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Swords 3 についての思索、再び

#8 Adjustment の瞑想を手がかりに。

悲しみをそのまま悲しみとして扱う
それを思考につないでいかない

思考につなぐと 相手を憎んだり自分を正当化するための思考が生まれる

悲しみはあってもいい
そのまま思考につながる前に散らす 悲しみのまんま置いて前に進む


「悲しむだけ悲しんだら」というのは
悲しみを思考につないで逃げずに悲しみの中でとどまること。(それがビナーの実践?)
相手を憎む方向は、自分の責任を負っていない。
自分がしたことが間違ってなかったのならそれでいい。そのままでいい。
相手から何かされたとしてもそれは相手の範疇で、そこに責任を負う必要はない。
(相手の行為は相手側で発生したことであり、その行為においては責任は負わないでいいという意味)

でも自分の悲しみ、傷においては自分が責任を負う。

その理由は、ここに定義される。

柔らかくて優雅なダチョウの羽は、その形が左右対称であることから、正義と秩序を意味する女神マアトの象徴となった(自分が経験するあらゆるものに、個人的責任を認識することを示す)。

#8 Adjustment
『魔術師のトート・タロット』

悲しみ、痛みから逃げたいから、悲しみを思考につなぐのでは。

悲しみという感情だけは、向こうからやってくる気がする。
感情…感情は消えゆくもの。通過していくもの。
それを持続させたい「欲望」が、あたかも感情が消えずに残っているかのように幻想を作る?感情を思考と結びつけると、幻想ができるのでは。

楽しいのは終わったのに、ずっと楽しいままでいたくて、擬似的なものを作り上げる。
ずっと平和なままだと思いたくて、幻想を抱く。
相手を裁き、見下していたくて、被害者でいつづける。


そこから、いつでも離れられる。

相手がどう思おうと相手の自由。本当に自由。
それと同じように、自分が過去から離れるのも自由。
過去を終わらせ、ここでない生き方を願うなら、タロットの霊は喜んで私たちを連れて行ってくれる。
見下すことからも、被害者になることからも決別すると願うなら、フールは必ず、ここから私たちを連れ出してくれる。


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