パン好きのひとりごと。
吉田篤弘さんの小説『それからはスープのことばかり考えて暮らした』に、サンドイッチの店が出てくる。
安藤さんという男性がひとりで営む店で、名前は「トロワ」。あんどぅ・トロワ。フランス語の「1・2・3」にかけている。注文したサンドイッチは、茶色の紙に白いインクで3だけプリントされた袋に入れてもらえる。ああ、こういう店が本当にあったらいいのになあと思いながら読んだ。
パンが好きだ。ご飯とどちらが好きか問われると迷うのだが、毎日のように食べている。最近、安いワインを飲むようになった。パンとワインのマリアージュは鉄板、相性がいいようである。こうした食事が自分の身体の肉と血になっているのかもしれない。
といっても、おしゃれな生活とはほど遠い日常を送っていて、基本的に精神年齢は子どもだから、焼きそばパンのような総菜を挟んだ調理パンも好きだ。カレーパン、ソーセージパンもいい。
フランスパン、クロワッサン、そしてイングリッシュマフィンだっておいしい。要するにパンであれば贅沢は言いません。あまり食に対するこだわりがないので、おしゃれなパン屋さんで買わなくても、近所のスーパーに並んでいるパンで十分に満足している。
食パンはそのままでもおいしいが、かりかりに焼いたトーストの香ばしい匂いにひかれる。上手にパンを焼けた日の朝の気分の歌を作ったことがあった。さりげない生活の中に喜びがあり、かっこつけなくても満たされるひとりの時間は尊い。
貧乏くさい話で申し訳ないのだが、食パンに挟むものがなかった空腹時に「こいつはどうかな?」とコールスローのドレッシングをかけたらうまかった。そもそもパンは小麦などの植物を原材料としているのだから、ある意味サラダと同じだろう(そんなことはありません)。もちろんレタスやトマトがあれば最高だけれど。
食パンの耳の部分を嫌うひとがいる。しかし、あれは魚の皮とか骨とか、食べられない部分ではないと思う(魚のそれらを食べるひともいる)。パンの耳だけ残すひともいる。フードロスが問題視される現在、耳もきちんと食べてほしいものだ。耳だけ残されたらパンがかわいそうだ。
幼い頃のことだが、近所のパン工場で切り落としたパンの耳だけを売っていたことがあり「はしパン」と呼ばれていた。学校の帰りに立ち寄って数十円の安価でどっさり分けてもらって、ビニール袋にぱんぱんに詰まった耳を抱えて帰った記憶がある。パンの耳は揚げてもおいしい。
介護施設で暮らしている田舎の母は、若かりし頃、時々家でパンを作った。こたつの中でイースト菌を発酵させて、オーブンで焼いた。ぶどうパンになったこともある。母がパンを焼くと家中の空気がふんわりと香った。いまはその匂いを思い出せない。
パン屋さんで売っている焼きたてのパンのような文章を書けるといいのに、と思う。あったかい匂いがして、かじると幸せになれる文章。吉田篤弘さんの小説は、まさにそんな感じだ。気取らず、奇をてらわず、手を抜かない、ていねいに焼き上げられた食パンのような文章を書けるようになりたい。
2024.01.19 BW