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グリーフ哲学をー他者という存在

自分は自分だから。そういうときには余計、自分でないものが自分のなかに意識されている。でなければ、自分は自分だからなんて言えない。つまり、自己は他者があってこそ自己と言えるもの。自己とは他者がいなければ、自己が自己で在り続けることができないものなのです。

ただ、自己のなかで、自己を他者よりも優位に立てなければ、自己を他者にもっていかれ、他者に自己を乗っ取られることになります。優位と言っても、それはあくまでも自己のうちのことだけれども、他者との距離も重要。遠かったら自己は肥大するだろうし、近くになると、自己は窮屈になります。あまり近すぎると他者の存在を忘れてしまうし、近ければ近いほど、配慮しなくなります。

けれども、他者がいなくなると自己は維持できません。身近な他者ほど、自己の存続に関わっている部分が大きいので、大切な人を失ってしまうと、自己喪失という状態に陥ってしまいます。悲しいのは、失ってはじめて失ったものの存在の大きさに気づくということでし。それくらい、わたしたちは他者に依存して生きているのです。

「ほんとうの生活が欠けている。」それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから、形而上学は、「べつのところ」「べつのしかた」「他なるもの」へと向かっていることになる。(E.レヴィナス著『全体性と無限』、熊野純彦訳、岩波書店)

「ほんとうの生活が欠けている」とは、他者依存的な自己の在り様を言っています。「べつのところ」「べつのしかた」「他なるもの」へ向かうとは、レヴィナスの言葉を借りれば、「それは、ひとが死に向かってゆくときのように、絶対的な他性、先取りされることのない他性におもむくこと」です。

自分とは何か、人間とは何か?という根本的な問いかけは、自己が存続の危機にあるときに発せられるものです。そういう問いかけは、単なる人間的な欲求ではなく、絶対的な他性への渇望です。欲求とは、あらゆる意味で、人間には欠かせないものなのです。

究極の絶対的他者とは、レヴィナスによれば、無限なものです。絶対的他者は無限なものですから、汲み尽くされることも、所有されることもありません。人間は有限ですから、無限が何たるかを知りません。だけれども、人間は有限だという自覚は、無限があることを知らなければ湧き起こってきません。

レヴィナスの絶対的他者については、もちろん、ここだけでは語りえないものがまだたくさんありますが、自分にとって受け入れられない見知らぬもの、か弱きものもまた、絶対的な他性を有するものとされています。そういう汲み尽くせない超越した他者があるということです。そして絶対的他者に抗うことはできませんが、それは絶対的他者に導かれることでもあります。

絶対的な他性を志向することで、「べつのところ」に在る絶対的他者の領域には行けませんが、「べつのしかた」を模索しつつ「べつのところ」が垣間見えるところには赴くことができる。哲学とは、そういう境位にあって「べつのところ」とこの世界の両方を見渡しているものだと思うのです。

死者もまた絶対的他性をもつ者でしょう。知ろうとする可能性すら絶たれてしまう。死んだ後に、より自分がいかに夫を知らなかったのかを思い知らされました。夫の死そのものも受け入れがたく理解しがたいものです。

だからこそ、余計、生きる意味とは何かを考えてしまう。死者のもつ絶対的他性に導かれているのでしょうか。絶対的他者とは、実はその道筋を照らしてくれるようないつも共に在る他者なのでしょう。平時、その存在に、わたしたちは気づくことはありませんが。

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