起きる。
「おいで おいで こっち こっち」
「まって まってよ わたし わたしだよ」
ブルーグレイの毛並のかたまりが、足早に去って行く。転がるように。
必死にスカートの裾を踏まないよう掴んで、足元に注意しながら進んでも、あのコとの距離は縮まらない。また、この鬱蒼とした森の木陰に隠れてしまう。
何処?
沢から土壌の匂いを含んだ小風がふわりと吹き抜ける。深緑色の壁に囲まれた天を見上げて、言葉を暫し失う。
(もう、存在する筈がないのだから)
(あのコは、この世にいない)
何故、こんなに分かり切ったことなのに、思い出す時、こんなにも哀しくなるのだろう。頭に体が従うのか?体に頭が従うのか?そんなことが迷路をさらに複雑な形状に仕立てて行く。何度も何度も繰り返して来たでしょう。考えても考えても、如何にもならないことに区切りを付ける為に、人には思考が与えられたのかも知れないね。其れを苦しみだと思う内は、世の中は本当の姿を見せてはくれない。
(超えなさい)
トン…
足元に何かが、打つかった。慌てて振り返ると…
あのコが瞳をキラキラと輝かせながら、わたしを見上げていて、舌を出し、尻尾を千切れそうなくらいに振っていた。
「ジョン!」と思わず呼ぶか、呼び終わるか、で、ジャンプした犬が、懐に飛び込んで来た。
「わたしを覚えてる?わたしだよ。久しぶりだね。元気だった?あの別れた日を忘れていないよ。ごめんね。独りにして。新しい家では犬は飼えないって。でも全部が都合良い嘘だった。気づいた時にはジョンはもう天国に行った後だったから。あれ?え…ジョン!あなた死んだのよね?」
あたたかい体温に触れながら、頬を擦り付け、懐かしい匂いを鼻から吸い込む。うんうん、やっぱりジョンの匂いだ。
間違いない。生きている。存在している。
「沢に下りてみようか?水遊びが好きだったよね」
「ええ…」
深緑色の木々を左右に順繰りと、手をつきながら、ゆっくりと歩む。ジョンを落とさないように気をつけて、時々、立ち止まって、目と目で気持ちを通じ合う。
「ボクもあなたに会いたかったんです。ボクよりアナタの方が寂しがり屋だから。『ウサギはさみしいと死んでしまう』って聞いてはいたけど…心配でした。でも、先に死んでしまったのは【僕】だったんですけどね。その時、人生って皮肉で可笑しいモノだと分かりました」
わたしは、唯、うんうんと頷いていた。
「よくこういう場面をシミュレーションしてたんだ。でさ、其方には、懐かしい人も沢山いる…?あ、聞いてはいけないのかな?」
ジョンは優しい眼差しで笑って、
「まあ…。じきに分かりますよ。だから、今を愉しんで下さい、今をね」
流れの眺められる場所にある丸太に座り、太陽と雲と、光と影で、煌めき翳る変化し続ける水面を、ジョンと一緒にみていた。生命力溢れる緑の薫る心地良い小風が吹いて、長い髪が口に触れる。それを直す仕草を、ジョンが鼻を鳴らして笑う。そして同時に笑う。
(逢いに来てくれて、ありがとう)
(こちらこそ)
静かに目覚めた視野が斜めにぼやけている。目蓋が重い。開けられるか開けられないかを彷徨い意識が線を超えた。ああ、デスクで読書していたまま、いつの間にか眠ってしまったんだ。
足元には、リアルにチワワ。『早くオヤツを頂戴』と忙しく膝をカリカリしている。
今日も起きてしまった。