『沈黙』を読んで、長崎へ行った
人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりに碧いのです
『沈黙』という本をご存じだろうか。
遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説で、第二回谷崎潤一郎賞を受賞した、氏の代表作である。
マーティン・スコセッシが映画化したことでも有名だ。
この本を私が読んだのは、宗教に対して明るい知識を身に着けたいという思いや、日本における宗教の歪さや複雑さを知ってたいと思ったからだ。
本当に、日本というのはこと宗教に関しては変わった国である。不思議の国ニッポン。
2022年版の「信仰の自由に関する国際報告書」によると、日本人はおよそ48%が神道、46%が仏教を信仰しており、その他が5%。キリスト教はその他の内の1%しか占めない。
世界的にみると、キリスト教の信仰者が圧倒的に多く、全人口の73億に対し世界の3人に1人程度がキリスト教の信仰者だというのに、どうして日本にはこんなに少ないのだろうか。
それは、『沈黙』を読むとよく分かる。
島原の乱が収束して間もない日本が舞台である。
島原の乱は、キリスト教徒およそ37,000人が幕府軍に武力的に抵抗した大事件だ。結果的に天草四郎率いるキリスト教徒たちは、そのほとんどが全滅したと言われている。
これを受けて幕府は、さらに厳しくキリスト教を禁ずる必要があると思い立ち、かの有名な踏み絵や、残酷な拷問で以て、キリスト教から転ばせよう(改宗することを転ぶと言っていた)という取り締まりを行った。
それまでも豊臣秀吉の伴天連追放を始めとして、キリスト教徒たちは酷い仕打ち受けてきたのだが、それが一層加速・激化してしまったというわけである。
主人公は一人のポルトガル人司祭。物語は彼と長崎に潜む隠れキリシタンたちとの出会いから、彼が拷問を受け、転んでしまうまでを描く。
拷問の描写も印象的だが、私が深く考えさせられたのが、隠れキリシタンたちの信仰が、本家のそれとは違っていることを司祭が嘆くシーンである。
うがった、まがい物の神を信じているのだと描写されるのだ。
私は初めこれを読んだ時、なるほど、日本人というのは、都合よく信仰の仕方を捻じ曲げる傾向があるのか。だからハロウィンもクリスマスも祭り感覚で祝うのかと、妙に納得したのである。
しかし、それは実際に長崎を訪れて、違うのかもしれないと実感した。
こちらの写真をご覧いただきたい。
これは、長崎駅から少し離れた場所にある、辻神社という神社だ。
この神社がある、大野集落には、3つの神社があり、最も山奥にあるのがこの辻神社である。
メインの境内には、普通の神社と同じだが、そのわきにあるこの地蔵は何やら様子が違うように見える。
はっきりとした文献が残っているわけではないので、確信は持てないが、これが普通の地蔵とは異なることは明らか。
何か、キリスト教のいわれがある地蔵のように見えなくもない。キリスト教徒が身を寄せ合っているような。
さらに、門神社という神社でもそういった傾向は見られた。
神社や寺を信仰しているフリをして、実はキリスト教の祈りを捧げていたそうだ。
また、もともとこれらの神社は、自然に宿る神々を信仰する神社なのだとか。
つまり、伴天連追放を機に、司祭を失ってしまった日本人のキリシタンたちは、それでも何とか、自分たちなりに必死に神に祈りを捧げていたのである。
カモフラージュとして、神社を訪問したり、祈りの対象を自然物や身近なものにしたりしているうちに、本来のキリスト教の教えとは違った方向へ歩んでしまった、愛ゆえの誤りというか。そんなのものだったのだ。決して彼らが愚かだったわけでも、不作法だったわけでもない。そうでもしなければ、祈り続けることができなかったのである。密やかに、隠れながら、怯えながら、必死に信仰を続けたのだ。
『沈黙』が刊行された時、カトリック教会から、大変なバッシングを受けたそうだ。司祭が踏み絵を踏むなどという物語を書くとは何事かと。
しかし、それに対し遠藤はこう答えている。
『沈黙』の碑はとても美しい場所にある。
有明の海が見える絶景だ。
遠藤周作はこの碑に、こう記した。
人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです
あまりにも感慨深い。
碑の詩を詠んだ遠藤にも、現在もなお大事にこの歴史や文化遺産を守り続けている長崎の町の人にも敬意を表したい。
ここに書いたほとんどのことは、長崎にある資料館や博物館で得た知識がベースになっている。
日本の人口の1%。この数字をどう見るか。人数にすると190万人以上なのだ。
はたして僅か1%だと捉えていいものだろうか。
話は戻って、日本人というのは不思議な宗教観を持つ人種である。
正月にはほとんどの者が、神社に行くし、お盆と葬式は仏式、結婚式はクリスチャン式。その上、クリスマスもハロウィンも盛大に祝うときている。
そして、神道と仏教以外の、ある種の宗教に対しては、冷ややかだ。むしろ怒りや蔑視を見せる人すらいるといえる。
と思ったら、十字架のアクセサリーやタトゥーを、キリスト教でないのに洒落で身に着けてたりする。
長崎で、イギリス人とドイツ人と話す機会があった。彼らも、教会に行くのはクリスマスと結婚式の時くらいだと言っていた。
おそらく、世界のほとんどが、クリスマスやハロウィンは楽しいイベントなんだろう。信仰心の強い者はどんどん減ってきている。
私は、無神論者だし、それでいいと思っている。
でも、正月の神社参拝や盆踊りと同じように、クリスマスが当たり前のイベントになっているその上には、苦しんだ人々や多くの犠牲があったのかもしれないということを知っていたい。