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シリーズ「コロナ禍と認知」その6:なぜ人は、何かを信じてしまうのか? --吉本隆明「共同幻想論」とSNSコミュニティ-- 前半

 「なぜ人は、何かを信じてしまうのか?」という問いは、ここ数年の私の主要な関心の一つです。人が他者とコミュニケーションを行ううえで「自分ではない何かを信じる」ということは、生きていく大切な支えであるとともに、人生における何か危険なトラップでもあるという感覚をここ数年ずっと持ち続けています。そんなときにNHKがシリーズで出している「100分DE名著」の「吉本隆明 『共同幻想論』」を読みました。おそらく原著は私には難解すぎると思うので(多くの偉い思想家の名著は私にとって難解すぎます)このシリーズはわかりやすくてとても気に入っています。そしてはじめてこの本の主要なテーマがまさに「なぜ人は、何かを信じてしまうのか?」というものであったことを知り、大きな興奮を覚えています。そして、「共同幻想論」で展開されていた論旨が、ここ数年私がおぼろげに考えていたこととどうやら一致しているようだと理解しうれしくなりました(まさにこれも共同幻想かもしれませんが)。

 「共同幻想」についての説明をWikipediaから以下抜粋します。

”人間は、詩や文学を創るように、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題である”(ウィキペディアより)

  人間が生きるうえで「共同幻想」から独立して生きることはほぼできないと思います。吉本さんは「共同幻想論」において、ある特定の偏った信念だけではなく、あらゆる宗教や国家、さらには「死」のイメージも同じように「共同幻想」の産物であると指摘しています。私は大いに賛成します。極端に言えば、ピタゴラスの定理やニュートンの万有引力の法則もまた共同幻想かもしれません。

 ヘルスケアの世界は、かなり強靭な「共同幻想」によって成立している世界です。なぜなら、ヘルスケアにおいて人が「信じる」対象となるものは「科学」の衣を常にまとっているからです。「科学的に正しい」という発光体は、市井で生活する人々にとっても、政治家にとっても、行政官にとっても、そして科学者自身にとっても強烈にまぶしい光を発します。そして、その光は目の前にあるものを「信じる」強い効能を持っています。

 新型コロナウィルス感染症にまつわる様々な共同幻想が存在します。そして、その共同幻想はしばしば広く拡大し、しばしばエネルギーを増大させていきます。共同幻想の陣地とり合戦のような状況がおきています。たとえば「もう日本人は免疫を獲得している。コロナはもはや風邪。自粛生活は無駄」という考え方を発し、同調するコミュニティが育ちつつあります。一方で「いまは完全に第二波。いま徹底的に抑え込まないと国が破たんする」という考え方も一定の支持とともに存在しています。私もこれらの考え方を横目で見ながら、自分は隔てられたER(救急外来)のビニールカーテンのために仕事が進まんなあと思いながら毎日を送っているわけです。いろいろな共同幻想に適度に巻き取られつつ、いろいろ出てくる「真実」や「正しさ」にたいして「いい加減」に反応していたいなあと思っています。ただ、共同幻想が強くなり、拡散してくると、社会全体としてはそのような「いい加減」な態度でいる人間を許容しなくなっていきます。私は人間個人は共同幻想から逃れることができないし、だからこそ人間は自分を保って生活できる面があると思っていますが、一方で自分自身に介入してくる共同幻想となるべく距離を置きたいという気持ちもあります。

 もう一つ、吉本さんが「共同幻想論」で提示している「関係の絶対性」は、この「共同幻想」および今回の「コロナ禍」における私たちの認識を理解する上でとても重要なコンセプトだと感じました。「関係の絶対性」についての私のつたない理解を簡潔に言うなら、人は他者との関係性の中においてしか物事を解釈したり価値づけしたりできない、ということだと思います。これには、肯定的な意味と否定的な意味の両者があります。肯定的な意味としては、ある事象の「正しさ」を見つめ理解するとき、人は他者からの承認や共感なしにはそれを確かめることができない、という側面であり、否定的な意味としては、コミュニティによって同調された理解や価値観は個人の独立した理解を曇らせ、さらには異なる理解に対する排他や断絶を生む構造の中でしか人は理解ができない、ということだと思います。

 「関係の絶対性」について強く実感するのはSNSの現場です。SNSにおいて行われるコミュニケーションはまさに「関係の絶対性」の法則に準拠しています。面白いのは異なるSNSコミュニティにおいて、この「共同幻想」がどのように働いていくのかが異なるということです。極端な対比はFacebookとTwitterだと思います。ざっくりいうと、

Facebook: 共同幻想が強固なものになっていく
Twitter: 共同幻想が無尽蔵に広がっていく

というイメージです。

 例えば、私は自分自身のFacebookしか知らないので実際に比較はしていないのですが、スレッドを見る限り、ほとんどの「友だち」がコロナ禍における現状の把握の仕方や、これからコミュニティ、あるいは地方自治体が行うべき行動に対する意見について同じようなことを言っています。それは、先日大阪市長が突然プロパガンダしだした「うそのようなホントの話」に対する「友だち」たちのアンチリアクションの多さや激しさを眺めながら顕著に感じたことでもあります。正直、ヘルスケアや自然科学に対しては素人の政治家・行政者があのような理解をし、あまりの興奮にプロパガンダしてしまうことについて私はほとんど違和感を感じなかった(ていうか、どーでもいい話)のですが、医学の徒であるわたしの「友だち」たちの多くにとっては許容の範囲を超える行動であったようです。良くも悪くもこれも「共同幻想」がなせるメカニズムなのだと思います。

 Facebookに「いいね」や「悲しいね」「大事だね」のリアクションはあっても「そうかな?」とか「Booo」などのボタンが存在していないこととも深く関係があると思います。やはり「友だちに承認される」とか「自分と同じこと考えている人がいっぱいいる」という実感は、共同幻想の強化と膨らみを支える土台だと思います。私自身にも多くの匿名の他者から承認を得たいという欲求はあります。その意味では、Yahoo!ニュースのリアクション欄にある「サムアップ」「サムダウン」の二択は、共同幻想の深まりや広がりに対してなかなか良い中和機能を持っている気がします。

 後半のテキストでは「共同幻想論」の主要テーマである「なぜ人は、何かを信じてしまうのか?」をヘルスケア情報の視点から考察したいと思います。



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