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城好きの書くことって大体似たような内容になる説:2

お城の話、続き。

端書き

前回、天守閣のあるお城らしいお城は、僕が好きな戦国時代にはほとんど活躍しなかった、ということに気づいたことを書いた。

それで天守閣や近世城郭が嫌いになったわけではないが、一方で「ではどんな所が戦国期のお城だったのか」「今までに行った所に戦国期の城はあったのか」ということを考えた時、ほぼ全く訪れておらずイメージすらほとんどできないことを卒然と自覚し始めた。
前回書いたように、天守閣等の判りやすい遺構がない城跡は、廃寺同然の遺跡扱いして見向きもしていなかったのである。

しかしこのことは、僕の中で「近世城郭」と「戦国期の城塞」がはっきりと差別化される契機にもなった。
それまでの「城=天守閣のある近世城郭」と「城跡=石垣だけの近世城郭」というアバウトすぎるカテゴライズから脱却し、「戦国期の城はその2つのどちらでもない形態の史跡である」「それは判りやすい遺構もほとんど無く、観光地化もされていない」つまり、「積極的に探さなければ、知ることはできない」といったことに改めて気づいたのである。

例えば、ドライブの途中で道端に「○○城☞」という案内標識を見つけても、「城言うたかてどうせ何も残ってへんやろ、行かんでええわ」とスルーしていた。
最大でも、せいぜい安土城や竹田城のような石垣だけだろ、と。
今思えばクッソ贅沢な何様目線だと我ながら呆れるが、当時は本当にこのレベルの認識。しかも、安土城や竹田城は戦国山城ではなく、最初期の近世城郭である。

ついでに身の上話になるが、僕の故郷は兵庫県朝来市、母の実家の隣町で産まれそこで3年ほど育ったのだが、その母の実家は兵庫県朝来市和田山町竹田、竹田の城下町である。僕自身もほぼ武田城下に産まれ育ったと言っていい(要は他人にはそれで通して自慢している)。

前回、姫路城や大阪城が身近すぎて城に対する感覚が狂ったと書いたが、それは竹田城にも当てはまる。近世城郭なら姫路城、山城なら竹田城。城跡を評価するハードルの土台が高すぎる。
その上、何度も書くがずっと「城=天守閣」の一般人だったので、幼い頃祖父に竹田城向かいの山上に連れられて、「ほら、お城がよう見えるじゃろ」と示されても「えっ、どこどこ?」と天守閣を探す有様で、竹田城すら城扱いしていなかった。今になって「天空の城で産まれましたwww」とか寒い自慢をする資格などない。



「城好き」とは

竹田城は近世城郭のはしりなので立派な石垣が築かれ、それはいくつもの好運と関係する人々の努力により、現在に至るまで良好に保存された(竹田城の保存現況に対する意見は……長くなるので割愛。城好きとしても郷土愛からも、快くは思っていないとだけ)。

しかし、それ以前の本格的な戦国期の城はそうもいかない。いくつかの主要な城は竹田城や姫路城のように近世城郭に発展したが、他の大多数――恐らく全国で万を超える数の戦国城塞は、構造からして総石垣の近世城郭とは異なるし、廃城となった後はただ打ち捨てられ、自然に還っていくか近代以降の開発の波に呑まれるのみである。

「城言うたかて何も残ってへんやろ」どころではない、何も残ってないのが普通、むしろ「ここが○○城跡」と一般に案内できるほど調査や保存されているだけでも凄いのだ。
そのような城すらスルーしていたのでは、戦国期の城に本当に触れられる機会は、小谷城や月山富田城といった、相当なレベルで保存/観光地化がなされている代表的超名城に立ち寄った時しかなくなる。

しかし、それらの城はドライブのついでに気軽に立ち寄るような所ではない。最初からそこを目的として、一日がかりの登山とまでは言わないまでも、気合いを入れたハイキング程度の準備と心構えが必要である。
もう少し近隣で城の規模を落とした置塩城や八上城にしても根本的には同じで、「どこでも何でもいいから、自分の琴線に触れる変な場所で、気軽に立ち寄れる所」という僕の歴史文化観光のスタイルとは、戦国城塞は相容れないのだ。

城好き、城跡趣味の実態が知られている以上に高尚で、言ってしまえばである理由がここにある。
「お城によく登ってるんですよ〜」とか言うガチな人にとっての城とは、第一義は戦国山城なのである。姫路城なんかにも当然行くが、語弊を承知で言えばそこで満足する者はライト層である。真の城好きではない。

真の好き者は、である。山に登る。登山家に準ずる健脚でなければ務まらない。むしろ、登山道など整備されていない薮山にも普通に山城遺構は存在するので、そこに平気で突っ込んでいく城好きは登山家以上の山人だと言えるかもしれない。

名もなき山の道なき道を掻き分け、そこに常人では見いだせない古城の痕跡を見つけ出すことに躍起になり、その見地を得ることに無上の幸福を覚える。真の城好きとは、他の全ての者が「ただの山」だと断ずるモノを、「素晴らしい第一級の史跡である」と言い切って憚らない境地に至れる者である。

要は繰り返すが趣味としては非常に高尚で、高度な専門的見地を必要とし、最終的には体力勝負でもある。
僕は近隣の史跡や文化財を巡る歴史文化観光を意識して始めた時、「一番好きだしまずは城跡中心に〜」ぐらいの軽い気持ちだったのだが、この実態を知り、網羅することはすぐに諦めた。
何しろ県下だけでもムリョ数百から1千弱、多すぎる上にその大半が車で登れない山城である。

多くの真の城好き、ガチな方々は当然歴史文化に対する造詣も深く、僕と同等以上にあらゆる史跡を精力的に巡っている。
しかしそれはほとんど「城巡りのついで」であり、例えば車で行ける国宝の寺と車で行けない無名の山城が並んでいたなら、まずは城に登る。僕は寺に行き、城の方は山の高さを見て高ければ諦める(比高100m以上)。
山城は、僕が巡る史跡や文化財の中で特別に優先度が高い対象ではないというわけだ。



山は城、城は石垣

なので山城に対する専門的知識は素人同然で、城好きを自認するなら必携である『日本城郭大系』すら所持していない(ガチな方はここで読むのをやめていい)。
この趣味を説明し始めた記事で、「歴史そのものではなく、歴史を伝える史跡の方が好き」と書いたが、戦国時代に限れば、それは逆転すると言えるかもしれない。歴史を知ってるからいいや、と妥協しがちになる。

妥協する理由は、車で行けないからというアクセスの問題の他に、個人的な史跡的価値の扱い方にもある。
何度も書いたように、「何も残ってないから」と遺跡扱いしてスルーしてきたモノである。「そんなことはない、ほらこんなに見事な堀切がここに」とかガチな方々は言うわけだが、これも上記したがそれを識別できる専門的見地をついに養えなかった。

我流の修行の成果で、ドライブをしながら「あの山は多分お城だな」とか、「○○城跡☞」という案内標識の指す山並みの中から「あの山だな」というのは漠然と判るようにはなった。
しかし実際に登ってみても、どこが堀切やら土塁やら、自分が今歩いている道は犬走り跡なのか後世の登山道なのか、皆目見当がつかない。主郭/本丸は流石に判別できるが、それ以外の構造は標識があってやっと、「そう言われればそんな風に見えてこないこともないでもない」というレベル。
元より城跡だと一般的にもはっきりしている山でこれである。ガチな界隈でしか知られていない、山城サイトで初めて存在を知るような、保存もへったくれもない城だとどうなるか、推して知るべし。

城の保存状態を評価する基準は、「城とは縄張りである」という価値観にあると前回書いた。
縄張り遺構が残っていても、それを自身が識別できないのなら、僕にとってはその城は「ここに城がありました」と書いてある石碑と同等の史跡的価値しかない。
神戸の和田岬に建つ「兵庫城跡」の石碑や、大阪の大都会のド真ん中に建つ「野田城跡」の石碑と同じ、「それがどのような城だったのか」、現地に立ちながら縄張りを推し量ることもできないのである。

それでも、その「石碑の形態をした史跡」を主体としてせっせと見て回っているが、当然感動は乏しい。山城も行ける限り巡ってはいるが、この「石碑同然」以上の価値を覚える城は非常に少ない。
必然、そのような判りやすい城でないと足が遠のく。山麓の城址碑や説明板だけで満足し、頑張って登って実際を見てみるか、とはならない。

この僕にとっての史跡的価値、判りやすい山城の基準は結論から言うと「石垣」である。竹田城のような本格的な総石垣まで望まずとも、深い山道に卒然と現れる崩れた石組み、それだけでもその山が確かに城だったのだと実感できるのだ。

いや、逆に「石垣がないと城だと判らない」と言う方が正しい。縄張り全体を判別できない以上、唯一判別しやすい石垣に頼っているのである。
戦国期に築かれた無数の城や砦、その大半にそもそも石垣構造が存在しないこと、また石垣の有無はその城の規模や用途に必ずしも関係しないことは承知している。石垣の有無を持って、その城が史実的/学術的に「いい城」かどうかなどと評価するつもりは毛頭ない。
しかし、自然地形と堀切や土塁の区別が付かない無学な者にも、石垣だけは明確な人工物として認識できるのは確かである。その意味から、僕は石垣に堀切や土塁等よりも優先的な史跡的価値を覚えるのである。

当然その量も多ければ多いほど感動も大きく、車で行けない城でも石垣が大規模に残っていると聞けば極力頑張って登っているし、「いつか登らないといけない城」リストも溜まっていく一方である(先述した置塩城や八上城など、県下には大規模な石垣山城が結構多い)。
まあもちろん車で登れるようになるのが一番なので、近年の城ブームで有名どころは車道が整備されないか、一縷の望みで待っていることは否定できない。戦国山城ではないが、利神城が近年国指定史跡になり整備され直したと聞いたが、つまり廃道だった車道も治したってことかしらん?  とか。

ガチな方々(しつこいな)にとっては噴飯物の価値観だとは思うが、竹田城ですら「石垣だけの城なんて」などとディスっていた人間が、「石垣がないと城に見えない」とまで言うようになったのである。一応そこそこの進歩ではないか、と個人的には思っている。まあニュアンス的には「せめて石垣はあって欲しい」なんだけど。



お城まとめ

転じて石垣そのものが大好きになり、前回書かなかったが近世城郭に対する評価も、実は石垣が大部分を占めるようになった。伊賀上野城や丸亀城、松坂城等の石垣が有名な城はもちろん、彦根城に行った時も国宝の現存天守よりもその裏手の石垣が強く印象に残った。薄暗い山肌に渾然となって、塀すら乗っていない無骨な石垣群が複雑に折り重なっている光景に圧倒され、それを持って「いい城だな」と再認識したほど。

なお数は少ないが、石垣がなくとも堀切や土塁の多くが僕でも一目で識別できるほど良好に保存整備され、しかも車で主郭のすぐ近くまで登れる山城は存在する。
河内長野市の烏帽子形城や白山市の鳥越城など。鳥越城は城門等が復元されているため一目瞭然の城跡だが、烏帽子形城も「山城や戦国時代に全く知識がないド素人」でも、「何か自然地形とは違うな、人工的だな」と判別できる、初心者に優しいお城である。

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↑烏帽子形城。

また、似たようなものでは「近世城郭から石垣を取っ払った」ような、戦国時代後期の平城や平山城の縄張りがほとんどそのまま保存されている例もある。
三木市の三木城や松山市の湯築城など。藩の主城として残った近世城郭ではなく山城としての構造/醍醐味も乏しい、一見中途半端な城跡ではあるが「戦国時代の実戦的な城」を山に登らずに実感できる、大変貴重な史跡である。平地にあるにも関わらず開発されることなく保存されたことも併せて、ほとんど奇跡的な存在とすら言える。

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↑湯築城全景。

回り回って城好きというか石垣オタクになった僕だが、これらの「石垣がなくてもちゃんとお城」という雰囲気が味わえる名城とその保存活動にも、最大限の敬意を抱いていることは記しておきたい。
全国全ての山城をこのレベルで保存してくれたら、「山城ったって、どこが城だかわかんねーよ」などと己の無知を棚に上げた文句を吐き散らすこともないのだが。
まあ無茶か。万超えてるし。

最後に、物凄く今更だが「城跡」の定義について。
大別すると3つに分類され、そのうち2つは近世城郭と、それ以前の(9割方戦国期の)城塞である。
残る1つは、言うなれば「ミニお城」「お城もどき」というようなもので、「城に準ずる施設の跡地全て」と僕は解釈している。

「城=その地の領主が住む所」の立場で言えば、戦国期までの領主館跡や、江戸期に城を持てなかった小大名や旗本の陣屋跡が該当する。
また、軍事施設としての城や砦を重視して、その延長である古代の神籠石や幕末の砲台跡(いわゆる台場)も「城跡」として分類されている。

これらの「第3の城跡」も当然片っ端から見て回っているわけだが、ここでも僕の評価の基準は言うまでもなく石垣である。
普通の城跡より規模が小さいぶん、「せめて石垣はあって欲しい」の要求度も上がる。まあ神籠石なんかは石垣そのものの呼び名なので、無条件で大好き。
陣屋や代官屋敷については、現存建築物である例も多いのでその場合もポイントは高い。

こんな感じで、本格的な山城に登れないからその憂さ晴らしの意味合いも強いのだが、とにかく盲滅法に巡っている。

しかし、灯台下暗し、自宅から徒歩3分の丘にある神社が、どうやら城跡らしいことに最近気づいた。
20年近く住んでいて気づかず、『日本城郭大系』にも載っていないようで、「それってもはや城と呼べるのか?」とか思ったりもするのだが、知る人ぞ知る地元の観光案内には「砦跡」と明記されているし、ネットを探せば律儀に散策にきているガチの城好きの方もいたので、まあ間違いないのだろう。

「どの山が城跡っぽいかぐらいは判る(キリッ」とか上で書いていたのが馬鹿みたいである。まあ余りに近すぎるし小さすぎる丘なので、遠景を見る機会がなかったと言い訳しておく。
神社の境内が主郭だったのかな?  遺構を見る目が皆無なので判らない(「主郭は流石に判る」とも書いた記憶……)。

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