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「気づく者」たち

 ある日、同僚のすずめが叫んだ。
「もーっ!私、目ぇ4つ使って仕事してるのに、なんでこんなに給料少ないわけーっ??」

 …え?何それ。目ぇ、4つ…??

 当法人では子どもの学習支援事業も実施している。困窮世帯の子どもたちが無料で通う塾のようなものだが、当法人の<かなりや学習館>(仮)では不登校はもちろん、外国ルーツの子どもたち、何らかの障害があるだろうとされつつも障害者手帳取得に至っていない子どもたち、さらには放課後デイサービスで「無理です」と断られた子どもたち、高卒認定試験にチャレンジする成人も受け入れている。
 <学習館>の開催される週3日は、法人本部は実ににぎやかだ。学習室でボランティアの先生方から勉強を教わる。課題の勉強を終えて庭を駆けまわる。バトミントンやキャッチボール。口々にあれこれおしゃべりする。担当のすずめは、多い日には30人ちかくの子どもの様子を見ることになる。しかもそれは、迎えに来た保護者、ボランティアの先生方ともコミュニケーションをとりながら、なのである。

目ぇ4つ、耳8つ

――えーと、すずめちゃん。「目ぇ4つ」ってどういうこと?
「一度にたくさんの子どもが自由に動き回りますよね。だから私、自分の目が後ろにもついてる感じで子どもたちの様子を見てるんですよ」
――しかも子どもたち、一度に話しかけてくるよねえ。
「そうです、ま、耳は8つくらいある感じ?」
――というと…?
「『え?アンパンマンはキライ?あれ、さっきウルトラマンの話してなかったっけ?』『あー、わかるわかる。あれつまんないよね』『え?あの子が転んですりむいた?膝?』みたいに、一度にたくさんとしゃべってる感じ?」

 当時の私には「目ぇ4つ、耳8つ」の感覚はわからなかった。すずめがそういう風に一度にたくさんの子どもたちとやり取りしているのは見ていればわかる。それを「自分の感覚」として想像できるようになったのは、ひとりで一度に5人の子守りをしてからのことだ。
 すずめのやり方を思い出し、真似してみたのだった。
 確かにたしかに。子どもたちは一度に話しかけてくる。単に一人ひとりと断片的な会話をしていればいいというものではない。ある子と会話しながら別の子たちとババ抜きをしながら「アレ?あの子はどこか遠慮してるみたいだなぁ。話しかけてみるか」と目も働かせ、話しかけるタイミングを見計らう。もちろん話題も選定する。
 これ、同時進行で一度にいろんなことをこなしてるじゃん……これでミスなくやるって、相当な特殊能力……

ーー日々こんなことやってるなんて、すずめちゃん、スゴい!私、わかってるようで全然わかってなかったよ。マジ尊敬するっ!
「あはは。普段、ひばりさんは利用者さんと一対一の対応が多いからじゃないですか?」

 なるほど。
 他方、すずめには「身体が反応してしまう」私の感覚がわからないという。
(この感覚については下の記事に書いたので、ここでは割愛します)

 すずめの「目ぇ4つ」はもちろん「言葉にすれば」だろう。彼女は「後ろにも目がついている感じ」というが、実際には聴覚、場合によっては空気の振動を音だけでなく肌でも感じるという意味での触覚によって、まず何かを感じているのではないか。つまり聴覚や触覚を通して予測されたことを、微小な時間のうちに視覚で再キャッチ/再確認することを「目ぇ4つ」と表現しているという解釈だ。

五感の連動

 もう一人の同僚・つばめにも訊いてみた。彼女は「間合い」のとり方が実にうまい。私は利用者との距離を近めにとる「接近戦」タイプだが、彼女は近づきすぎず妥協もしない絶妙なスタンスをとる「オールラウンダー」タイプである。

 ――相手をどう感じて対応してるの?
「なんかこう、全体的に…オーラみたいなのを感じますね。雰囲気というか…」
――オーラ?
「うーん…今日は調子悪そうだな、と思うと、隣に座るときの間隔を広げたり…」

 つばめのいう「オーラ」も、どうやらメインの情報源は視覚のようだ。「オーラ」とは「空気を介して伝わってくる全体的でぼんやりした動態」というあたりだろうか。これもまた触覚的な知覚といえるだろう。視覚を触覚に変換しているのか。
 視覚中心に入ってくる情報を、私は体性感覚、つばめは触覚に変換してキャッチするようだ。他方すずめは、聴覚中心に入ってきた情報を瞬時に視覚情報に変換/同調させているのかもしれない。

 ん?これって、やり方はそれぞれ異なるとしても…五感を連動させて仕事してるってこと…?

 同僚たちに限らず、少なくとも私の周囲の「デキる」支援者たちもまた、それぞれがそれぞれのやり方で五感を連動させているように見える。
 例えば、こんな支援者がいる。訪問先のお宅のどこになにがあるかをパッと全体的に把握する。「郵便物を入れておく箱があるといいかも」という話になると「洗濯機の脇に良さそうな箱がありましたよ」と教えてくれるのだ。ご本人がどこにあるかわからなくなった書類などを発見するのも上手い。道に詳しいだけでなく、地域を地形として俯瞰的に把握してもいる。
    「空間認識に長けている」としか言いようがない、独特の知覚を持っているようなのだ。

 こういう能力は1日や2日の研修で身につくものではない。そもそも研修で身につく類の能力ではないだろう。
 なるほど、すずめがボヤく通り、確かに給料が安すぎる。「高度な専門性」と呼んでも差し支えないのではないか。
    何か加算がついたっていいはずだ!
 
叫ぼうではないか。
 なんでこんなに給料少ないわけーっ??

共通感覚

 …えー…コホン。
 連動する五感が統合的に感知される、このような感覚。哲学者・中村雄二郎さんはそれを<共通感覚>と概念化した。出発点は<コモン・センス>という言葉のもつ二つの側面である。

コモン・センスには、社会的な常識、つまり社会のなかで人々が共通(コモン)にもつ、まっとうな判断力(センス)という意味があり、現在ではもっぱらこの意味に解されている。けれどももともと<コモン・センス>とは、諸感覚(センス)に相渉って共通(コモン)で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に相渉りつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力[引用者注:ルビ「センス」]、つまり<共通感覚>のことだったのである。

中村雄二郎1979『共通感覚論 知の組みかえのために』岩波書店, p.7

  中村雄二郎さんによると、この<共通感覚>が中世ヨーロッパまでは〈コモン・センス〉の主流の意味だったが、近代以降、人々の知覚が「視覚優位」になっていくとともに「常識」の意味が前景化していったという。ヨーロッパ中世世界では聴覚がもっとも優位だったが、対象化、抽象化してものを見る近代世界のなかで「五感の序列」の組み換えが起こったというのだ。
    視覚優位の現代、<共通感覚>は「底流」になった。逆に言えば、底流をそっと探ってみれば、その指先は私たちの日々の仕事と一体化した感性に触れることができますよ、ということではないか。

気づくこと

 <共通感覚>や、西洋近代の「科学の知」とは異なる「臨床の知」(これも中村雄二郎さんですね)。
 あるいは、言語化困難なかたちで行為遂行を支える、マイケル・ポランニーの「暗黙知」。
 ソーシャルワーク実践が、こうした記述困難な知、伝達困難な知によって支えられていることはもちろん研究者たちも知っており、各国で考察や調査のテーマのひとつとなってきた。

(ただしそれはビジネス界での「ナレッジ・マネジメント」の流行の影響下にあったのか、流行が下火になるとこの手の研究も減ったようにも感じますが、さておき)

 日本では例えば、熊本学園大学の中村俊也さん。彼は中村雄二郎さんの「臨床の知」や<共通感覚>を手がかりに、過去の自分の現場経験や教員としての実感を織り交ぜつつ、「ソーシャルワークのグローバル定義」を読み解くなかで「理論と実践の乖離」問題の整理を試みた(中村2016, 2017)。

 静岡県立大学の鈴木俊文さんは、マイケル・ポランニーの「暗黙知」概念を軸に、特別養護老人ホームの認知症ケア現場での参与観察とインタビューを行った。
    そこに出てくる介護職員Aさんの言葉は深い。

A さん:記録として残さなきゃいけないものはね(日誌やカルテの記入)そういうのは誰がやるっていうのは明確にしてるよ。でも現場のケアは自由。特に身だしなみに関することとかは基本的に業務が決まってないから、介護職員が気付かないとやらないものになっちゃうね.

鈴木2013a: 37 強調は引用者

「記録として残さなきゃいけないもの」と「気付かないとやらないもの」。

   程度の差こそあれ 、どの現場でも義務づけられた仕事と、そうでない仕事との両者があるだろう。言うなれば、制度化され記録に残すことが義務づけられた<業務内>と、そのような規定がなく誰にも義務づけられていない<業務外>という区分である。<業務外> は「気づかないとやらない」ものであり、Aさんはそれを「現場のケアは自由」と文脈づけた。<業務外>の「自由」のなかでの「気づき」は、言わば「やらなくてもいい」仕事を増やしていく。だが入所者の尊厳はそれによって守られていることが、義務化されない「身だしなみ」を例に示されている。

 もちろん<業務内>にもマニュアル等の指示が行き届かない細かな余白があって、現場人はその小さな余白を自らの細かな「気づき」や試行錯誤を通して埋めることで、熟達していくと思われる。
    だが<業務外>の領域はそれよりも格段に広い。あらかじめ線画が施された塗り絵を塗っていくことと、真っ白な画用紙に絵を描いていくことの違いとでも喩えられようか。

今しかない!

 Aさんがある入所者の爪を切ろう、切ろうと思っていても機嫌が悪いなどの理由でなかなか切れない日々が続いたある朝、切るなら「今しかない!」と判断したエピソードが出てくる(鈴木2013a、2017)。

 この「今しかない!」という感じ、すごくわかる。タイミングが全てとなる瞬間。「支援計画」とは次元の異なる時制で生起する瞬間が、現場には確かにある。

 Aさんは、その入所者に声をかけたときのかすかな反応などから感覚的な根拠を得て「今しかない」と判断した、と鈴木さんは分析する。声をかけるという行動がまずあって、そこから解釈の根拠を得て、判断が下されるのだ。

…Aさんが行ったケア実践には、「解釈」 を得るための何らかの行動が「実践」されることで判断に至るという2つの側面が存在している。言い換えれば、この2つの側面が結合することによって「判断」が行われているのである。「解釈」と「実践」によって決定づけられていく「判断」は、ケア実践の中で連続性を持って進められる為に、因果関係として、その構造を捉えるには難しい面がある。

鈴木2013a: 42

 利用者から何らかの兆候を感知し判断し、次の行為をおこし、それによりまた兆候を感知し判断し……という、不確実性のもとで織りなされる連続的過程、「気づくこと」
    つばめのいう「オーラ」は、この過程を隠喩的に表現したものと理解できる。本人目線では、このようにしか表現できないのだ。

 それと自覚されないまま、いつしか養われた<共通感覚>に根ざす暗黙知的なスキルは、対象化、抽象化してものごとを捉える近代的なまなざしのもとでは見落とされがちだ。「客観的」「科学的」に描出することがまず不可能だからだ。
 そのためこの手の研究は、程度の差はあれ現象学的方法に頼らざるを得なくなる。中村俊也さんのように、研究者がかつて現場にいた頃の記憶や心象、つまり個人的な経験に足場を得たうえで議論を展開する方法は、そこに由来するのかもしれない。
 鈴木さんの研究は、現場人本人が隠喩的にしか語れないものを、フィールドワークとインタビューを通して別の角度から捕捉したものとして読める。
 現場とアカデミアは、同じ問題を間に挟んだあちらとこちらで、それぞれもどかしさを胸に、試行錯誤を続けているのかもしれない。ああ。

熟達の逆説

   「自由」な現場の<業務外>の仕事は、そもそも記録に残すことを義務づけられない領域、制度やマニュアルの外部で即興的に、時には密やかになされるとともに、「気づく者たち」を育む場となってきた。程度の違いはさまざまだろうが、<業務内>で得られた「気づく」能力を<業務外>へ拡張し発展するのを後押しするような「自由」な現場もあれば、<業務外>のことが禁じられた「自由でない」現場もあるだろう。

    ここから、2つの問題が見いだされる。

 一つめは、<業務外>のことを極力禁じる「自由でない」現場は、「これ以上は気づいてはならない」という暗黙の制約を伴うという問題だ。<業務外>を禁じれば、「気づくこと」もまた制度やマニュアルの許す範囲内でしか許されなくなる。
 例えば。
 時折、どこで覚えたのか妙にわざとらしい、作為的な猫なで声を出す現場人がいる。この作為性が実は利用者にも容易に見抜かれるという問題は、制度やマニュアルの内側に留まっていては乗り越えられない。わざとらしかろうが何だろうが、業務として指定された最低限のことをこなしていればよいからだ。
 そこで、自らのわざとらしさに気づかないフリをしながら、あるいは実際に気づかないまま、日々をやり過ごす。それが嫌ならば、利用者に自分の誠実さがより伝わるよう<業務外>の世界、「気づかないとやらないもの」の世界に足を踏み入れるほかなくなる。

 だから「現場人が育たない」と制度やマニュアルをいっそう精緻化させたり分業を促進させたりすることは、現場人の「自由」度を下げて熟達を妨げてしまい、逆効果となる可能性があるのだ。

 もうひとつの問題は「気づく者たち」をどう評価するかである。「気づき」は主に<業務外>で発揮されるうえ、スキルを支える<共通感覚>や暗黙知のあり方は個人レベルでも現場レベルでも異なる。「目ぇ4つ」と「オーラ」をどう比較すればよいのか。記録に残らないうえ、能力が個別的なので、評価のしようがないのだ。
 さらに現状では、現場人のスキル評価は突き詰めれば制度や政策、その中身を規定するマニュアル等の影響下にあるが、そこでは<業務外>は評価対象外とされ、極端な場合「勝手にやっていること」とされる
(じゃあ気づかないほうが得じゃん!となりかねないのである)
 そればかりか「気づく者たち」のスキルは、制度やマニュアルそのものの限界を露呈させかねない「危険なもの」にも転化しうる。だから「仕組屋さん」が「見てはならない」「無いことにすべき」と忌避しがちなのは不思議ではない。
(納得はしてませんです)

 ただし。
 不思議なことに、出会ってさして経たないうちに「この人、デキる…!」と直感することがある。逆に「この人は口だけ立派なタイプね」となることもある。こうした直感的評価は、他の現場人の評価とけっこう噛み合う。
 「気づく者たち」は他者の「気づき」について、何らかの評価基準を共有しているのかもしれない。それがどのようなものなのか、私もまだよくわからないのだが……


    ……えーとね、すずめちゃん。「目ぇ4つ、耳8つ」加算にはまだ時間がかかりそうだよ。
    待ってるうちに、あなたの手、今は6本だそうだけど、12本くらいに増えちゃうかも(笑)

(おしまい)

■文献
中村俊也2015「ソーシャルワークの知の構造(1) : 中村雄二郎の『 臨床の知』概念を手掛かりに」,『社会関係研究』21(1):65-91.
https://core.ac.uk/download/pdf/268243682.pdf

中村俊也2016「ソーシャルワークの知の構造(2・完) : 中村雄二郎 の『臨床の知』概念を手掛かりに」,『社会関係研究』21(2):1-33.
https://core.ac.uk/download/pdf/268243686.pdf

鈴木俊文2013a「認知症ケアにおける介護職員の暗黙知による判断の分析(1)-ケアプロセスにみられる機能的構造-」『静岡県立大学 短期大学部 研究紀要』23: 33-44.
https://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/media/20100415181726703009923.pdf

 鈴木俊文2013b「認知症ケアにおける介護職員の暗黙知による判断の分析(2)─ ケア経験のメタファー ─」『静岡県立大学 短期大学部 研究紀要』27: 25-34.
https://oshika.u-shizuoka-ken.ac.jp/media/20140415145718908597486.pdf

鈴木俊文2017「認知症ケアのアセスメントプロセスに内在する実践感覚の記述的研究」, 日本福祉大学大学院提出博士論文.
https://www.n-fukushi.ac.jp/gs/divisions/dc/degree/docs/paper/no65.pdf