流れのなかで浮かんだもの
自分のことを知ることはもちろん大事だと思う。他者を通じて学ぶこと。人間関係によって理解すること。自分と他者、関係によって人間というものを知ることができる。
でも、そこに「いる」こととは分けていかないと勘違いする。学びはそこに留まることではない。
ただしいことをただしいと表現したり、大切なことを守ろうとするだけで捕まり、拷問を受けた時代がたくさんあった。
その果てに死んでいった人々がいた。その人々が死をもって貫いたものを受け取りたいと思った。
自分の汚なさ、弱さ、ずるさ、それらをごまかさず、日々の中で自覚していくのだけれど、同時に、守っていくもの… 歴史という通路を通って、ある精神のようなものが輝いている。
そこに気づいたなら、それを胸に抱き抱えて、かつてそれを抱き抱えながら生き抜き死んでいった人々の一欠片でも、輝かせてみたい。
光は自ら発光し輝くので、自分はただ抱えていればいいのですが、その光の輝きを隠さずに。輝きが表に出るようにして生きること。
ここには、今の時代であっても、命をかけるほどの思いがなければ、
" そのように生きたいと願った姿 " の人生として、中途半端で終わると思う。
願うことで終わらず、実際に抱え続けて生きられるのか。
死の中を生きるように。
この世という死が待っている。死をしっかりと迎え入れられる。それを全うできるだけの、しっかりとした結びつきの中で生きられるのか。
それとも、楽な方に流れるか。
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これは私の思いというより、投げかけられた問いかけなのだと思います。
なので書き留めておきます。