昭和少年らっぽやん 第三話 外伝 「ギンヤンマ」
日本の一部地域では、トンボを捕まえる名人を「らっぽやん」と呼ぶ。
* * *
まだ日本が真珠湾攻撃をする前の昭和16年の夏休み、奥三河の「らっぽやん」タケシは、9歳年上で中学4年の兄のカズオに連れられて、よく近所の沼や川へ出かけた。昼間は小川のかいぼりをしてハヤやフナ、時にはナマズやウナギまで捕まえた。
「タケシ、魚の捕まえ方をよう覚えとけ。兄ちゃんがおらんくなっても、こうして魚をとって母ちゃんに食べさせりん。かいぼりやったら、タケシの力でも魚がとれるだらぁ。」
「うん。・・・にいちゃん、どっか行くんか?」
「もしもの話じゃ、もしもの。よし、今度はらっぽ採りしよまい!」
カズオはタモ網を持ってサッと一振りした。網の中には、
川辺の草に停まっていた、全身真赤なトンボが入っていた。
「ショウジョウトンボじゃ!キレイだらぁ!」
「うん。兄ちゃんすげー! これ赤トンボか?」
「赤トンボのように見えるけど、赤トンボじゃない。真夏のトンボじゃ!」
「顔まで真赤だがぁ! 兄ちゃん、すげーなー!」
「停まっとるトンボならタケシでも採れるで、やってみりん。」
タモ網を受け取ったタケシは川べりの草木をよく眺めた。
すると、杉の葉に留った黒い羽のトンボが、ゆっくりと羽を閉じたり開いたりしていた。
タケシは兄のマネをして、網をサッと一振りした。
「とった!」
「らっぽやーん!やったぞタケシ。うまいもんじゃ。」
タケシは、指でつかんだ黒い羽根と美しい緑色に輝く細い身体のトンボを見つめた。
「ハグロトンボじゃん。トンボはええなあ。小さくても羽根があるから、空を飛んでどこへでも行ける。」
「きれいじゃのお・・・」
「トンボは飛んでナンボのもんじゃ、そっと逃がしたろまい。」
優しく見つめる兄の目に促され、タケシは指を離した。ハグロトンボはヒラリと空へ舞い上がった。
と、その時、川沿いの小道を飛んできた一匹のギンヤンマが急上昇し、ハグロトンボを一瞬で咥え去った。
「あ!」
カズオはタケシからタモを奪い取ると、すぐに走り飛びしてタモを一振りした。そこにはハグロトンボを咥えたギンヤンマが入っていた。
カズオはギンヤンマとハグロトンボを引き離し、二匹ともそっと逃がした。
「ギンヤンマも食べんと生きてけんからなあ・・・。
でもオレならギンヤンマなんかに絶対につかまらん。」
カズオが中学を中退し、海軍第12期甲種飛行予科練習生(予科練)に入隊したのは、その年の秋だった。
それから3年以上がたった昭和20年正月、タケシの兄、カズオは厚木の第302海軍航空隊(通称302空)から北九州防衛のため、長崎の大村基地へ派遣されていた。
カズオからの手紙には、ゼロ戦に乗って連日のように来襲するB29爆撃機を迎撃し、3機共同撃墜、2機撃破という戦果と共に、B29はバカでかいギンヤンマのようなもので、上空1万メートルまで上がり、真上から突撃(直上方攻撃)すれば簡単に捕らえられると、誇らしげに書かれてあった。
正月3日、裏山から空を見上げたタケシは、蒼穹の彼方を銀色に輝く巨大な飛行機の大編隊が、美しい雲を引きながら、偏西風に乗って東へ向かって飛んでいくのを見た。
「ギンヤンマや!」
それはこの日、名古屋市内を空襲したB29の編隊だった。巨大なギンヤンマに、ゴマ粒のような日本の戦闘機が下から立ち向かっていくのが見えたが、編隊に近づいたかと思うと突然ボッと火を噴き、落ちて行った。
「ギンヤンマは上からや!上から捕まえるんや!」
あふれる涙をぬぐいながら、タケシは遥かな青空に向かって叫んだ。が、それ以上近づく日本機はなく、銀色に輝くB29の編隊は、何事もなかったように、偏西風に乗って東の空へ去っていった。
それは、ジュラルミンのギンヤンマたちによる日本全土への無差別爆撃への序章だった。
昭和20年に入ると、米軍に占領されたマリアナ諸島から飛び立ったB29が、毎日のように日本本土空襲にやってきた。
奥三河の「らっぽやん」タケシは、偏西風に乗って三河の空高く飛行機雲を引きながら飛び去って行くB29の大編隊を見上げながら、それをギンヤンマに見立て、届くはずのないタモを振った。春まだ浅き奥三河には、ギンヤンマはもちろん、ムカシトンボやサナエトンボすら、まだまだ姿を見せることはなかった。
4月、アメリカ軍に占領された硫黄島から、P51ムスタング戦闘機がB29の護衛について本土空襲に来るようになると、もはや性能に劣る日本の戦闘機では、一部のベテラン搭乗員以外まったく太刀打ちできず、ギンヤンマの大編隊による日本各地の都市の無差別爆撃を止めることはできなくなった。
九州から急遽、原隊の厚木基地302空へ呼び戻されたタケシの兄、カズオだったが、B29の邀撃で舞い上がる度、P51戦闘機に行く手を阻まれた。P51ムスタングは、カズオの乗る零戦五十二型より時速100キロ以上も速い。
カズオは厚木基地のベテラン特務士官から仕込まれた捻りこみの技を使って、速度ではかなわないP51を巧みに格闘戦に巻き込み、一回の出撃で一機落とすのが精一杯だった。
しかし仲間達はP51によって次々と自爆し、B29が都市部の住宅地に焼夷弾をまき散らすのを、ただ涙ながらに見つめるしかすべがなかった。いくら撃墜数を重ねても、アメリカの物量に適わないと身をもって感じるカズオは、認めたくはなくても、日本の壊滅的敗北が、もはや避けられないように感じていた。
大本営が発表する景気のいい日本軍勝利の放送に、日本の勝利を疑わない弟のタケシは、湧き水が細い流れを作る峠道で、地上3mほどを矢のように飛んでくるトンボを待ち受けていた。しかし、「らっぽやん」のタケシをしても、その黒いトンボを捕まえることはかなわない。
「くそ!」
やみくもに振り回すタモを、タケシは、後ろからサッと奪われた。
「兄ちゃん!」
「タケシ、そんなタモの振り方じゃ、ムカシトンボは捕まらんぞ。」
紺色の第一種軍装に身を包んだ兄のカズオは、タモを右手で垂直に構え、竿尻を左手の掌に載せると、力を抜き、じっと峠道の奥を見つめた。そして、突然、左手の掌を上へ弾くようにすると、タモがサッと真上に上がった。その中へ一直線に飛来した黒いトンボが、勝手に飛び込んできた。少なくともタケシにはそう見えた。
「やった!にいちゃん、らっぽやーん!」
タケシが叫ぶと、カズオはタモの中から黒く毛深いトンボを取り出した。零式戦闘機(ゼロ戦)の搭乗員だけに、抜群の動体視力を持ったカズオには、まっすぐ飛んでくるムカシトンボの軌道が見えていたのだろう。
「どんなに速くても真っすぐ飛んでくる奴は簡単じゃ。
殺気を敵に悟られずに待ち伏せすれば撃墜できる。」
「さすが、撃墜王の兄ちゃんじゃ!」
陽春の日差しの中、まぶしそうな笑顔を見せると、カズオは愛おしそうにムカシトンボを空に放した。
「兄ちゃんはいつまでいるんじゃ?」
「明日にはまた九州へ行かんとならん。沖縄に米軍が攻めて来とる。沖縄を守らにゃいかん。」
「兄ちゃんのゼロ戦隊が行けばアメリカなんかボコボコだらあ!」
「そうだな。」
タケシを笑顔で見返しながら、カズオは胸が痛んだ。
どう考えてもこの戦争は負ける。でもそんなことは絶対に言えない。
自分は志願して軍人になったのだから、国を守るために命は惜しくない。しかしこのままでは沖縄はおろか、日本中の女性や子ども達まで犠牲になる。何としても誰かがこの戦争を終わらせなければならない。
しかし軍人の下っ端である自分は命令に従って戦うだけだ。それがタケシたちを守るために自分ができる唯一のことなんだ。
そう自分に言い聞かせたカズオは、翌日、鹿児島の鹿屋基地に向かった。
らっぽやん、タケシの兄、カズオが転属したのは、鹿児島の鹿屋航空基地に展開する第七二一海軍航空隊、通称「神雷部隊」だった。
爆装した零戦の他に、爆撃機(一式陸上攻撃機)に吊るされ、時速800キロ以上で搭乗員もろとも沖縄沖の米軍の空母へ突入する必殺の人間ロケット爆弾「桜花」を装備した特攻部隊である。
しかし米軍はレーダーで事前に察知し、沖縄の遥か手前の海上で待ち構えた多数の戦闘機と駆逐艦の対空砲火で、桜花を切り離す前に爆撃機もろとも撃墜する戦術をとっていた。援護する零戦隊のカズオたちがいくら善戦しても、日本の爆撃機は桜花を抱いたまま、カズオたちの目の前で、炎に包まれ次々と撃墜されていった。
零戦隊も250キロ爆弾を積んだ爆装隊として特攻に出た。だが撃墜数の多いカズオはいつも直掩と戦果確認機だった。仲間が次々と突入していくのを見届けるのは、カズオにとって自分が死ぬよりも苦しかった。
ある夜、兵舎の外で風に吹かれていたカズオの横に、一人の若い中尉がやってきた。カズオはすぐさま立ち上がり敬礼したが、若い中尉はにこやかに「まあ座りましょう。」とカズオの横に座り込んだ。確か明日出撃する菊水六号作戦第十建武隊の小隊長、柴山中尉だった。
中尉は遠い彼方を見ながら優しい声でカズオに聞いた。
「星崎兵曹は、この戦争に大義があると思いますか?」
「大義、でありますか?それは、我が大日本帝国がアジアの盟主となって、アジア諸国を欧米の植民地支配から解放し、独立させて、大東亜共栄圏として欧米に対抗できる力を持つための聖戦だと思っております。」
「アジア諸国の欧米からの解放ですか・・・。それではなぜ、フィリピンやビルマでたくさんの現地人がゲリラになって我々日本兵を攻撃したり殺害したりするのでしょう。なぜ現地人に、母国語ではなく無理やり日本語を使うように押し付けるのでしょう。欧米の植民地といったいどこが違うのでしょう?」
柴山中尉の澄んだ目で見つめられて、カズオは言葉を失った。そんなことは考えても見なかった。
「いや、今言ったことは忘れてください。大義なんてどうでもいい。私は、私を育ててくれた両親と妹を守るために戦います。星崎兵曹、明日は私が無事空母に突入できるよう、グラマン(米国の艦上戦闘機)を蹴散らしてください。」
「はい!必ず、お守りいたします!」
カズオの敬礼に、柴山中尉は笑顔で敬礼を返すと、風のように立ち去って行った。
一人残されたカズオはただ茫然と立ち尽くすだけだった。
翌日、爆装(機体の下に250キロ爆弾を装備)した柴山中尉の零戦は、カズオの見守る中、米空母に上空から垂直に突入した。昨夜見せた迷いなど全く感じられない、そのあまりに壮烈な突入ぶりに、カズオは胸が張り裂けそうになった。
かろうじて帰還したカズオは、柴山中尉の言っていた「この戦争の大義」が頭から離れなくなっていた。
6月23日に沖縄が米軍の手に落ちて以降、カズオは、神雷部隊隠密特攻隊として喜界島に派遣された。そしてそのまま、喜界島派遣隊は忘れられたような存在になっていた。
海を見下ろす丘の上で寝そべっていたカズオの上を、一匹のヤンマが行き来していた。カズオはサッと腕を上げてそのヤンマを捕らえた。それはあの懐かしいギンヤンマだった。
「おまえはこんな南の島にもおるんか。」
カズオの手から放たれたギンヤンマは、勢いよく大空へ飛び上がっていった。その姿を見ながら、カズオは撃墜したB29を思い出した。
死んでいったアメリカ兵たちにも親兄弟や恋人や子供がいて、その人たちを守るために戦っているのだとしたら、自分たちと全く同じではないのか。なぜそんな人間同士が、お互いに殺し合わなければならないのか。
自由自在に空を飛ぶギンヤンマに比べたら、人間たちはなんて愚かな存在なんだろう。大東亜戦争の大義?そんなものあるわけがない。いや、そもそもすべての戦争に「大義」などないのだ・・・。
あのギンヤンマのように、自分も自由に楽しく空を飛んでいたい。日本人もアメリカ人も、いや、世界中の人が、みんなギンヤンマのように自由自在に楽しく生きられたら、きっと幸せだろうなあ。
そう思ったカズオの目から一筋の涙がこぼれた。
忘れられた特攻隊、神雷部隊喜界島派遣隊に突如出撃命令が出て、5機の零戦が出撃し、カズオを含む2機が沖縄沖の米軍艦船への突入を果たしたのは、日本国政府がポツダム宣言を正式に受諾する前日の昭和20年8月13日だった。
それは正式な命令として果たされた、日本軍最後の特攻だった。
※この物語は多くの資料を参考に、史実に基づいたフィクションです。
第4話につづく
作:birdfilm 増田達彦(2024年改作)