それでも世界は続く。『三体』と『ルックバック』から考える絶望の向こう側。
最近夢中になって観たドラマに『三体』がある。中国のSF小説が原作であり、ずっと気になっていた。第1話を見終わったところで止まらずに、3日ほどで30話すべてを観た。とんでもないドラマだった。
ちなみにNetflix製作のものではない。三部作のうち、第一作を映像化したドラマだ。簡単にあらすじを追いながら感想を書いていきたい。
冒頭では、世界中の科学者たちが「物理学は存在しない」という言葉を残して自殺する現象が起きる。その原因を解明すべく、各国の軍がプロジェクトを組む。
一方、中国で自殺した科学者を追う元警察官の史強(シー・チアン)は、ナノ技術の研究者である汪淼(ワン・ミャオ)を「科学境界」という組織に潜入させる。
科学境界では「農場主と七面鳥」という議論が行われている。人類は七面鳥であり、七面鳥の世界を超越した農場主の存在がある。祝祭日には農場主に殺されてしまうという、どこか宗教的な思想だ。
この怪しい組織に関わったとたんに、フィルムカメラで撮影した汪淼の写真に、謎のカウントダウンが刻印される。さらに彼の網膜自体に数字が映し出されるようになる。医師に診てもらうと「飛蚊症ですよ」という診察をもらうのだが、刻々と数字が変わる飛蚊症などあり得ない。
そういえば、少し前に観た『ANON アノン』も視界のハッキングを描いていて恐怖を感じた。
ちなみに自分も飛蚊症持ちだ。左目の上側に、常に糸くずのような影が見える。疲れてくると鮮明になる。これが視界の正面に見える状態になったら耐えられない。しかもタイマーのように自動的に数が減っていく異常な事態になったら、気が狂うかもしれない。
汪淼は医師にも妻にも理解されずに、やつれ果てる。カウントダウンが終わったらどうなるのか。苛立って叫ぶ。その後、科学的にあり得ない星々の点滅という怪現象が起き、科学境界の謎を探るためにVRのゲームを始める。
VRのゲーム内の世界は、登場人物たちをリアルに再現しながら、びみょうに変な動きのCGで表現される。仮想空間には3つの飛星が天空にあり、何度も文明が隆盛するが、飛星の熱で焼き尽くされてゲームオーバーになる。数えきれないシミュレーションを続けて、やがて仮想空間内の文明は発展し、高度な技術を持つようになる。
実際に古典力学には「三体問題」というテーマがあるようだ。科学には詳しくないが、3つの質量が影響を及ぼすとき、その軌道は計算が複雑になり推測不可能という。この三体問題が、仮想空間の3つの星と関連している。
なんだかおもしろくなってきたと思っていると、ストーリーが中断されて、文化大革命の時代に遡る。危険思想を持つ人物という批判を受けて父を殺された、葉文潔(イエ・ウェンジエ)のエピソードが挿入される。この部分が結構長い。長いのだが、目が離せない。
葉文潔は、自然保護を訴える文面を代筆する。ところが、もとの文章を書いた人物からは裏切られ、思想的に危険と判断されて捕らえられてしまう。監禁されて迫害を受ける。
その後、葉文潔は巨大パラボラアンテナの設置された紅岸基地に送り込まれる。基地で働いているうちに、彼女は遠く離れた天体からのメッセージを受信する。解読すると、地球よりはるかに高度な文明を持ち、3つの太陽を持つ三体星人からの警告だった。
簡単にあらすじを述べるつもりが1,000文字近く書いてしまった。
第29話のナノ技術を使った兵器など、まだまだ語りたいことはあるのだが、この辺にしておきたい。
このドラマ全体を通して考えたのは「絶望と、絶望を乗り越える力」だ。
絶望に直面したとき、人間はどう変わるか。
正直なところ、実験結果が仮説の通りにならずに「物理学は存在しない」と絶望して自殺する物理学者の気持ちは、分かるようで分からなかった。科学者や研究者のマインドに欠けるのかもしれない。
ただ、信じていた誰かに裏切られたあまり、絶望して死を選択するのなら分かる。思考や視界をハッキングされるような信じられない状況のために、生きていられない気持ちも分かる。信じていたもの、信じられないものという観点からは、科学者たちの絶望に通じるものがあるのかもしれない。
葉文潔は父を殺され、あわい恋心を抱きつつ代筆を手伝った相手から裏切られ、地球環境を破壊する人類に絶望する。結果として、人類は滅亡しても構わないと考える。彼女は常時クールであり、クールでありながら大胆な決断をしてボタンを押す。命綱も切断する。ただし利己的な思惑だけでなく、純粋に科学者の探究心もあったのではないか。
恒星の色は、温度が高くなると青白くなる。
激しい絶望も高熱になると、静かな青い色に変わるのだろうか。葉文潔の恐ろしさは、絶望の向こう側に超えてしまったことにある。激情に煽られるような状態であれば、まだ救いがあったかもしれない。ほとんど何も語ろうとしない葉文潔の絶望は、救い全般を拒絶している。
汪淼などのエリート科学者たちも、絶望のあまり酒浸りになった。対象的な存在が、元警察官の史強だ。事件を通して不幸な病を持つようになった彼だが、汪淼たちを故郷に連れ出し、大量のバッタたちが飛び回る蝗害(こうがい)の場所で、強く生きるように叱咤する。
大量の虫たちを殺すために、人間たちは殺虫剤など、さまざまな手を尽くしてきた。それでも虫たちの勢いは止まらなかった。やつらはたかが虫だが、生きることをやめない。そんなことを史強は語る。
さて。『三体』の話はここで切り上げて、別の映画を取り上げたい。
先日『ルックバック』というアニメを観た。『チェンソーマン』を描いた藤本タツキさん原作による。漫画を描く女の子ふたりの物語である。
学校の新聞に4コマ漫画を描いていた小学4年生の藤本は、不登校で引きこもりの京本と知り合い、意気投合して描き始める。彼女たちは合作により漫画賞を受賞するのだが、中学、高校と進学するにつれて進路が分かれる。その後、衝撃的な事件に襲われる。
休みを取れないほどの売れっ子の作家になった藤本が、次のように言いながら涙を流すシーンがある。
「書いても何も役にたたないのに」
そこには、引きこもりの京本を(漫画をふたりで描くことを誘って)外の世界に連れ出した後悔もあるだろう。深い絶望がある。自分の存在や能力を超えた事柄に直面したとき、無力を感じ、何もできなかった自分に後悔の気持ちが生まれる。
だから、藤本はあったかもしれない過去を思い浮かべる。この部分は説明がなく展開されることから解釈が分かれるかもしれないが、彼女の想像こそが創造の力である。藤本は過去を書き換える。クリエイティブの力で。
ただ、想像は現実の一部ではあるが、現実ではない。現実はやり直すことができなければ、巻き戻すこともできない。不可逆性の時間と空間のなかに、ぼくらは生きている。
映画『ルックバック』は、藤本の仕事部屋と漫画を描く後ろ姿の背中で終わる。それは「京本も私の背中を見て成長するんだな」という言葉と呼応する。京本がいなくても、過去に京本に告げた言葉が現在の藤本自身の背中を押す。藤本は漫画をやめない。絶望からみずから殺めることもない。
『三体』で物理学が存在しないために、科学者たちは次々に自殺を遂げた。しかし、汪淼たちは絶望しながらも生きた。酒浸りにはなったが、生きることを諦めはしなかった。
残酷なようだが絶望することがあったとしても、それでも世界は続く。声高に「生きよう!」と告げる必要はない。『三体』のドラマのラストでは、飛び交うバッタの群れのなかで、史強や汪淼たちは静かに乾杯をした。人類の科学が役に立たなくても、彼らは生きていくだろう。
そして、『ルックバック』では、空が夜に向けたグラデーションを濃い色合いに変えていく部屋で、藤本は漫画を描き続ける。何も言わないが、背中がすべてを語っている。
絶望しようが、それでも世界は続く。いまここで自分の世界を続けることに意義がある。絶望を乗り越える必要はない。受け入れてしまえばいい。
絶望を抱えながら、ぼくらは生きていく。
2024.11.10 Bw