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好き嫌いについての思索 2

前回の記事『好き嫌いについての思索 1』より
「主観的に判断あるいは断定する」偏った知覚の状態が、
意識を介してほぼ反射的に、他者に向かって起こされる。

どうしてそうなるのか。
その偏った知覚はどこからくるのか? 
ここから続けてみます。

※ 前回に引き続き、好き嫌いというテーマにおいて、好き嫌いを「偏見」すなわち "偏った知覚によるもの" の一つとして仮定し、思索を進めています

この "偏った知覚" は、後天的なものだろうか。
後天的なもの…私たちが生きてきた人生における環境、家族やその他関わりのあった人たちからの、あらゆる影響によるものだとしたら、もしそれらがなければ "偏った知覚" は起きないのだろうか?
生後まもない赤ちゃんなら、起こらないのだろうか?

乳児には、快・不快の反応がある。
最初は眠る環境だったり、お乳を飲むタイミングなど。やがて離乳食が始まると、快・不快が具体化されるように "好きなもの・嫌いなもの" が出てくる。着せる服にも、好みや拒否などが表れたりする。

また、乳児期にとって安心感というものは、必須栄養素のように非常に大切である。
安心感が脅かされる時、乳児は安心感を求めて必死に泣き叫ぶ。
脅かされるとは安心でない状態、不安を感じている状態と言える。不安なままでいられない、不安感にとどまることへの拒絶反応が、泣き叫ぶというアクションとして起こる。

安心感は快・不快の「快」となりうる。
不安は「不快」を通り越して、恐怖へ移行するかもしれない。
この「快・不快」および「安心感」という感覚は、生後まもなく生じる、根源的な感覚ということになる。

快・不快は動物的な感覚だ。
犬でも猫でも、当たり前のものとしてある。
たとえば、
快:風が気持ちいい、ごはんを食べて満足する。
不快:お腹は触られたくない、病院は嫌だ、等々。

不快の方は、突き詰めると安心感を脅かされるからではなかろうか。
動物の本能としての危機感、警戒心と結びついていると思う。安心感という観点では、乳児期の感覚とも通じるものがあるようだ。

「快・不快」および「安心感」が動物的な本能に起因するとしたら、そこから細分化していく "好きなもの・嫌いなもの" にあたる反応の根は、本能であると考えられる。
言い換えると "好きなもの・嫌いなもの" は、「快・不快」および「安心感」という動物的本能から生まれてくる、と言えるのかもしれない。

この2点の他にも、根源的なものがあるでしょうか?
今のところ自分には、この2点が始まりと思えるので、この流れに沿って、好き嫌いを本能と繋げて思索を進めます。

欲望は、「本能」にくいこんで存在する。あとからではない。生まれながらに持っている。赤ちゃんでも、隣の赤ちゃんと喧嘩する。

『#0 The Fool』の講義ノートより

本能・・から発する欲求、求めるという感覚は、好き嫌いと密接な関係があると思う。
近寄りたい、知りたいという心も、遠ざけたい、見たくないという心も、欲求であるから。
本能とは、私たちが生まれる前から人間の意識に染み込んでいるもの。
そうだとすれば、好き嫌いが少ない人や、そこに拘らない人はいても、それを持ってない人はいないと言えるのではないだろうか。

ここで、最初の思索の糸口: "好き嫌い" は "偏った知覚" から来る に戻って、この本能とつなげていくと、

好き嫌いは、偏った知覚の状態である。
それは本能の中にあるもので、根源的には「快・不快」および「安心感への欲求」から始まるのではないだろうか。
何を快・不快とするのか、どこで安心感を得られる/得られないというのは、個々の感受性や性質によって異なるけれど、「快・不快」および「安心感への欲求」という「本能」を根としたこの2つのものから切り離されて生きている人は、誰もいない。

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思索のプロセスがわかりやすく滑らかになるよう、もっと繊細に砕いていきたいのですが、少し広がりすぎたのか追っていきたいところから遠くなりかけてしまい、戻ってくる流れが強引だったかもしれません。

続きをまた書いていきます。


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