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福祉現場の/で言語学
問題1 : 下の文章の( )に適切な言葉を入れ、文章を完成させなさい。
プチトマトを( )。
カッコ内には何が入りうるだろう。
食べる、買う、植える、育てる、摘む、洗う、切る、つまむ、干す、ほおばる、枯らす…
そのあたりだろうか。
だが我が職場、シェルター<かなりや>では、異なる回答も成立する。
プチトマトを剥がす。
どうでしょ?
福祉現場の/で言語学
日本語ネイティブの一人として、「プチトマトを剥がす」は文法的には間違っていないと思う。だが、小学校のテストでこう解答したら先生はバツをつけるだろう。
なぜか。大抵の人にとって、奇異だからだ。文意がわからないのである。「剥がす」は通常、「プチトマト」とは結びつかない述語である。「剥がす」はその前提として「何かにピッタリとくっついた状態にある対象」を必要とする。しかし日常的には、プチトマトに「何かにピッタリとくっつく」性質は想定されていない。
逆に言えば、こういう奇異な文章であっても「プチトマトが何かにピッタリとくっつく状況」がどんなものかわかれば「ああ、なるほど」となるのだ。つまり、文脈情報が追加されれば文意が伝わるのである。
では、文脈情報を追加してみよう。
プチトマトを床から剥がす。
プチトマトがピッタリくっついている相手は「床」だった。さらに文脈情報を増やしてみよう。
潰れて乾ききったプチトマトを床から剥がす。
プチトマトであっても、潰れて乾ききれば、床にピッタリとくっつくのだ。この情景が想像できれば「プチトマトを剥がす」という文は、奇異というほどでもなくなるだろう。そのすぐそばで乾ききったベーコンも床に貼りついていれば、こんな会話だって成り立つ。
「私はプチトマトを剥がすから、あなたはそこのベーコンを剥がしてね」
こうなると、情景はいよいよハッキリしてくる。
ある部屋に、2人の人物がいる。その2人は、乾ききって床に貼りついた状態の食品を、床から取り除こうとしている。おそらく掃除をしているのであろう。
…と推論していただければ正解。そう、<かなりや>のスタッフが退所後の居室を掃除している情景である。
福祉現場にある者どうしであっても、こうした日常的情景を共有することはなかなか難しい。例えば大病院の医療ソーシャルワーカーには「床にくっついたプチトマト」は縁遠いことだろう(憶測)。患者が病院の床にプチトマトを落としても、潰れて乾ききる前に病棟スタッフが始末するからだ。
他方、地域包括支援センターのケアマネジャーにはスッと理解できるだろう(憶測)。介護保険申請が必要となり、初めて自宅を訪問した際に「あら床に落ちた食べ物が乾いて貼りついちゃってるわ、けっこう前から困っていらしたのかも」となるのは、珍しくはあるまい。
そのプチトマトを床から取り除くのを「自分がやる可能性のある作業」と捉えているかどうかによっても、「プチトマトを床から剥がす」という文の受け止め方は異なってくるだろう(憶測)。それを「自分の仕事」としてやったことがあれば「ああ、あれね」となるだろうし、そうでないなら、見たことのある「あの」情景と「プチトマトを床から剥がす」という文の意味とが脳内で関連づけられるまでに、少々時間がかかってしまうのではないか。
ソーシャルワーカーの「専門性」は「専門知識」「専門領域」だけでなく、こうした認知的多様性という観点からも吟味されていいだろう。きっと楽しいはずだ。
……( ゚∀ ゚)ハッ!
言葉を手掛かりにソーシャルワークを考える作業はきっと、言語学の専門家の興味も惹くに違いない!
言語学者に、存分にイジられたいっ!
…と、言語学者にウインクを送りたくなったりもするのである。
野生の専門用語
問題2: 下の文章の( )に適切な言葉を入れ、文章を完成させなさい。
グランド・キャニオンを越えて、( )に入る。
この場合、( )には何が入るだろうか?
ユタ州
64号線
グランド・キャニオンに行ったことがない私には、残念ながらこのくらいしか思いつかない。
では<かなりや>ではどうなるか。
グランド・キャニオンを越えて、コックピットに入る。
やはり文法的には問題がないが、奇異な日本語である。
<お見込みの通り>の暗喩表現なので、直喩加工を施すとともに、より現実的な会話文にしてみよう。
「訪問どうだった?」
「んー、グランド・キャニオン(のような場所)を越えて、コックピット(のような場所)に入る感じでしたね」
こう書くと、福祉関係者のなかにはピンと来る方もいるのではないだろうか。いたらいいな。
実はこれは、段ボール箱がたくさんある屋内の様子を指す表現である。
「グランド・キャニオン」は、大人の腰ほどの高さまで雑然と横積みされた段ボール箱が、床の上に広がっている様子を指す。明確な動線がなく、段ボール箱の層をまたいで移動せざるをえない。層状の起伏が広がっている感じがグランド・キャニオンを連想させるわけだ。
「コックピット」は、積み上げられた段ボール箱や家具家電が小さなスペースを囲い込んでいる様子を指す。箱や家具は合理的かつ機能的に配置されており、スペース内は飛行機のコックピットのように座ったままで必要な品に手が届くようになっている。居心地がよさそうだ。
このほか「Uボート」というのもある。映画『U・ボート』に出てくる潜水艦の船内のように、廊下の片側あるいは両側に段ボール箱や家具家電が積まれ、狭い通路を形成している状態を指す。例えば「玄関からUボートを通って突き当たり右の部屋がコックピット、左の部屋はグランド・キャニオン」という表現も可能だ。
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なぜ、これらの比喩を用いるのか。
より効率的に現場のイメージを共有するためである。
間取り1Kのアパートを想定してみよう。玄関先からキッチンに段ボール箱が横積みになり、それらをまたがないと奥の居室に入れない状態の部屋である。この「段ボール箱が横積みになり、またがないと奥に進めない状態」(27字)を毎回このように表現するのでは効率が悪い。そこで「グランド・キャニオン」と表現するのだが、これにより27字は10字に圧縮される。「グランド・キャニオン」と聞くだけで「ああ、あのパターンね」となる。
段ボール箱がたくさんある屋内の様子を、その場を見ていないスタッフに、なるべく少ない労力で最大限伝達するため生み出されたのが、これらの暗喩なのである。
では、なぜ伝達しようとするのか。
いざとなったら、みんなで片付けを手伝うつもりだからだ。
層状に積まれた段ボール箱をまたいでの移動は、転倒の危険性が高い。そこで、いずれは片付け作業を手伝うことになるかもしれない、と想定するのである。
作業には当然、段ボール箱を開くためのハサミやカッター、畳んだ箱を束ねる紐、宅配ラベルを捨てるゴミ袋(可燃ごみ用)が必要になる。
またグランド・キャニオンの多くは、通販等での購入品が開封されないまま積まれていくことで形成される。なので事前に住人と、この品をどうするかを決めておかねばならない。
廃棄するのか。ならば、メインは燃えるゴミになる品なのか、リサイクルなのか、不燃なのか。
売却するのか。手段はメルカリか、ハードオフか。
箱から取り出して収納するのか。収納場所は確保できるのか。
箱を開けていき、一つひとつ、どうするかを決めるのか。その作業時間は確保できるのか。
「グランド・キャニオン」の一語には、こうした推論や手順がギュッと凝縮されている。アカデミアのチェックを受けていないフォークターム(民俗語彙)だが、これは「野生の専門用語」と言っても差し支えないのではないか。
野生の専門用語はきっと、あらゆる福祉現場に見出せるだろう。それぞれの現場で、どんな情報が、どんなふうに圧縮され伝達されているのか。その圧縮の背景で、いかなる文脈情報が共有されているのか。野生の専門用語は、ソーシャルワーカーの認知的多様性を示すデータの宝庫ではないかと思う。
現象を現象として
ただし、これらの表現に揶揄の響きを感じ取る人もいるかもしれない。怒りを感じる人もいるかもしれないし、傷つく人もいるかもしれない。
傷つくとしたら、どんな人だろう?
落ちた食べ物が乾いて床に貼りついてしまうような生活、未開封の段ボール箱が乱積みになった部屋での生活を、実際に送っている人々かもしれない。だが、私たちは歩み寄ることはできないだろうか。
「プチトマトを剥がす」は直球ど真ん中の表現のつもりだが、文脈を共有しない大多数の人たちには奇異に響いてしまう。「ふざけている」と受け取られることだって、十分にありうる。
しかしこうして言語化しないかぎり、私たちが床にくっついた食べ物などを剥がして掃除している事実はどこにも伝わらない。抽象度を上げて「居室の掃除」と表現した瞬間、それは「ごく簡単な作業」と受け取られてしまう。なぜなら私たちは、「プチトマトを剥がす」という文の意味が容易には伝わらない社会のなかにいるのだから。「プチトマトを剥がす」ような作業は、一般的な「居室の掃除」イメージのなかにさえ、組み込まれていないのだ。
だとすれば、落ちた食べ物が乾いて床に貼りついてしまうような生活を余儀なくされている人たちと、それを剥がして掃除している私たちとは、<共通の敵>を相手にしていることにならないか。〈共通の敵〉とはすなわち、「居室の掃除」を「ごく簡単な作業」とする先入観である。
ならば一緒に声をあげようではないか。
掃除を「ごく簡単な作業」だと思うな!
キミタチの想定の範囲内では居室の掃除は「ごく簡単な作業」かもしれないが、あらゆる人間にとって、あらゆる状況において「ごく簡単な作業」ってわけじゃないのよっ!
……さて。
他方「グランド・キャニオン」は暗喩なので、よりストレートに「段ボール箱腰高乱積(だんぼーるばここしだからんづみ)」と呼んでもいいかもしれない。別の暗喩、例えば「千畳敷」でも構わない。
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正直に言おう。「グランド・キャニオン」は、同僚たちと初めてこのパターンの情景に出会ったとき、たまたま連想した表現だ。経験を積むうちにそれが<野生の専門用語>として定着していった。「グランド・キャニオン」には「段ボール箱腰高乱積」や「千畳敷」よりも明るくて元気が出る効果もある。「グランド・キャニオンに挑むぞー!」というノリで、カラっと明るく「お片付け、やったるぞー!」となれるのである。
そうは言っても、私や同僚が暗喩のもたらす利便性、時空間にかかわる情報を高度に圧縮して伝達できる利便性に屈していることに、変わりはない。
この表現で傷つく人がいたら、本当にごめんなさいと謝罪し、もうnoteやTwitterでは言及しませんと約束することしかできない。
ただ――
私や同僚たちにとっては、床に貼りついたプチトマトも、段ボール箱のグランド・キャニオンも、「単なる現象」に過ぎない。日常生活上の困難をもたらしているのなら、解消するのが望ましい「単なる現象」である。
それは当事者の「人間性」や「人格」とはまったく別物である。言うまでもないが「プチトマトが床に貼りついたような部屋にいる人々」に共通の人間性や人格などありえない。もちろん経済状況、体調、抱えている障害や病気、年齢、性別も多様だ。共通しているのは「プチトマトが床に貼りついたような部屋で暮らしている」ことだけなのだ。それが苦しければ、全体状況をみてタイミングを調整し、一緒に片づければいい。ただ、それだけだ。
居室の状態を暗黙のうちに「人間性」や「人格」などと結びつけてしまう偏った価値感覚を手放し、この手の現象を「単なる現象」として捉えることが社会の共通認識になれば、当事者も恥ずかしさや後ろめたさといったネガティブな感情を抱く必要がなくなる。
そうなったら、こんな会話だって成り立つかもしれない。
「ウチの台所、グランド・キャニオンになっちゃいまして」
「広さは?」
「四畳半です」
「標高は?」
「40cmくらいですね」
…あらま、やっぱり変な日本語が出てきてしまった。うーむ、これは福祉現場の宿命なの…?
あああ、言語学者の人!
早いとこ、イジりに来てください~!
(おしまい)