人が人を裁けるのか
2017年に公開された是枝裕和監督の『三度目の殺人』を観ました。
福山雅治演じる弁護士・重盛が、供述を二転三転させる殺人容疑者・三隅(役所広司)や被害者の遺族に翻弄され、真実を追い求めていく姿が描かれた作品です。
昨日は「器」に関して書きました。
今日は「司法制度」についてです。
法廷は真実が究明される場所ではない
この映画に関する是枝裕和監督のインタビュー記事がありました。
是枝監督の言葉に対して様々な疑問や思いがでてきます。
そうした問題意識こそが是枝監督の狙いだったのかと思います。
その最たるものがこれです。
この作品のもつ問題意識を共有することが着地点だとしています。
釈然としないまま、え!そうなっちゃうの?
そうなるんだね。
そうかもね。
そうして真実はうやむやになっていくのか。
真実はわからないのが前提なのか!?
毎回、真実の究明などやってられない
職業としての弁護士からすると毎回、真実の究明していたら身がもたないのかもしれません。プロレスだって毎回、命削ってやっているわけではなく、エンターテイメントとして、ショーとして命がけでやっていると思います。
司法システムでは何らかの結論を出して幕を引かないといけない。
それはわかります。
でも置き去りになった当事者はどうなるのでしょう。
真実を究明してほしいと懇願する気持ちはどうなるのでしょう。
監督は、現在の司法システムのその先に何となく描いているものがあるのではないかと、しかしそれをはっきりと提示することもなく、国民の中の成熟した議論を待とうとしているのではないかとさえ思います。
西洋法の継受はうまくいっているのか
継受とは、「狭義には中世ヨーロッパにおけるローマ法の継受を意味するが,広義にはある国家または民族が他の国家または民族の法を主体的に,自己のものとして受入れる過程」とのことです。
日本は近代化において西洋のシステムをごっそりともってきました。あらゆる文化や宗教を受容する懐の広い日本の自然観でうまくとりいれたかにみえました。
でも司法の根源的な部分では相容れず、なかなか定着していないのではないでしょうか。大岡裁きがよかったかどうかわかりませんが、裁判というシステムがあまりうまく関心をもたれていないような気がします。