイロニックな状況になった。それはなんだか可笑しく、同時にあの家族の致命的なダメさが痛感できてしまって、正と負の感情が入り乱れっぱなしで、あぶら汗が止まらなかった。
でも生まれて初めて授けてもらったえいよで、私の損壊した自尊心の大部分が嘘のように回復した。なんか元気。すごく元気でてしまった。
そんな驚くばかりの恵みなりき状態なのに、さらに追いかけでアマゾンギフトまで贈っていただくというこの世的な恵みが上乗せされた。善良な人たちの善良な組織は、さすが器が違う。罪しかない私はひれ伏したくなる。その善良さに倣うことに疑問など抱きようもない。彼らならどうするだろうと勝手に想像し、勝手に乳児院にジューイチケンキンした。

右手の仕事を左手にもバラしていくスタイル

今回の経験で、過去の苦労が報われた、みたいには思わないけれど、行きたかった学校や進みたかった道への無念や残念は、スゥーッと成仏した気がする。
だってなにより光栄なことじゃない、書いたものを読んでもらって評してもらって、賞まで賜るなんて。
『文字を綴る旅に出よう』の誘いに乗って本当によかった。いい旅に踏み出すことができた。補陀落渡海の人生が急に地球クルーズになった感じ。
うん。なんだかとても楽しい。


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ビワシュ
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