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【#理系の読み方 第4回】小説を〝使いこなす〟(前編)──小説のジャンルとゲーム性

〝良い小説〟は〝誰にでも読める小説〟なのか?

 前回は「小説のかたち」について考え、どうやら我々は「小説っぽい雰囲気のものを小説と呼んでいる」という当たり前の事実がバカにできないほどの重大さを持っているのを確認できました。
 起承転結など明快な展開を持つストーリーが文章で記されているものを小説と呼ぶひともいれば、文字が小説っぽく並んでいるだけで「小説っぽい」と感じるひともいます。この差異は個々人の「小説モデル」の違いに由来するもので、「小説とはこういうもの」という原理的な問題ではありません。小説を読みこなしていくテクニックは、この「小説モデル」を作品ごとに更新していく柔軟性にあるとぼくは考えています。
 小説に限ったことではありませんが、「その道のことをまったく知らないひとにも伝わること」が良い表現とする言説をたびたび見かけます。たしかに広く伝わることは良いことだし、簡潔な言葉や説明だけで一定の共感や理解を与えるのは美しくも感じるでしょう。ただそれは複雑で難解な細部を粘り強く検討する多くの専門家の仕事の上に成り立つというのを忘れてはなりません。一般性が高く簡潔な言葉で説明できる事象は、長い年月とともにそのように説明できることがわかったか、あるいはそのような言葉だけで説明できる程度の解像度にすぎないかのどちらかです。後者のようなものには注意したいものです。

 さて小説に話を戻しますと、「良い小説」は「誰にでも読める小説」なのかというのは気になる問題です。もっとも、厳密な意味の「誰にでも読める」という条件をクリアする小説はこの世に存在していないでしょう。
 最近ガブリエル・ガルシア゠マルケスの『百年の孤独』(新潮社)が文庫化となりましたが、世界的名著とされるこの本が「誰にでも読める」かと訊かれたら正直疑問です。この小説は、ぼく自身も強く影響を受けたし文句なく名作だと思うのと同時に、この小説を通読できるようになったのは小説というものにかなり慣れてきてからです。小説を読み通した経験があまりないなかで『百年の孤独』をいきなり読み始めるのは、言ってみれば運動不足のひとがいきなりフルマラソンを走るようなものです。
 小説のなかには、それなりのトレーニングを積んではじめて読めるタイプの作品があります。そうした意味で読書とはスポーツや芸術に近い性質を持っています。

ジャンルの功罪

 さまざまな小説を読みこなしていくためには、多くの「小説モデル」を習得することが不可欠です。
 これは将棋でいうところの定跡と同じだと思えばイメージしやすいかと思います。「こういう設定でこういう展開になるとこうなる」みたいなものから、「この小説独自の文章を作るためにわざとタブーを犯した〝悪文〟を使う」などたくさんあります。
 とはいえ、このような定跡をまとめた本やらブログやらで勉強してからじゃないと小説は読めるようにならない!……ということはありませんのでご安心ください。
 ちょっと背伸びするくらいの小説を手に取って、「わかんねー!涙」と叫びながら読んで、そういう小説があるんだというのを体験していくだけでじゅうぶんです。あせらず少しずつ、読める小説・・・・・を増やしていければ儲けもんだとお考えください。
 小説のかたち──起承転結などの展開フォーマット、文体設計、キャラクターの配置、お約束エピソード……あげ出せばキリがありませんが、無数の先行作品が作り上げてきたものを土台に現代の小説があります。そのうえで〝ジャンル〟というものを考えてみましょう。
 あまり責任をとりたくないので「ぼく個人の解釈では・・・・・・・・・」という逃げ腰の枕詞をここに置いてはじめますが、ジャンルというのは商売の都合です。小説の種類によって区分けがなされていると何より本が買いやすいし売りやすい。読者は本屋さんでめぼしい本を見つけやすいし、レーベルならば読者のターゲットを絞り訴求力を高めることができます。
 文芸ジャンルの定義といえば、「こんなものは純文学ではない!」「SFではない!」「本格ミステリではない!」など実にややこしい議論が起きがちです。たしかに世の中の小説には分類できそうな特徴というものは、あるにはあります。ただ、同時に分類が困難ないし分類を必要としない小説もありますし、複数のジャンルの特徴を同時に併せ持つ小説もあります。要するに、区分けというのは大なり小なり恣意的な判断が入り込みます。本来できないものをえいや!と切り刻んでいることさえあるのです。

 これは自然科学におけるスケールの問題と似ています。この連載でも何度か取り上げましたが、ぼくらが日常生活で遭遇するだいたいの物理現象はニュートンの運動方程式(古典力学)の範囲で説明可能ですが、原子一個とかめちゃくちゃ小さい領域の話になってくるとシュレディンガー方程式(量子力学)により説明づけることができるようになってきます。デカいものは古典力学、ちっこいものは量子力学……というのがかなりざっくりした区分けですが、じゃあ「デカい」と「ちっこい」を区分けしているのはどこかとなればかなりやっかいです。
 量子力学については詳しくないのでアレ¹⁾ですが、同様の「スケール問題」が熱流体分野にもあります。フーリエさんが考えた熱伝導モデルは温度勾配²⁾に比例して熱エネルギーが流れるというものでしたが、そもそも温度というのが原子・分子の集団的性質により定義される値でした。対象系が小さくなると極端な場合「原子一個の温度・・ってなんやねん」問題が発生し、温度・・の定義が破綻してしまう。だから局所平衡という近似に頼らない方法でなければ正確に現象を描写できなくなるわけです。
 対象系が大きければ運動方程式、小さければシュレディンガー方程式──ぼくが話しやすい例だと熱力学ではフーリエ則かボルツマン方程式かという話ですが──というのはわかりやすい分類ですが問題もあります。じゃあその中間はどうなっているのでしょうか?

図:ミクロスケールとマクロスケールのあいだは?

「線を引く」とは罪深い行為であり³⁾、またあらゆる意味でのトラブルはその恣意性ゆえに境界近傍で発生すると相場が決まっています。上図の赤い領域はメゾスケール⁴⁾と呼ばれるのですが、ミクロとマクロの双方の理論の両方を考慮したモデルを作るアプローチが行われますが、こうした問題は小説のジャンルを考える上で良いヒントになりそうです。
 いわゆる「ジャンル横断」とはまさにメゾスケールの小説なのです。

1) どれ?
2) 系の両端の温度差ΔTを系の幅Lで除した値。
3) 文学でこの「線を引く」という行為に強く踏み込んだ傑作にトマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』がある。
4) meso-scale。日本語ではメゾスケールともメソスケールとも訳されることがあり面倒くさいが、本連載では「メゾ」で統一する。

ぼくはなぜミステリ作家になったのか?

 ジャンルの問題を考えるにあたり、少しだけ作家としての自分のキャリアについてまとめます。
 大滝瓶太という作家は文学ムック『たべるのがおそい』(書肆侃侃房)に短編が掲載されてデビューしました。この雑誌は特にジャンルを限定してはいませんが、文藝春秋が刊行している純文学雑誌『文學界』の「新人創作月評」というコーナーで拙作も取り上げていただきました。システマティックな判断をすると「純文学の新人」としてデビューしたとも言えます。
 ただ、その後に積極的に純文学雑誌で仕事をしたかと言えばそういうことはなく⁵⁾、作品発表は『SFマガジン』(早川書房)という雑誌がメインでした。自分の小説にはよくウソの数学や物理の話が出てくるので、ドサクサに紛れてSF作家っぽい顔をしてやろうという感じでSF作家になったわけです。しかしここからいきなり流れを変え、これまで書いてきたものとはかなり縁遠い「本格ミステリ」を銘打って初の単著『その謎を解いてはいけない』(実業之日本社)を出版しました。ちなみに日本推理作家協会にも入会したので、「ミステリ作家」を自称しても噓にはならないはずです。
 プロ野球でたとえるなら育成契約選手的な作家だったので作風やキャラクターはほとんど認知されていませんでしたが、それでも昔から熱心に読んでくださっていた読者さんはいて、この突然のミステリ転向・・・・・・は「えっ!?」と驚かれました⁶⁾。もちろん、「本格ミステリの面構えで全然違うことをしてやろう」みたいな企みがあってのことでしたが、それが何かはもしご興味があれば拙著を手に取ってみてください⁷⁾。
 ちなみに本格ミステリ小説を自分で書くまで、ぼくにあったミステリの知識は小学生の頃に読んだ『金田一少年の事件簿』(講談社)だけでした。本格ミステリはなにゆえ「本格」と呼ばれるのかもわからなかったし⁸⁾、そもそもミステリ小説の良い読者ですらありませんでした。ミステリが苦手な小説読者にありがちかもしれませんが、犯人にもトリックにも興味がないというか、バーン!と提示された「謎」にはしらけてしまうというか……。
 それでもミステリ──特に本文中に事件解決に必要な情報がすべて提示され、読者に対してフェア・・・であることを重視する「本格ミステリ」というジャンルには前々から興味を持っていました。エラリー・クイーンの読者への挑戦状が象徴的ですが、このジャンルには読者との真剣勝負という、かなり独特なゲーム性が存在しています。
 このゲーム性を知りたくて自分でも本格ミステリを書いてみようと思い立ち、その準備をはじめました。
 幸運なことに、ミステリに造詣の深い先輩作家からもアドバイスをいただけたりして、新鮮な読書体験をたくさんできました⁹⁾。

5) 『早稲田文学』(筑摩書房)という雑誌で批評と短編を発表した。
6) 「大滝さんはもう〝文学〟をやめてしまわれたのですね」というメッセージを受け取ったこともある。
7) 進んだ注:突然の自著宣伝。
8) 今もあんまりわかっていない。
9) 先輩作家氏には「本当にミステリって読んだことなくて……」と話しているとき、「じゃあ私が試作品を読んでミステリ読者の勘所みたいなところをお伝えしましょうか?」と提案いただいた。しかしその後、著者は「オレ、最強のミステリひらめいちゃったんスけど、『容疑者全員犯人のミステリ』とかどうスか!?」みたいなことを口走り絶句させた。作家の「読んだことない」はだいたい謙遜だが本当に読んでないパターンがあるんだなと、先輩作家氏は感心したそうである。 

文学ジャンルとゲーム理論

 ところでみなさんは「ゲーム」という言葉にどのような印象を持っているでしょうか? 対戦相手がいて、ルールがあり、明確な勝ち負けがあり、それが娯楽になる……というイメージが一般的だと思います。白黒はっきりつくわかりやすさは快楽をもたらします。たとえばひとの人生を勝ち組/負け組とレッテルを貼ったり、断定不能の討論で反対意見を論破するのがエンターテイメントとなっています¹⁰⁾。
 では、この概念を小説ないし文学全般にくっつけてみるとどうでしょうか? なんかビミョーだなって感じられた方が多いかと思います。勝ち負けなどは特に象徴的な例ですが、これは分断の問題ともつながります。AでもなければBでもないもの、あるいはその両方であり得るものを無理やりAかBに押し込んでしまうのは暴力的でもあります。
 個人ではなく全体──第一回と第二回で扱ったカフカの話を思い出していただければ、それはシステムの圧力がもたらす不条理になるのかもしれない。つまり、勝ち負けや善悪などの対立軸を明確化するとリアリティが損なわれるわけです。
 J. L. ボルヘスは『七つの夜』(岩波書店)に収録されている「神曲」のなかで、〈偶然というものは存在しない、私たちが偶然と呼んでいるのは因果関係の複雑な仕組みに対する私たちの無知である。〉と述べていますが、むかしこれを読んだぼくは「複雑さ」が重要なのではないかと考えました。たとえば「ご都合主義」にリアリティを感じにくいのも、不条理な出来事に対して「そうはならんやろ」と感じるのも、つまりは「複雑さ」の欠落によるのではないでしょうか。
 小説は好きだけど本格ミステリにイマイチ興味が持てないという方は、この部分にぶち当たっているのかもしれません。

 ここで取り上げたいのが「ゲーム理論」です。
 ゲーム理論とは、数理モデルを用いて意思決定問題にアプローチする学問で、経済学や生物学など幅広い分野で応用されています。「囚人のジレンマ¹¹⁾」という思考実験でも有名ですね。
 経済学におけるアダム・スミスの「神の見えざる手¹²⁾」が問題提起となっており、その後、フォン・ノイマンやジョン・ナッシュなどの多くの学者によって研究が進められてきましたが、根底にあるのは統計力学からのアナロジーです。社会のなかで個々に利益を求めて経済活動する人間たちの振る舞いは、衝突によりエネルギーを交換する気体分子の運動と重なり、最適化問題に落とし込むことで経済構造を議論できます。もっとも素朴なモデルがチェスや将棋のようにプレイヤーが二人で、系全体の情報が両者にすべて開示され、互いの利益と損失の総和がゼロとなるものです。ここからプレイヤーを増やしたり、情報を不透明にしたり、プレイヤー同士の協力/非協力を考慮するなどモデルが拡張されていきます。
 実はこの発想にかなり近い小説がアイザック・アシモフによって書かれていました。彼の傑作SF『ファウンデーション』シリーズには「歴史心理学¹³⁾」というものが登場します。まさにゲーム理論のような数理モデルを使って文明や国の興亡を予言する……というものですが、その着想に統計力学の概念の説明がなされていたりします。三部作の長編ですが、2021年に東京創元社から『銀河帝国の興亡』というタイトルで鍛治靖子氏による新訳文庫が出ました。かなり読みやすいのでぜひ手に取ってみてください。
 ここで「ゲーム」という概念は、プレイヤーの利益を評価する値が成り立てば導入可能となります。たくさんのお金を得たい、懲役を減らしたい、長生きしたいとかもそうですし、いわゆる「恋愛工学」も恋愛を最適化問題に落とし込んだ発想です。核心にあるのは評価関数を最小/最大にする仕組みであり、いわゆる「勝ち負け」などの分断は表面上の見え方のひとつに過ぎない……と考えれば、「ゲーム性」と「文学性」は相反しません。

 ジャンル形成において、もっともこの仕組みが明瞭にみられるのはWeb小説群です。
 投稿サイトではページビューの数や反響などに応じた評価値が作品に与えられます。この値が大きければランキング上位となり、さらなる読者獲得が見込めるように設計されていて、この値を最大化しようと投稿者は試行錯誤します。サイトユーザーの積極的な投稿とレビューにより、高い評価値を出す作品の傾向が出現・強化され、いわゆる「異世界モノ」を代表とするテンプレート型の小説創作が確立されていきました。人気の世界観やキーワード、物語の型をいかに巧みに使えるかが特に重要視されるジャンルであり、評価値が高い性質を持つものほどその勢力を拡大し、爆発的に成長する。最適化問題のストーリーそのものに見えます。
 生物進化論と同様にWeb小説の発展がゲーム理論的であるのは、おそらく創作者と読者のコミュニケーションが投稿サイトにより促進されているからだとぼくは考えています。これはまさに気体分子が衝突によりエネルギーを交換するのに等しく、無数の相互作用にさらされたからこそ一定の構造に至った。
 しかし同時に、Web小説の最大勢力が「異世界モノ」になったのは偶然なのではないかとも思います。もちろん、サイト設計やユーザーの特徴が「何がウケるか」に大きく寄与してはいますが、複雑系の初期値鋭敏性──世間的には「バタフライ効果¹⁴⁾」と呼ばれる現象が起こっていたと考えてもいい気がします。なにかが少し違えばWebで流行っていたのは純文学かもしれないし、SFかもしれないし、ミステリだったのかもしれない! 気分屋の読者たちがたまたま大きな反応を示したのが「異世界モノ」だったのが、現在の非常に独特なWeb小説カルチャーの種となったのかもしれません。
 また、これはなにもWeb小説に限った話でもありません。たとえば純文学の中短編に与えられる芥川賞にしても、候補作や受賞作に傾向らしきものはやはりあります。実際に、過去の受賞者で文学賞の競技性を指摘した作家もいらっしゃいますし、ラインナップをひと目見れば受賞しそうな作品・・・・・・・・¹⁵⁾もなんとなくわかる。ただ、その傾向というのは選ぶ側個々人の意思がダイレクトに反映された結果ではないでしょう。それこそ「神の見えざる手」のようなもので、個々人の主張が相互に作用して現れた「何者でもない全体の意思」です。要するにジャンルとは個人によって作られるものではありません。

 今回はここまでにします。
 以上のジャンルについての考え方を使って、次回こそ「本格ミステリ」を読んでいきましょう!

10) それって著者の感想ですよね?
11) ゲーム理論に関する有名な思考実験。その内容は二人の犯罪者AとBが別々に警察の取り調べを受けており、自白すれば刑を軽くしてやるという取引を持ちかけられるといったものである。しかし自白パターンにより懲役期間が以下のように変わる。
①片方が自白し、もう片方が黙秘:自白した者は無罪、黙秘した方は懲役五年。
②双方とも自白:双方とも懲役三年。
③双方とも黙秘:双方とも懲役一年。
この問題で重要なのは、AとBが協力可能かどうかにある。ふたりの情報交換が完全に遮断された場合、それぞれ自分の懲役期間の期待値を考慮したとき、最小値となるのが「自白する」という行動になる。しかし、ふたりが協力可能で「ふたり合計の懲役期間を最小にする」という目標を持った場合は「ふたりで黙秘する」が最善の行動になる。個人か組織か、どちらを優先するかにより最善行動が変わるゆえ「ジレンマ」と呼ばれている。
12) 『国富論』のなかで資本主義構造を示す言葉として使用された。個々人の私的利益の追求が社会的安定、つまり経済的平衡状態を作り出すと主張した。
13) 『ファウンデーション』の登場人物、ハリ・セルダンによって提唱された学問。現在では「社会物理学」と呼ばれる学問に近い性質がみられる。
14) 南米の蝶のはばたきが中国にハリケーンを引き起こすなど、無視できそうなほど小さな要素が系全体として無視できないレベルの現象に影響を与えるという話。
15) 受賞するとは言ってない。

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大滝瓶太
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